2025年4月11日金曜日

医王山 金光寺

 医王山 金光寺は、伊豆大島町元町四丁目にある曹洞宗の寺院。

長谷川木綿店古帳 差引帳 「平坂彦兵衛船済口 一三州平坂彦兵衛船、去ル酉九月廿四日出帆日和無御座同所昨之嶋幷勢州安乗浦ニ逼船致、十月十二日彼地出船段々乗下り、同廿九日豆州下田江入津、翌十一月朔日朝同所出帆致候所難風逢行衛相知不申候由色々取沙汰仕候ニ付積合中相談之上浦々江飛脚相定吟味為致候所何方ニ茂居合不申、尤上方船是壱艘大嶋へ流寄破船いたし候由風聞御座候所、同朔日夜大嶋差木地村欠原与申所ニ而弥々破船相違無之、然レ共夜中殊ニ大四時何国共一向相分り不申船頭も散々ニ相成銘々命相助り申度岩角へ取付上乗水主都合七人三ヶ所ニ而陸江這上り声限ニ呼呼候得共一向答も無之無是悲人里ヲ相尋難舟之趣相届ヶ候所早速□嶋付御役人中御立合御見分之上人足御差出候相□□水主□□荷物御取揚被下候所追々死骸揚り候ニ付御吟味之上同所 金光寺へ土葬ニ御片付夫ゟ日々役人御立合荷物御取揚被下候へ共汐取懸敷キ場所故揚荷物無数、然共放嶋之事故致方茂無之分一差出候上乗賄預ニ而干立荷物仮船へ積入、当戌二月九日当地へ入津仕、則嶋御掛り御代官 江川太郎左衛門様御役所相届ヶ右一件相済候ニ付 鳥居武兵衛殿方ゟ荷物請取先格之通振勘定相済シ申候、尤浦入用不残町内ゟ相払候得者船槽之儀者町内勝手ニも可相成之所 鳥居殿幷賄与七ゟ合力致呉候様相頼候ニ付船槽之儀ハ船元へ合力致遣ス、其外溺死香典幷ニ相残り水主共へ心付左之通り 一金弐両ハ船頭へ香典 一金六両ハ水主六人へ同断 一金弐両ハ上乗嘉助心付 一金弐両ハ賄与七江同断 一金六両壱分ハ水主五人江同断 〆金拾八両壱分也 右之通合力致遣候、尤船頭不取計ニ而広太之荷物相捨り候得者合力致筋合者決而無之候得共大勢之者共溺死致候上気之毒ニ致候ニ付格別之了簡を以右合力いたし遣候、旦亦右大嶋之儀流人嶋ゆへ通路難相成難船之様子一向不申参候所彼嶋表御吟味厳重成ル事ニ而海状抔茂甚タ入念候□故数日相掛り前文之通り漸々、当二月上旬荷物積来、則海状も到着致早速 鳥居殿ゟ持参致□□□とも殊之外永キ事故右帳江者留置不申別紙ニ究置申候 一浦状壱通 一済口証文壱通 一元通諸勘定帳壱冊 一心付金請取書壱通 〆 一前文之通り於大嶋彦兵衛幷ニ乗組大勢溺死仕候ニ付町内評義之上右之亡霊旦者海上為安全、戌三月廿一日本所回向院境内江石碑幷ニ位牌相建月牌付置、同日施家鬼供養相頼銀符持参一統参詣仕候所殊之外叮嚀成義、則諸入用左之通り 一金拾三両ハ石碑幷ニ地代、施我鬼供養料、外ニ方丈江薬代 右之通町金ニ而出金いたし、尤口々書付別紙有之候ニ付一封ニ改大波籠江仕舞置候間□物ニ者相記不申候、以上 行事頭 蛭子屋六郎治 嶋屋六兵衛 戌三月」

寛政二年(1790)三月、平坂彦兵衛船済口は、三州平坂彦兵衛船松吉丸破船事故の覚である。三州平坂彦兵衛船は、寛政元年(1789)九月二十四日は、天気悪く一色町佐久島、阿児町安乗に出港できず、十月十二日に出港、二十九日に伊豆下田に入港、十一月一日に出港するが嵐にあい、一日夜、難破し伊豆大島南部の差木地村欠原に漂着する。溺死した乗組員七名は金光寺に埋葬された、大島は流罪の島のため処理に時間がかかり、翌年三月二十一日に大伝馬町太物仲間は、海上安全、溺死者供養の為本所の回向院に石碑建立、施餓鬼供養を行った。

回向院境内大伝馬町組太物問屋仲間石碑「勢州白子三州高浜船溺死一切精霊」「大専道悲信士 水主荘吉、大通慈門信士 水主伊助、□□本鏡信士 親父長兵衛、大棟梁聖信士 船頭彦兵衛、大幻恵空信士 飲食徳三郎、大演喜法信士 惣右衛門、大念持経信士 水主長松」「三州 各霊位 平坂」「寛政元己酉年」「霜月朔日卒」「世話人 行事 長谷川六郎治 岡本六兵衛 寛永二年戌三月」 蛭子屋六郎治は長谷川六郎治、嶋屋六兵衛は岡本六兵衛、太物問屋行事当番は、いずれも伊勢松坂の江戸店である、供養碑が現在も回向院境内で見ることができる。(小津史料館 小西良明)

曹洞宗ナビ 医王山 金光寺

2025年4月10日木曜日

浅草門跡地中 真福寺

 浅草門跡は、浄土真宗東本願寺派本山東本願寺のことで、真福寺は、その境内にある子院。

小津家文書5-193 「奉公人請状之事 一此忠三郎与申者生国ゟ能存知慥成者ニ付、私請人ニ罷立去ル未九月ゟ来卯五月中年八ヶ年季給金弐両ニ相定、貴殿江手代奉公ニ差出申所実(㊞)正也 一御 公儀様御法度之儀者不及申、若取逃欠落致候ハヽ早速当人尋出し取逃之品相改、私引請(㊞)急度相渡可申候、且諸勝負事堅為致申間敷候事 一宗旨之儀者代々一向宗ニ而、浅草門跡地中真福寺旦那ニ紛無御座候、若御法度之宗門与申者御座候ハヽ、何方迄も罷出申訳可致候 一金銀御預ヶ被成他国江買物等ニ被遣候節、又者御当地ニ而も取引ニ被遣候節、勘定相違引負等致候ハヽ、私引請相済貴(㊞)殿江少茂御損掛申間敷候事 一此忠三郎儀ニ付、惣而何様之六ヶ敷儀出来候共私引請埒明、貴殿江少茂御苦労掛申間敷候、且年季明御縁御座候而御召仕被下候内者、何ヶ年ニ而も此手形を以私請人ニ罷立申候処相違無御座候、為後日請状仍如件 両国駒止橋藤代町家主惣七店 請人 与兵衛㊞ 人主 太兵衛㊞ 天保八丁酉年五月 小津清左衛門殿」(端裏書)「忠三郎改由兵衛」

天保八年(1837)五月、奉公人請状は、忠三郎が小津清左衛門本店に勤めるための契約書です。忠三郎は、文政五年(1822)生で、天保六年(1835)九月~天保十四年(1843)五月まで八ヶ年季給金弐両で働く契約書で、江戸は一向宗真福寺に戸籍を置く。元服し由兵衛と改名、天保十三年(1842)三月、年季明け前に初登りを行っている。天保十四年(1843)人別改には二十二歳、本店十四番目の位置にあった。(小津史料館 小西良明)

浄土真宗東本願寺派 真福寺 東京都台東区西浅草1-6-13

浄土真宗東本願寺派 本山 東本願寺 https://www.honganji.or.jp/index.shtml

2025年4月9日水曜日

松坂領 西之庄村 毘沙門寺

 毘沙門寺は、三重県松阪市西之庄町228番地にあった真言宗醍醐派の寺院。八重垣神社の別当寺、明治初年廃寺。

小津家文書20-348 「松坂領 西之庄村 昆沙門寺 護摩修行相務申度段願出、右相済候折柄停止中ニ付延引相成候処、明十四日ゟ右護摩修行相務申度、且為賑合手踊躰之もの一ヶ所致させ申度段願出右願之通相済候事」(端裏書)「清左衛門様 帳付清輔 差上置」

安政六年(1859)、西之庄村 昆沙門寺 護摩修行延引の願届で写しであるため差出人は省略されている。村の名主、組頭など代表者奥印にて紀州藩代官所に願書を差し出す決まりである。松坂大年寄小津清左衛門に松坂町会所帳書 井手清助が報告した覚書である。(小津史料館 小西良明)

2025年4月4日金曜日

豆州 石室山

 石室神社(いろうじんじゃ、いしむろじんじゃ)は、伊豆半島の最南端に位置する石廊崎の突端付近、静岡県賀茂郡南伊豆町石廊崎にある神社。石廊権現(いろうごんげん)や石廊崎権現(いろうざきごんげん)とも呼ばれる。神仏習合の金剛山石室権現として人々の崇敬を集めた。江戸時代には韮山代官所を通じて徳川幕府から米2表の寄進を受けたという。伊豆七不思議のひとつで当社にまつわる「石廊崎権現の帆柱」の伝説が生まれたのはこの時代であるとされる。明治初期の神仏分離により石室神社と称するようになった。(石室神社 - Wikipedia)

長谷川木綿店古帳 「覚 一豆州石室山石燈籠寄進一昨年中ゟ願来り□□候所此度神主出府願来候ニ付一同相談之上左之通 一金五両也 出方余時丁金ゟ 右之通□附金相渡候事 行事 大黒屋三郎助 蛭子屋六郎次 天保九年戌四月」

大伝馬町太物問屋仲間が、豆州石室山に石燈籠を寄進した覚である。石室山は、金剛山石室権現のことと思われる。(小津史料館 小西良明)

南伊豆町観光協会 石室神社と熊野神社

2025年4月3日木曜日

加太 淡島神社

 加太 淡嶋神社(あわしまじんじゃ)は、和歌山県和歌山市加太にある神社。全国にある淡島神社・粟島神社・淡路神社の総本社である。人形供養で知られ、境内一円に全国から奉納された2万体にも及ぶ無数の人形が並んでいる。江戸時代には、淡島願人(あわしまがんにん)と呼ばれる人々が、淡島明神の人形を祀った厨子を背負い、淡島明神の神徳を説いて廻ったため、淡島信仰が全国に広がった。(淡嶋神社 - Wikipedia)

長谷川木綿店古帳 差引帳 「覚 一此度紀州加田淡島大明神、本所回向院ニおいて開帳ニ付御着当日迎イニ出呉候様紀伊様御勘定所ゟ□印元両行事江御願有之、いせ去々おいて組之相談有之由処無拠儀ニ付組々割振致シ十組一統ゟ弐百人余も増上寺御参納迄迎ニ罷出候、町内之儀無拠ニ付一同相談之上行事五人平四人同様迎ニ罷出候事 行事 大黒屋三郎助 蛭子屋六郎次 天保九年戌五月」

「覚 一加田淡島大明神開帳ニ付十組ゟ開帳中取持ニ罷出呉候様紀伊様ゟ御願有之達而御断申上処□而御頼ニ付組々いせ云々□へおいて相談之上四徳印両行事十一組丈ヶニ而日々八人宛罷出可申□取懸り当組内之処茂当り日々両人宛罷出候事、尚又上ヶ柄之儀も紀伊様ゟ御願ニ付両行事ニ而取計奉納致候事 行事 大黒屋三郎助 蛭子屋六郎次 天保九年戌五月」

天保九年(1838)五月、紀州加田淡島大明神の本所 回向院において出開帳の覚である。紀州藩の勘定所より御願いがあり江戸十組問屋からは、行事五人平四人が増上寺で迎え、回向院の開帳中は八人づつ対応したようである。天保九年五月十五日より六十日間 淡島神社 神宝・虚空蔵菩薩 出開帳は、回向院において行われた。(小津史料館 小西良明)

加太 淡島神社 https://www.kada.jp/awashima/

2025年4月2日水曜日

井の頭弁財天

 井の頭弁財天は、都立井の頭恩賜公園内・井の頭池にあり、本坊は天台宗 明静山 大盛寺である。

弁天堂の周囲には、宇賀神像(年代不詳)、1771年(明和8年)の狛犬、手水鉢、1817年(文化14年)の石橋(一番組・湯屋講寄進)、1833年(天保4年)石燈篭(伊勢屋伊兵衛=現・にんべんら寄進)、など多くの寄進物が見られ、弁天信仰が盛んであったことを感じられる。(大盛寺 - Wikipedia)

長谷川木綿店古帳 差引帳 「覚 一井の頭弁財天四神殊已前当仲間ゟ奉納致有之趣、此度開帳ニ付右□□寄進願来り、昨十二月金拾両也奉納致候処猶又右之播茂□□敷趣を以□□願来無拠儀ニ付一同相談之上左之通 一金八両也 出方余時町金ゟ右之通致奉納世話人舛屋家主善兵衛殿江相渡候事 行事 大黒屋三郎助 蛭子屋六郎次 天保九年戌二月」

天保九年(1838)二月、井の頭弁財天の四神開帳に大伝馬町太物仲間より奉納金を世話人 舛屋家主善兵衛に渡した覚である。天保九年五月十五日より六十日間 井ノ頭弁財天開帳は、大盛寺において行われた。(小津史料館 小西良明)

井の頭弁財天 https://www.inokashirabenzaiten.com/

2025年3月28日金曜日

深川本誓寺地中 江月院

 深川本誓寺地中 江月院は、浄土宗 本誓寺の子院。

小津家文書5-202 「奉公人請状之事 一此捨吉与申者生国ゟ能存慥成者ニ付、我等請人ニ罷立当午年ゟ丑年迄中年八ヶ年季給金弐両ニ相定、貴殿江手代奉公ニ差出シ申処実正(㊞)也 一御公儀様御法度之儀者不及申御家之御作法為相守可申候、若取逃欠落等致候ハヽ早速当人尋出シ取逃之品相改、我等引請相弁可申候、且諸勝負事堅為致申間敷候事 一宗旨之儀者代々浄土宗深川本誓寺地中江月院旦那ニ紛無御座候、若御法度之宗門抔与申者御座候ハヽ、右寺僧何方迄茂罷出申訳可致候事 一金銀御預ヶ被成国江買物等ニ被遣候節、又者御当地ニ而も取引ニ被遣候節、勘定相違引負等致候ハヽ、我等引請相済シ(㊞)貴殿江少も御損御苦労掛申間敷候事 一此捨吉儀ニ付、惣而何様之六ヶ敷儀出来候共我等引請埒明、貴殿江少も御苦労掛申間敷候、且年季明御縁御座候而御召仕被下候内者、何ヶ年ニ而茂此請状ヲ以我等請人ニ罷立申処相違無(㊞)御座候、為後日請状仍而如件 大傳馬町弐丁目三番地 差配人 善右衛門店 請人 由兵衛㊞ 人主 喜兵衛㊞ 明治三午年三月 小津清左衛門殿」(端裏書)「改源八捨吉」

明治三年(1870)三月、奉公人請状之事は、小津清左衛門本店に勤務する捨吉の契約書である。明治三年から明治十年迄八ヶ年季給金弐両の契約である。元服して源八と改名している。

小津家文書8-265 「引取証 三重縣下伊勢国安藝郡三宅村 生田関治郎 伜 源八 右源八儀我等宿請仕貴殿方江雇人ニ願置候処今般依テ願永暇被下奉有難存候、則下拙迄引取申候、然ル上者当人儀ニ付如何様之事故出来候其我等引請貴殿江一切御迷惑相掛不申候、為後日引取一札依而如件 大傳馬町二丁目三十二番地 扇田豊治郎㊞ 明治十年丑十一月廿八日 小津清左衛門殿 御支配人中」

明治十年(1877)十一月廿八日、引取証は、証券界紙に書かれた源八退職願である。

小津家文書5-200 「奉願上候 今般源八儀依願御暇被下難有仕合ニ奉存候、然ル処源八所持之品物衣類夜着等迄御下渡シ被仰付冥加至極之至ニ奉存候、御礼奉申上候、已上 扇田豊治郎㊞ 明治十年丑十一月廿九日 ㊞ 小津御店 御支配人様」

明治十年(1877)十一月廿九日、源八退職願が認められた礼状である。

生田源八は、三重県鈴鹿市三宅町の出身で鈴鹿の寺から江月院に寺請している。明治三年三月の奉公人請状で同じ江月院は、源八、文松、佐兵衛の三人。(小津史料館 小西良明)

猫の足あと 江月院

2025年3月27日木曜日

深川浄心寺地中 唱行院

 法輪山 唱行院は、日蓮宗 法苑山 浄心寺 塔中の寺院。元禄8年(1659年)大経院日教が京橋で創建。(浄心寺 (江東区) - Wikipedia)

小津家文書5-199 「奉公人請状之事 一此捨次郎与申者生国ゟ能存慥成者ニ付、我等請人ニ罷立子年ゟ申年迄中年八ヶ年季給金弐両ニ相定、貴殿江手代奉公ニ差出申処実(㊞)正也 一御公儀様御法度之儀者不及申御家之御作法為相守可申候、若取逃欠落等致候ハヽ早速当人尋出し取逃之品相改、私引請急度相弁可申候、且諸勝負事堅為致申間敷候事 一宗旨之儀者代々日蓮宗寺者深川浄心寺地唱行院旦那ニ紛無御座候、若御法度之宗門抔与申者御座候ハヽ、右寺僧一同何方迄茂罷出申訳可致候事 一金銀御預ヶ被成国江買物等ニ被遣候節、又者御当地ニ而茂取引ニ被遣候節、勘定相違引負等致候ハヽ、私引請相済シ貴殿江少も御損御(㊞)苦労掛申間敷候事 一此捨次郎儀ニ付、惣而何様之六ヶ敷儀出来候共我等引請埒明、貴殿江少も御苦労掛申間敷候、且年季明御縁御座候而御召仕被下候ハヽ、何ヶ年ニ而も此請状ヲ以我等請人ニ罷立申処相違無御座候、為(㊞)後日請状仍而如件 深川佐賀町惣七店 請人 忠蔵㊞ 人主定兵衛㊞ 慶応元丑年八月 小津清左衛門殿」(端裏書)「周蔵 捨次郎」

慶応元年(1865)八月、奉公人請状 捨次郎は、元治元年(1864)~明治五年(1872)迄八ヶ年季給金弐両で小津清左衛門本店で働く契約である。元服して周蔵と改名、明治十七年(1884)、栄造跡支配人に就任した清水周蔵である。

小津家文書7-222 「資産御届ヶ 日本橋区大傳馬町壱丁目壱番地平民小津清左衛門出店主 清水周蔵 一平素之品行正郎 一家族無雇人四拾名 一所有不動産 一府下地処五拾三ヶ所 一同土蔵拾三ヶ所 一営業資本金拾万円也 一売買紙綿商 日本橋区大傳馬町壱丁目壱番地所有住居 〆 右各次之廉々相違無之候ニ付依而差配人連署調印仕直段数御届候也 右 清水周蔵 差配人 奥田直八 明治二十年十一月十一日 日本橋区長 伊藤正信殿」

明治二十年(1887)十一月十一日、日本橋区長 伊藤正信宛に提出した資産御届ヶの覚である、小津清左衛門本店の支店長は清水周蔵、差配人奥田直八。従業員は40名、東京の地所は53カ所、土蔵13カ所、個人商店の営業資本金は10万円であった。(小津史料館 小西良明)

法輪山  唱行院 東京都江東区三好1-3-19

猫の足あと 法苑山 浄心寺

2025年3月26日水曜日

龍松山 養泉寺

 龍松山 養泉寺は、三重県松阪市中町にある曹洞宗の寺院。小津清左衛門家ゆかりの寺で地蔵堂の寄進や、養泉寺末寺崇恩寺を松阪市上川町 長松寺の移築再建などがあります。長谷寺 能満院から奉戴した法華寺仏舎利は、本堂に祀られています。菩提寺としているのは、小津清左衛門家、分家森嶋家、分家小津権右衛門家、別家小津新兵衛家、新兵衛家の分家小津新七家です。

小津家文書18-244 「宗旨請込状之事 一高田宗貴寺檀那筒井孝伯弟貫之助 今般当地小津与次兵衛方へ養子ニ罷越候条、宗旨送状被差越候ニ付則禅曹洞宗当院檀那ニ致加入候、為後証仍宗旨請込状如件 松坂養泉寺印 天保七年申十一月 正全寺 宗旨請込状 養泉寺 右十一月十六日来ル□□ □□□□□□」

天保七年(1836)十一月、宗旨請込状之事は、貫之助が小津清左衛門家に入家するため宗旨替えとなり、今後正全寺の過去帳(宗門帳)から除かれ、養泉寺の過去帳(宗門帳)に記載されます。関連文書は正全寺に掲載。

「佛舎利奉戴縁起記 佛舎利奉戴法要記念 ・・・今回小津家に伝わり、代々丁重に供養されてまいりましたお釈迦様の遺骨である佛舎利を尊い因縁によって、養泉寺へ奉戴することになりました。この佛舎利は、奈良市法華寺町、真言律宗 法華寺(門跡氷室御所)ゆかりの佛舎利であり、「真言律宗 法華滅罪寺略縁起」によれば、法華寺は、光明皇后御願に成る日本総国分尼寺として創られた・・・現在の七年前十五代目清左エ門長倍氏(昭和三十八年他界)夫人博子氏(昭和五十七年他界)より佛舎利が代々継承されていることをお聞き致し、小津家と養泉寺との深い々佛縁を、更に強固なものにして戴くため、再三再四お願いを致してようやく御遺族全員のお許しを得て、奉戴実現の運びとなりましたこと養泉寺住職として喜跳に堪えません。・・・龍松山 養泉寺」(昭和六十三年五月十五日、抜粋)(小津史料館 小西良明)

八百万の神 龍松山 養泉寺

2025年3月22日土曜日

順光山 正全寺

 順光山 正全寺は、三重県津市安濃町粟加にある真宗高田派の寺院。

小津家文書24-513 「一札 私弟同姓 貫之助 今般願済之上其御地江聟養子ニ差進申候 一宗旨之儀者高田宗安濃郡粟加村正全寺ニ御座候、別紙寺送リ取添遣候 一貫之助 養子ニ指進申候上者向後御国法御取噯可被成候、勿論異議無御座候、為後日一札如件 津 筒井孝伯㊞ 天保七年申九月 小津與次兵衛殿」

天保七年(1836)九月、津の町医師筒井孝伯から小津與次兵衛に宛てた一札である。弟貫之助を小津清左衛門家の養子にする内容である。小津與次兵衛は、隠居名で小津清左衛門長澄のことである。貫之助は、小津清左衛門長柱である。別紙寺送リ取添は、宗旨送状の事である。

小津家文書18-245-1 「宗旨送状之事 一高田宗 筒井孝伯弟 二十六歳 貫之助 右是者代々当寺檀那ニ候処此度松坂小津与次兵衛方江養子ニ参候ニ付、当方宗旨相除送遣候自今以後貴寺旦那ニ御加入被成、為後証宗旨送リ一札如件 当国安濃郡粟加村 正全寺印 天保七年申九月 当国松坂 養泉寺 上包 粟加 宗旨送リ一札 正全寺」

天保七年(1836)九月、筒井孝伯家の菩提寺 真宗高田派正全寺から小津清左衛門家の菩提寺 曹洞宗養泉寺宛の宗旨送状である。

筒井孝伯家は代々蘭方医師である、菩提寺は正全寺、光沢寺で二ヶ寺とも真宗高田派寺院。津藩の藩医筒井朴庵の門弟は正全寺に石碑髭塚が建立されている。小津清左衛門家とは、七代小津清左衛門長保の妻慈源から縁戚が続き、九代小津清左衛門長澄、十一代小津清左衛門長柱は筒井家から入家した養子である。また筒井家縁戚の西井道仙義子は十二代小津清左衛門長篤である。分家森嶋文益は、筒井孝伯に入門し松坂本町で医院開業を行っている。(小津史料館 小西良明)

2025年3月21日金曜日

松生山 心海寺

 松生山 心海寺は、鈴鹿市若松中一丁目にある真宗高田派の寺院。開創時期は不詳ですが、天台宗から永正年間(1515年頃)真宗高田派に転じて現在に至っています。漂流した大黒屋光太夫の神昌丸の乗組員磯吉の菩提寺です。磯吉は光太夫と一緒にロシアから帰国し江戸に居住し、寛政十年(1798)十二月、若松村に一ヶ月余り帰郷しています。

長谷川太物店古帳 差引帳 「覚 勢州白子船、去ル寅極月中難破破船致、依之白子積問屋中相談難出来甚難渋ニ付船々為取建金子五百両借用致度旨白子兵太夫殿、倉田太左衛門殿、河合仁平次殿下向被致、坂倉小右衛門殿付添願被御座出ニ左候得共此荷物殊ニ先格無之事故相続出来不申旨申達候処再然相預候ニ付数日及参会積方勝手ニも相成無拠儀故仲間一統熟談致金子千両也用立遣証文取置申候向後右躰預入有之候共決而取上申間鋪候、為後日記置者也、則証文之写 借用申金子之事 合金千両也 但し文字小判也 右之金子此度舟之為取立借用申処実正也、返済之儀者来ル辰年ゟ両季ニ金五拾両宛壱ヶ年ニ都合金百両也来ル丑年迄十年賦無遅滞相済シ可申候、右船々何等之儀有之候共連印之者共急度返済可致候、万一相滞候ハヽ御町内御荷物積支配仕来候、積株相渡シ可申候間於当所右積株御取立可被成候其節一言違礼申間敷候、為後日依而如件 倉田太左衛門印 河合仁平次印 白子兵太夫印 天明三年卯四月 石川庄兵衛殿 長谷川源右衛門殿 長谷川次郎兵衛殿 長谷川市左衛門殿 大和屋九郎左衛門殿 綿屋宗兵衛殿 伊勢屋三右衛門殿 大黒屋三右衛門殿 長谷川六郎次殿 長谷川武右衛門殿 嶋屋六兵衛殿 田端屋次郎左衛門殿 田中次郎左衛門殿 加嶋屋次郎左衛門殿 大和屋三郎兵衛殿 小津権右衛門殿 藪屋四郎兵衛殿 布袋屋善右衛門殿 川喜田平四郎殿 川喜田久太夫殿 永田伊兵衛殿 長谷川次郎吉殿 前書之金子返済之儀毛頭相違無御座候、若相滞候ハヽ我等罷出急度埒明可申候、為後証仍而奥書如件 坂倉小右衛門印 天明三年卯四月 前書奥印坂倉小右衛門名前ニ有之候、然所右之株式我等引請候、依之前書之通毛頭相違無御座、為後証奥書如件 坂倉甚五右衛門印 天明四年辰十月」

去ル寅極月中難破破船は、天明二年(1782)十二月中、大黒屋光太夫船神昌丸の難破した積荷代金について白子積問屋白子兵太夫、倉田太左衛門、河合仁平次の三名から大伝馬町壱丁目太物問屋仲間二十二軒に宛てた覚である。このとき、小津清左衛門分家小津権右衛門が経営していた。

長谷川太物店古帳 差引帳 「覚 一大黒屋光太夫船、天明二壬寅極月荷物積在白子湊出帆仕候所其後帰国へ参り欤以今行方相知不申積合中一同難渋いたし候勿論船頭水主中未タ死生分明ニ候得共仲間相談之上左之通 覚 一金六両 石塔料経堂金 一金四両 乗組中香典 〆金拾両 右之通白子兵太夫殿下向ニ付預遣候、以上 行事頭 長谷川治郎兵衛 長谷川市左衛門 天明四年辰十月六日」

天明四年(1784)十月六日、大黒屋光太夫船神昌丸の行方が分からず三回忌を行っている。太物問屋仲間から江戸に来た時に白子兵太夫に石塔料経堂金、香典を頼んでいる覚である。石塔は、鈴鹿市若松東一丁目の共同墓地に大黒屋光太夫らの供養碑「釈久味霊 南無阿弥陁仏 俗名 光太夫 維時 天明四甲辰年 江戸大伝馬町一丁目 太物店行司頭 施主 長谷川次郎兵衛 長谷川市左衛門」が建立される。 

回向院 勢州白子参州平坂溺死者供養塔「天明壬寅十二月十三日大黒屋光太夫之船名神昌丸出帆於勢州白子津所乗者船頭光太夫水主磯吉等凡十五人時海上風波巳暴漂流於東海数日而不知其所湊泊□年至於俄羅斯国而人以為溺死巳而七年矣為之建塔為後寛政癸丑五月光太夫磯吉告其国王而得帰吾 本邦矣其余或没船中或死彼土或淹彼国云々」

太物問屋大伝馬町組は、海難事故による供養は両国の回向院で施餓鬼供養や供養碑を建立、また海上安全祈願は佃の住吉神社で行うことになっていた。神昌丸の積荷には小津清左衛門江戸店宛の越前のとりのこ奉書が積まれていた(内田吉左衛門家文書)。(小津史料館 小西良明)

2025年3月20日木曜日

宝田恵比寿神社

 宝田恵比寿神社は、太田道灌時代に宝田村に鎮守された宝田神社で、天正十八年(1590)八月、馬込勘解由は江戸に入り徳川家康より宝田村の肝煎りを仰せ付けられ、江戸城拡張により慶長十一年(1606)、大伝馬町創立と共に移り傳馬役兼帯名主 馬込勘解由、同 佐久間善八、傳馬役 赤塚善右衛門、同 舛木七左衛門、同 冨山四郎左衛門、神社もこのとき移転しています。

小津家文書11-51-8 「永代売渡シ申家屋鋪之事 一大傳馬町壱丁目北側西角ゟ弐軒目、表京間拾間裏行町並地尻横幅京間拾間五尺壱寸之我等家屋敷、代金㊞三千両ニ永代売渡シ、名主五人組家屋鋪売主立合、右之金子慥ニ請㊞取申所実正也、此家屋敷ニ付 御公儀様ゟ御構無御座候、其上借金之方へ書入不申候、横合ゟハ不及申、子々孫々ニ至迄違乱申者無御座候、此家屋敷ニ付、何様之出入御座共此加判之我々罷出、貴殿家屋敷ニ紛無之由、急度埒明ヶ可申候、為後日名主五人組加判致永代売券状仍如件 家屋鋪売主 善八㊞ 五人組 又兵衛㊞ 同 伊兵衛㊞ 名主 勘解由㊞ 元禄十七年申三月廿九日 小津清左衛門殿 ㊞㊞㊞ 地主惣三郎殿 小津三四右衛門殿 芝原三郎兵衛殿

(継目)右四人持合屋鋪之内三四右衛門所持分、表京間弐間半裏行町並裏幅弐間半壱尺余之処、竹内四郎兵衛方江代金六百両ニ売渡申所実正也、依之向後私代リ四郎兵衛与四人一所之持合屋鋪ニ罷成候、右古券状ニ拙者宛名御座候ニ付向後不相用候、依之名主五人組継印仍如件 家屋鋪売主 三四右衛門㊞ 五人組 藤九郎㊞ 同 庄兵衛㊞ 名主 馬込勘解由㊞ 元文二年巳四月十六日 小津清左衛門殿 地主惣三郎殿 芝原三郎兵衛殿」

元禄十七年(1704)三月廿九日、佐久間善八が大伝馬町壱丁目の名主を退役し、所有三ヶ所の内一ヶ所を借りている太物仲間四人に売却した証文である。譲り受けたのは松坂の小津清左衛門、相可の地主惣三郎、松坂の小津三四右衛門、津の芝原三郎兵衛である。

元文二年(1737)四月十六日、太物仲間四人持合所有地の内小津三四右衛門が仲間三人に売却する継証文である。小津三四右衛門は、元文五年(1740)まで営業を続けている。立合の名主馬込勘解由はこのときは、苗字が許されている。

大伝馬町壱丁目南側・堀留町壱丁目屋敷図

小津家文書11-7 「証文之事 一貴殿所持堀留町壱丁目西角ゟ五軒目表京間九間裏行町並六間四尺五寸地尻ニ大下水を隔、間口三間奥行四間之添地、但此坪拾弐坪ニ而壱ヶ所此度我等方江別紙本証文之通、永代買求加判之者立合、代金不残相渡申候、然ル処右地面之儀者四方出口無之袋地ニ相成候得共、我等懇望致買求申候、尤是迄堀留町壱丁目惣坪数内ニ有之候間、町入用幷七分積金家守給金其外共出銀被致到来、町役被相勤候通、以来迚茂右拾弐坪丈ヶ之町入用割合出銀致、尤沽券状書改候迄者貴殿方江相渡可申候、右者此度新規沽券状金子引替御渡可被成之処、差支之儀有之候間、別紙之通仮証文を以買請申候、向後万一表地面外江売渡ニ相成、地主相替リ候節者、此証文を証拠ニ致シ、其節之町役人中江調印相頼、沽券状改可申候、為後日証文入置申候、仍如件 升屋七左衛門㊞ 右店支配人 常八㊞ 天保九戌年十月 小津清左衛門殿 店支配人 常七殿」

天保九年(1838)十月、升屋七左衛門支配人常八から小津清左衛門常七宛の証文である。内容は、堀留町一丁目の小津清左衛門地所と升屋七左衛門地所が背中合わせのため一部の土地を升屋七右衛門に譲渡する証文です。升屋七左衛門は、久須木七左衛門の事で、伊勢国から宝田村に移り住んだ人で大伝馬町創立と同時に無沽券で土地を拝領しています。寛永三年(1626)に木綿問屋升屋七左衛門を開業しています。(小津史料館 小西良明)

宝田恵比寿神社べったら市保存会 宝田神社 恵比寿神 御縁起と大伝馬の由来

2025年3月19日水曜日

新高野山 大安楽寺

 大安楽寺(だいあんらくじ)は、東京都中央区日本橋小伝馬町にある高野山真言宗の仏教寺院である。山号は新高野山。本尊は十一面観世音菩薩。江戸三十三観音札所第五番札所。

1872年(明治5年)、この地に燐火が燃えるのを見た五大山不動院の住職であった大僧正の山科俊海は処刑場で亡くなった者たちを慰霊せんと勧進し、1875年(明治8年)に大倉喜八郎、安田善次郎らの寄進を受け創建されたのが大安楽寺である。寺名の大安楽寺の「大」は大倉、「安」は安田の名に由来する。翌1883年(明治16年)には高野山より弘法大師の像を遷座し、新高野山の山号を称した。(大安楽寺 - Wikipedia)

齋藤岩蔵著「お竹大日如来」(昭和四十年)「多賀権蔵氏は、東京都中央区日本橋本町三丁目十番地で町会長、連合町会長の職にある有力者で、半えり問屋。熱心なるお竹如来の信者であります。昭和二十五年、お竹さんの女中姿の木像を彫刻させ、ヱビス神社に合祠していた。毎年十月十九日ベッタラ市のヱビス講祭には多勢の参詣人があってとても盛大であったが、ヱビス神社が古くなって、当時改築中であった為一時佛像を大安楽寺に仮安置してある。

東京日本橋小伝馬町、十思小学校向(小伝馬町停留所下車)住職 山中弘之氏、五月十九日のお竹さんの命日には大安楽寺に数十人の信者が集る由であります。しかしヱビス神社とお竹様とでは神仏混淆の嫌があるので、このまま大安楽寺に安置されることになるかも知れないといっておられました。

昭和三十九年夏 お守りは開運、家内安全、多福延命、於竹大日如来護符、そして裏面には、慈善は国の栄え質素は我家の宝と書いてあります。」

現在も大安楽寺には、お竹さんの女中姿の木像が祀られており、毎年法要が五月に行われています。小津史料館に於竹さん展示コーナーがあります。昭和四十六年(1971年)五月、於竹大日如来保存会は、小津本館ビルの一角に「史蹟、於竹大日如来井戸跡」を建立しています。(小津史料館 小西良明)

猫の足あと 新高野山 大安楽寺

2025年3月14日金曜日

当智山 本誓寺

 浄土宗本誓寺は当智山重願院と号します。小田原本誓寺六世の文賀が、幕府より文禄四年(1595)、八重洲河岸に寺地を拝顔して創建、太田康資(太田道灌の四代の孫)娘英勝院が開基となったといいます。慶長十一年(1606)馬喰町上町へ、天和ニ年(1682)当地(深川大工町)に移転、元禄十二年(1699)には徳川綱吉から寺領三十石の御朱印状を拝領、江戸時代の浄土宗触頭の一つであったといいます。明治六年(1873)には江戸崎大念寺より檀林号が移り、昭和元年(1926)まで檀林格であったといいます(猫の足あと)。

年中諸用控 「一銀子壱匁目之処へ四百銅遣ス 本誓寺 正七 頭□□也 両度□□旦那様名前ニ包」

 (小津史料館 小西良明)

猫の足あと 当智山本誓寺

2025年3月13日木曜日

高輪 庚申堂

 高輪 庚申堂は、「四天王寺」豪範僧都の作と伝えられる青面金剛像を祀っていたとされる。庚申堂は、神仏分離後に「猿田彦神社」に改称され、現在は高輪神社の本殿に合祀。(御朱印神社メモ 高輪神社)

年中諸用控 「一鳥目百銅 高輪 庚申堂 庚申月ニ御札参ル也」

港区の文化財、高輪神社の境内に庚申塔がある。(小津史料館 小西良明)

東京都神社庁 高輪神社

御朱印神社メモ 高輪神社

猫のあしあと 高輪神社

2025年3月12日水曜日

青峯山 正福寺

 青峯山 正福寺(しょうふくじ)は、三重県鳥羽市松尾町にある、高野山真言宗の仏教寺院。山号は青峯山(あおのみねさん)で、同名の山(海抜336メートル)の頂上付近にある。別名は嵯峨御所。海上守護の霊峰として漁業関係者の篤い信仰を集める。

「青峰に参ると風雨の難を免れる」という青峰信仰が広がり、江戸時代中期には廻船業の隆盛により正福寺も栄えた。特に文化・文政期(1804年 - 1831年)に最盛期を迎え、尾張や大坂、伊勢、津から鳥羽港や的矢港へ入港した廻船・問屋によって支えられた。奉納の世話は地元の鳥羽・的矢・河崎・千賀(せんが)・堅子の住民が行っていた。(正福寺 (鳥羽市) - Wikipedia)

正福寺に奉納された扁額『東京大傳馬町 田中次郎左衛門 同新店 長井九郎左衛門 長井宗兵衛 長井三郎兵衛 小津清左衛門 川喜田久太夫 川喜田平四郎 岡本六兵衛 丸山藤助 伊藤次郎左衛門 久須木七右衛門 同新店 勢州 辻林兵衛 森井佐兵衛 中条猪蔵 川口平助 世話人 勢州松坂 川口平助』

扁額は、江戸大傳馬町壱丁目太物問屋と松坂町木綿買次問屋が奉納した。大傳馬町太物店は、田中次郎左衛門 田端屋本店、同 田端屋新店、長井九郎左衛門 大和屋、長井宗兵衛 綿屋 長井三郎兵衛 大和屋 小津清左衛門 伊勢屋 川喜田久太夫 川喜田屋 同 川喜田屋平四郎 岡本六兵衛 嶋屋 丸山藤助 丸屋 伊藤次郎左衛門 伊藤屋利助 久須木七右衛門 升屋本店 同新店 升屋佐太郎の十三軒、木綿買次問屋は、辻林兵衛 森井佐兵衛 中条猪蔵 川口平助の四軒である。
正福寺に鳥羽市指定文化財となっている石灯籠は御影石製の高さ7mの常夜灯であり、「天保八丁酉年五月 海上安全」の銘文が刻まれているが、大伝馬町の太物問屋升屋佐太郎は天保二年(1831)五月に開業しており、石灯籠と同時期に扁額は奉納されたと思われます。

小津家文書9-290-3 「請取申御為替金之事 合金百両也 右此度鰹節其御店へ差送リ申候荷物、船付ヲ以為内金凡代呂物半通御渡し被成候筈致儀諚置候ニ付、此度小津慈源殿取次ヲ以殿様就御用江戸表へ御差下シ被為成候御年貢金之内、書面之金高下為替組勢州松坂ニおゐて奉請取候処実正ニ御座候、右代リ金江戸大傳馬町壱丁目小津慈源殿代伊八殿改ヲ以、御中屋敷御勘定所へ御請取金蔵江御上納被遊候筈ニ候条、伊八殿御差図次第、此手形ヲ以金子御引替御渡シ可被下候、御大切之御金ニ付加判人荷物相改積入候上ハ、船付之通樽数貫目毛頭相違無御座候、万一相違之儀有之候ハヽ、加判人方へ質物取置申候間相弁可申候、為後日之御為替証文仍而如件 長嶋浦 大和屋彦右衛門㊞ 同彦助(花押) 文化元子八月 江戸本町四丁目 大橋太郎次郎殿」
文化元年(1804)八月、小津慈源は、小津清左衛門長保妻で、この時は女戸主である。鰹節の為替手形の証文の事である。大橋屋太郎次郎は、江戸十組の紙・茶問屋のほか鰹節問屋も商っていた。小津清左衛門の向店である。大傳馬町壱丁目小津慈源殿代伊八殿の伊八は、本店支配人である。

小津家文書11-1 「請取申御為替金之事 合金百両也 右者此度鰹節其御店江差送リ申候荷物船付ヲ以為内金凡代呂物半通御渡し被成候筈致儀述置候ニ付此度小津慈源殿取次ヲ以殿様就御用江戸表江御差下被為成候御年貢金之内書面之金高下リ為替取組勢州松阪ニおいて奉請取候処実正ニ御座候、右代リ金江戸大傳馬町壱丁目小津慈源殿代伊八殿改ヲ以御中屋敷御勘定所へ御請取御金蔵江御上納被遊候筈ニ候条、伊八殿御差図次第此手形ヲ以金子御引替御渡し可被下候御大切之御金ニ付加判人荷物相改積入候上ハ船付之通樽数貫目毛頭相違無御座候、万一相違之義有之候ハヽ加判人方へ質物取置申候間相弁可申候、為後日之御為替証文仍而如件 熊野長嶋浦 大和屋彦右衛門㊞ 同彦助印 文化弐年丑五月 江戸本町四丁目 大橋太郎治郎殿」
文化二年(1805)五月、上記と同様である。定期的に鰹節を江戸に送っていたことがわかる。差出人はいずれも熊野長嶋浦 大和屋彦右衛門、彦助で、宛先は鰹節問屋大橋屋太郎次郎である。(小津史料館 小西良明)

伊勢西国三十三所観音巡礼公式サイト 札番 番外 青峯山 正福寺  

2025年3月7日金曜日

岡寺山 継松寺

 岡寺山 継松寺(けいしょうじ)は、三重県松阪市中町にある高野山真言宗の仏教寺院。山号は岡寺山であり、通称・岡寺と呼ばれている。本尊は如意輪観世音菩薩。江戸中期の住職・快雄は、韓天寿による法帖の模刻に協力しており、天寿と親交のあった池大雅が伊勢来遊の折には、同寺へ逗留し書画を残した。江戸後期には、天寿の足跡を訪ねた貫名海屋が一時滞在している。(継松寺 - Wikipedia)

勢国見聞集 「天地之裏ウチ。変更ジテ無常ナリ。唯善ト与悪歴々ト明々ナリ。共ニ為シ二因果ヲ若ク響與ト声トノ或ハ一時熟シテ或ハ三世成ス其ノ悪ヲ。母レ興ス其ノ果ヲ会迎タマウルモ其善ヲ母レ廃スル其ノ報ヲ。維レ誠ナリ。爰ニ作リ金炉以テ留ムルハ梵台ニ幾人。焚香幾スルハ人。攘灾香フツ炉乎ヲ哉ヤ。善因ナル乎哉。安永六年丁酉正月吉辰 勢州飯高郡松 阪岡寺山 継松寺八世快雄敬イテ誌ス 施主 小津長保」嘉永四年(1851)

安永六年(1777)正月、小津清左衛門長保は、継松寺に奉献した銅香炉で、この銘文は韓天寿によるものである。韓天寿は、継松寺の隣に住む中川清右衛門家六代中川長四郎天寿のことで、松下烏石に文徴明風の書を学ぶ書家である。韓天寿はこのとき五十歳頃、長保は二十四歳である。(小津史料館 小西良明)

岡寺山 継松寺 https://www.okadera.com/

2025年3月6日木曜日

報國山 安養院

 報國山 安養院は、知恩院末寺の浄土宗の寺院。

小津家文書24-489 (包紙)「常念仏証文 山崎 安養院」

小津家文書24-488 「常念仏喜捨金証文 一金弐㊞百両也 右者為雲含道慧居士菩提為永代常念仏糧貞円善女喜捨之所慥ニ受納永々無断絶浄行相続可仕候、為後証仍如件 城州山崎 知恩院末寺 安養院㊞ 性海(花押) 勢州松坂 小津清左衛門殿」

宝暦五六年(1755・1756)頃、道慧居士は、六代小津清左衛門長郷、宝暦五年(1755)八月十五日卒、享年三十六歳、貞円善女は、長郷の母玉は、後家で貞圓と名乗っており、この時は六十三四歳である。宛先の小津清左衛門は、長郷の次男安次郎、後長保でこの時は、二歳で家督を継いでいる。常念仏喜捨金証文は、金二百両と大金であった。(小津史料館 小西良明)

どこねっと京都 安養院

2025年3月5日水曜日

星河山 石上寺

 石上寺(せきじょうじ)は、埼玉県熊谷市鎌倉町にある真言宗智山派の寺院である。山号は星河山。本尊は千手観音。(石上寺 (熊谷市) - Wikipedia)

年中諸用控 「一武州熊ヶ谷石上寺荒神札参之節 正五九月 百銅宛」

小津家文書7-233-1 「約定証 印紙壱銭㊞ 一金九百円也 但此引当地綿花磨印九拾個ナシ利子日割金百円ニ付金三銭三厘定メ 右抵当品ヲ以金額正ニ借㊞用仕候処確実㊞也、返済期限者向三十日間ト相定メ時々商況ニ依テ御売捌被成下護品売上代金ヲ以テ漸次返納可仕候、万一期限経過候欤、或ハ売却不足金相生候時者本人ハ勿論証人ノ我等連帯之義務ヲ㊞以テ相償聊貴殿江御迷惑相掛ヶ申間敷候、為後日依テ約定証如件 埼玉縣下武州北埼玉郡長野村七十番地 共盛社 吉野専太郎㊞ 同縣同国同郡忍町大字佐間九拾六番地 証人 根岸清兵衛㊞ 明治廿三年一月十三日 小津清左衛門殿」

明治二十三年(1890)一月十三日、小津清左衛門本店宛の綿花の約定書である。差出人は共盛社 吉野専太郎である。

小津家文書7-233-4 「借用金確証 印紙壱銭㊞ 一金四百㊞円也 右抵当 埼白印正味九貫目入四拾個也 但シ利子日割金壱百円ニ付三㊞銭三厘定メ右抵当品ヲ以金額正ニ借用仕候処確実也 返済期限ハ向三十日㊞間ト相定メ時下商況ニ依リ御売捌被成下候、品売上ヶ代金ヲ以漸次返納可仕候、万一期限経過候欤或ハ売却金不足相生之候時ハ本人勿論証人之我等連帯之義務ヲ以相償聊貴殿江御迷惑相掛ヶ申間敷候、為後日依テ借用約定之証如件 埼玉縣武州北埼玉郡忍町大字佐間九拾六番地 根岸清兵衛㊞ 同町大字成田弐拾三番地 □井清之助 明治廿三年四月十㊞六日 小津清左衛門殿」

明治二十三年(1890)四月十六日、小津清左衛門本店宛の借用金確証である。差出人は、上記の証人 根岸清兵衛である。埼白印は、綿花の商品名である。(小津史料館 小西良明)

猫のあしあと 石上寺

2025年3月1日土曜日

稱光山 華徳院

 華徳院(けとくいん)は、東京都杉並区にある天台宗の寺院。九世紀、慈覚大師円仁によって開山された。元々は下野国佐野(現・栃木県佐野市)にあり、理正院という名称だった。その後、武蔵国霞ヶ関(現・東京都千代田区霞が関)に移り、慶長年間(1596年~1615年)に浅草蔵前天王町(現・台東区浅草橋)に移転した。延享年間(1744年~1747年)に華徳院に改称した。越後安田藩(村松藩)藩主の堀直時の戒名に由来するという。なお、華徳院改称とともに本尊を閻魔大王にしている。かつては太宗寺や善養寺とともに「江戸三閻魔」として知られ、縁日には多くの人で賑わったという。(華徳院 (杉並区) - Wikipedia)

年中諸用控 「一小玉伊ロ位 御蔵前 ゑんま堂 右同断(年頭計) 止メ」

(小津史料館 小西良明)

古今御朱印研究所 華徳院 https://goshuin.net/edo3emma-ketokuin/

2025年2月28日金曜日

華頂山 知恩院

知恩院(ちおんいん)は、京都市東山区林下町にある浄土宗の総本山の寺院。山号は華頂山(かちょうざん)。本尊は法然上人像(御影堂)および阿弥陀如来像(阿弥陀堂)。開山は法然である。正式呼称は華頂山知恩教院大谷寺(かちょうざん ちおんきょういん おおたにでら)(知恩院 - Wikipedia)

年中諸用控 「一京都知恩院万人講 受取過帳戸拵□納 年々金弐分ツヽ本誓寺へお店七ゟ集候」本誓寺は、江戸店の菩提寺称名院の本寺で、江戸の触れ頭であった。

小津家文書21-392 「申渡 一此度願書ヲ以被申出候義幷別紙書之表逸々披見致候処御室御所御金残御拝借□御上様御役所御金御拝借□右体御大切御金何れ之加判ヲ以御拝借被致候義哉、当家江一言之沙汰も無之言語に絶し奉恐入候、殊ニ歳々身分相応之暮シ金差遣置候処右 御公家様奉始諸方莫大之金子拝借被致候所御上様へ奉恐申上難相立仍之左之通申渡候 ケ條一家名 一先祖位牌 一住居建物土蔵三ヶ所 右三ヶ條此度取放致義絶候、家内一同何れへ成共転宅致早々身分引取可申候若異変ニ存候ハヽ御奉行所へ奉訴候事 與次兵衛 天保八酉十二月 市九郎殿 祐祐殿 於沢殿」

天保八年(1837)十二月、小津清左衛門本家から分家小津権右衛門家への義絶申渡状である。與次兵衛は、小津清左衛門長澄、祐祐は、小津権右衛門祐助、於沢はその妻、市九郎は長男である。理由は、本家の相談もなく御室御所(仁和寺)、御上様御役所(紀州藩銀札方など)から莫大な借金をしたことである。

小津家文書24-496 「借財方名前 一金弐百両 銀札方 一同百両 田丸蔵米金金森取次 一同七拾両 右同断太田取次 一同百両 右同断 内弐拾両当十二月廿日納之筋 一同七拾両 弐分口御役所山口取次 一同五拾両 右同断 一同三両 右之利足当冬返納 一同三拾両 御為替金関屋取次 一同百両 三井組銀札方 一同九両 右之利足当冬納 一同五拾両 御為替金一嶋取次 一同五両 右之利足当冬納 一同八拾両 塩□甚助 一同八両 右之利足 一同四拾五両 市場半蔵 一同四両 右之利足 一同弐拾両 正圓寺祠堂金 一同拾五両 右同断 一同弐拾両 指物屋半兵衛 一同弐両 右之利足 一同弐百両 御室御所金播摩屋次兵衛取次 一同六拾両 大坂へ仕切金 一同六十両計当冬掛方 〆凡千三百四拾両 内江凡四十両 当冬□方へ寄□分□ニ□□ 奉手当ニ候事 引〆千三百両 内 十二月十五日 五拾三両 弐分口納 弐拾両余 田丸役所納 廿五六両 所々江利足 六拾両 大坂仕切金 〆凡百六拾両 右是程当節無之候而面相立不申候分 引〆千百四拾両 右惣高千三百両之内江何卒金千両拝借被成下候ハヽ其余衣類□売立候而も為相済可申上候、以上 十二月」

十二月(1837)、上記義絶理由の借財方名前、明細の写しである、紀州藩銀札方から二百両、御室御所(仁和寺)は播磨屋次兵衛取次で二百両など合計千三百両の借入である。小津権右衛門家は絶家となる。小津清左衛門長柱のとき養子を迎え東家として再興している。(小津史料館 小西良明)

浄土宗 総本山 知恩院 https://www.chion-in.or.jp/

2025年2月27日木曜日

霊鷲山 済岸寺

 済岸寺は、臨済宗建長寺派の寺院。小津小右衛門家、小津茂右衛門家の菩提寺である。

小津家文書22-416 (包紙)「南川口地面証文一 土浦店」

小津家文書22-405 「相渡申一札之事 一南川口屋鋪壱ヶ所 表口五十弐間 奥行三十間 旧地尻横十間 田地一枚有 長サ五十弐間 此地面之内貸家貸地都合三拾六軒揚高内ニて御年貢幷諸役普請懸物引去金弐拾両宛ニ年々為登可申候 右者此度勢州松坂表本家相続人御相談出来候ニ付御足労諸入用為手当書面之屋鋪以後本家御書抜被成候趣被仰付別家一同承知仕候、然上者年々揚高之内諸入用指引算用仕、合金弐拾両宛ニ無相違為相登可申候、右御相談取究候上者少茂違背仕間鋪候、為後日連印指上申所、仍而如件 (継)㊞㊞㊞㊞㊞ 小津小右衛門 常州土浦店 支配人 徳兵衛㊞ 後見 同 甚右衛門㊞ 伊勢屋庄兵衛㊞ 別家 同 茂右衛門㊞ 和泉屋茂兵衛㊞ 文化十五年寅五月 勢州松坂西町 小津庄八郎殿 前書之通相違無御座候、以上 名主 大塚甚左衛門㊞」

常州土浦は、松坂の小津三十郎宗心が、中城町に木綿を商いに来たようである。(中城町御用日記に小津三十郎あり)、その後小津清左衛門長生は、三十郎と妻が姉妹で、一時三十郎の家督を継ぎ小津孫太夫となっており、三十郎家を離縁しているが、小津小右衛門に四女常と結婚させており、小津小右衛門夫婦は、土浦で没。享保十二年(1727)十一月に地主七間町の七三郎の貸地の内三十六間に屋敷を建築して、醤油醸造業を始めている。宝暦六年(1756)には、釜屋権八から貸地を購入、宝暦十一年(1761)二月、土浦醤油屋仲間を大國屋勘兵衛ら九人で結成する。

文化十五年(1818)五月、松坂表御本家相続人は、小津清左衛門長澄で、小津庄八は、森嶋家十一代良斎で、小津小右衛門土浦店支配人徳兵衛と別家らが、土浦大川通りの南川口土地屋敷貸家貸、御年貢幷諸役普請懸物引去金弐拾両宛松坂に渡す取極め書である。(小津史料館 小西良明)

霊鷲山 済岸寺 茨城県土浦市中央2-7-3 

2025年2月26日水曜日

高野山 金剛峯寺

 金剛峯寺は、高野山真言宗の総本山。「高野"山"」という名ではあるものの、地理学上の山ではない。高野山内は「一山境内地」といわれ高野山全域が寺の境内地とされ、境内の中に発展した町であり、元来は高野山全体と金剛峯寺は同義である。平安時代の弘仁七年(816)に嵯峨天皇から空海(弘法大師)が下賜され、修禅の道場として開いた日本仏教における聖地の1つである。(高野山 - Wikipedia)

分家二代 小津與次兵衛浄安、享保十一年(1726)、妻豊(四代小津清左衛門長生孫、小津孫太夫長英長女、享保九年三月四日卒 享年二十二歳)の三回忌を営み書置を残し脱走する、紀州熊野及び高野山 金連院に入り僧となる。

五代小津清左衛門長康は、元文五年(1740)、紀州高野山 太師堂に江戸店の隆昌を永代祈祷する。

小津清左衛門長康の妻貞円は、宝暦六年(1756)、道慧(長男、六代小津清左衛門長郷 宝暦五年八月十五日卒 享年三十六歳)菩提のため紀州高野山 金堂へ大香炉を寄進する。

十一代小津清左衛門長柱は、嘉永六年(1853)一月、高野山 蓮金院へ心月院別峯道宗居士(竹川家養子吉三郎)位牌を納める。

(小津史料館 小西良明)

高野山真言宗 総本山金剛峯寺 https://www.koyasan.or.jp/

2025年2月21日金曜日

東大寺 二月堂

 華厳宗東大寺二月堂は、二月堂の名は、このお堂で修二会(しゅにえ)が旧暦の2月に行なわれることから起こっている。良弁(ろうべん)僧正の高弟実忠(じっちゅう)の草創と伝える。寛文七年(1667)の修二会中に堂内から出火、焼失し、現在の建物はその2年後に再建された。(東大寺HPより)

年中諸用控 「一金百疋ヅヽ 二月堂 見性院 一月 五月 九月」(貼紙)「△大へ・・・」

二月堂 見性院の詳細は不明ですが、長谷寺にも「△大へ」とあることから東大寺の二月堂としました。(小津史料館 小西良明)

華厳宗 大本山 東大寺 https://www.todaiji.or.jp/

2025年2月20日木曜日

豊川稲荷 東京別院

 妙厳寺は、正式の寺号は妙厳寺(みょうごんじ)。詳しくは「円福山 妙厳寺」(えんぷくざん みょうごんじ)または「豊川閣 妙厳寺」(とよかわかく みょうごんじ)と称する曹洞宗の寺院である。境内に祀られる秘仏「豊川吒枳尼真天(だきにしんてん)」の稲穂を担いだ姿などから、一般には「豊川稲荷」の名で呼ばれるようになった。豊川稲荷は神社ではないものの、境内の参道には鳥居が立っている。日本三大稲荷の1つとされる。(豊川稲荷 - Wikipedia)

豊川稲荷東京別院(とよかわいなりとうきょうべついん)は、東京都港区元赤坂にある曹洞宗の寺院である。豊川稲荷 妙厳寺(愛知県豊川市)の、唯一の直轄別院(飛び地境内)である。大岡越前守忠相が豊川稲荷から吒枳尼天(だきにてん)を勧請し、屋敷稲荷として自邸で祀ったのを由来とする。(豊川稲荷東京別院 - Wikipedia)

年中諸用控 (貼紙)「明治十九年六月廿三日ヨリ談事之上毎年 赤坂豊川寺代僧ヲ以大般若経ヲ□□也 一金七円五拾銭 奉納 〆外ニ壱円弐十銭 此□計 一御酒 大三 御花弐十三銭宛 小十六 〆□の花 見□ 一赤飯二升 奉納□ 松田や 但し本向店持参遣五円ツヽ出□□□ □明治廿四年□月七日毎□申合□□相承□□□」

(小津史料館 小西良明)

豊川稲荷 東京別院 http://www.toyokawainari-tokyo.jp/

2025年2月19日水曜日

鳥越山 長楽寺

  長楽寺は、鳥越明神社の別当寺 真言宗高野山金剛院の末寺(江戸町巡り-浅草元鳥越宮本町)。廃寺。江戸時代の地名は、浅草元鳥越長楽寺門前町で現在は、台東区鳥越二丁目四番あたりに長楽寺はあった(江戸町巡り-浅草元鳥越長楽寺門前町)。

浅草猿屋町御貸付金会所(札差御改正会所)は、現在の浅草橋三丁目内にありました。

年中諸用控 「一小玉伊ロ位 鳥越長楽寺 年頭計」小玉伊ロは符帳。

小津家文書番号なし 「上納金請取証文 高金三千五百両之内 割㊞一金千両 右是者為 御国恩冥加金三千五百両差出之御融通之内江御差加被成下、御用相済御不用之節、御下ヶ被下置候様相願、願之通被 仰付候ニ付、此度書面之通上納請取之候処如件 文化三年寅十二月 樽与左衛門㊞ 大傳馬町壱丁目 小津屋清左衛門との」

小津家文書番号なし 「上納金請取証文 高金三千五百両之内 割㊞一金千両 右是者為 御国恩冥加金三千五百両差出之御融通之内江御差加被成下、御用相済御不用之節、御下ヶ被下置候様相願、願之通被 仰付候ニ付、此度書面之通上納請取之候処如件 文化四年卯五月 樽与左衛門㊞ 大傳馬町壱丁目 小津屋清左衛門との」

小津家文書番号なし 「上納金請取証文 高金三千五百両之内 割㊞一金千五百両 右是者為 御国恩冥加金三千五百両差出之御融通之内江御差加被成下、御用相済御不用之節、御下ヶ被下置候様相願、願之通被 仰付候ニ付、此度書面之通上納請取之候処如件 文化四年卯九月 樽与左衛門㊞ 大傳馬町壱丁目 小津屋清左衛門との」

寛政元年(1789)、幕府は、寛政の改革の棄捐令の際に札差を救済するために浅草猿屋町御貸付金会所(札差御改正会所)を設立します。

同年四月、猿屋町会所に於いて樽与左衛門は樽名字帯刀を許されます。

同年九月、北町奉行所で札差に棄捐令が申渡されます。町年寄 樽屋与左衛門に運営責任者とし、事務を引請けさせ会所の竣工まで樽屋の役宅を用いること、幕府からの助成金として無利息の御下げ金が二十年賦で出されること、貸付け資金は幕府の御下げ金と御用達町人共の出資金であることなどでした。

文化三年(1806)十一月二十五日、御用金徴収のため大伝馬町木綿問屋小津清左衛門らを呼出し出金強用、小津清左衛門は、上納金三千五百両を三回に分けて上納します。その受領書が上記三点になります。

文化十一年(1814)十二月、樽与左衛門は貸付金引負で自殺したといわれてます。届け出は病気に付養子吉五郎が町年寄を相続しています。(小津史料館 小西良明)

東京都神社庁 鳥越神社

2025年2月15日土曜日

三縁山 増上寺 心光院

心光院は、浄土宗増上寺別院である。別院とは増上寺の隠居寺という意味である。明徳四年(1393)、江戸の「貝塚」(現在の千代田区麹町付近)の地に酉誉聖聰上人が増上寺を開山し、山内に学寮として庵を結んだことからと伝わります。慶長三年(1598)、増上寺は徳川家の菩提寺に定められ、現在地である芝への移転に心光院も随行しました。元禄八年(1695)、徳川二代将軍秀忠公(台徳院殿)菩提のため、増上寺の別院・念仏道場となりました。院内には秀忠公寵愛の白馬を供養した布引観音堂がありました。また江戸庶民にも知られた「お竹大日如来」の流し板が当院に奉納されており、お竹の奇特に感銘をうけた桂昌院(五代将軍綱吉公生母)より、袋と箱が寄進されました。(参照、心光院HP)

「或る時、芝の増上寺の隠居御坊、たまたまたくはつして、佐久間氏が厨外に来り、鉢を乞ふ、その時、走り流しの隅に掛けたりし布袋より、光明を放せしとぞ、上人奇異の思ひを成し、此流しを佐久間氏に乞ひ請、持帰りて、心光院の表門の天井板とす、其後度々変換有りて、今は其古板一枚、心光院の宝物となれり、お竹の像(於竹如来像)も此寺に安置す」(神林尚子著「お竹大日」伝承の生成)

「本堂の中央阿弥陀様の左側のところにお竹如来の木像が安置され、その右に有名な「流し板」が桂昌院が奉納された金襽の冨久佐に包まれ、三つ葵の徳川家の定紋を打った蒔絵の箱に納められてあった。箱は震災で焼けてその後複製したものの由である。お武さんの錦絵も四枚飾ってあった。又 鏑木清方氏が昭和十八年(1943)の文展に出品された「阿竹大日如来」の当時の絵ハガキも飾ってあった。」「又老師(住職)のお話では、良い雇人が授る様にと参詣に見えられる方もあると善徳寺さんと同様のお話をして居られました。」(齋藤岩蔵著「お竹大日如来」昭和四十年(1965))

桂昌院は、寛永四年(1627)生、宝永二年(1705)六月二十二日卒です、於竹さんは、寛永十五年(1638)三月二十一日卒、於竹さんは生前から施しで知られていますから、寛文六年(1666)の正善院に「お竹大日堂」を江戸町人たちが建立した後に「流し板」の金襽の冨久佐、蒔絵の箱が奉納されたのではないでしょうか。

「昭和三十五年(1960)頃、「於竹大日堂」は、俳優・大坂四郎氏の母が、秋田から子連れで上京し、立派に子を育て上げた礼として祠堂を寄進したもの」(神林尚子著「お竹大日」伝承の生成)

(小津史料館 小西良明)

浄土宗 心光院 https://shinkoin.com/

大本山 増上寺 https://www.zojoji.or.jp/

2025年2月14日金曜日

鶏頭山 選擇寺

  選擇寺(せんちゃくじ)は、千葉県木更津市にある浄土宗の寺院。山号は鶏頭山。本尊は阿弥陀如来。室町時代に光明寺を中興した祐崇上人により創建されたという。(選擇寺 (木更津市) - Wikipedia)

江戸両国 回向院で寛永二年(1849)三月、於竹大日如来出開帳が行われました。

選擇寺に於いて、木更津村出身で羽黒山で修行した長傳坊を先達とし、世話人、乙部孫四郎・飴屋長治郎・石井弥三郎の肝煎りで出開帳が行われています。

嘉永二年(1849)八月「於竹大日供養」選擇寺にて出開帳(http://senchakuji.ec-net.jp/rekisi-01_yurai.html#06)、お竹大日供養塔が選擇寺にあります。

小津家文書4-131 「入置申年賦証文之事 去寅年中紙代残金 一金㊞拾弐両也 右書面金相滞候ニ付度々御越被成、御催促ニ御座候得共、右折柄売先掛方多分損毛等出来仕、無拠此度親類共ヲ以種々御詫申上、前書金六ヶ年賦ニ而当巳年ゟ来ル戌年迄壱ヶ年ニ金弐両宛、但し盆暮両度御請取被下度段達而御願申入候処御承知被下忝存候、然上者如何様之義御座候共、一季たり共無相違相済可申候、若亦彼是日限及延引候節者請人方ゟ取替聊相違仕間鋪候、為後日之年賦証文加判入置申候仍而如件 上総国望陀郡木更津 借リ主 惣兵衛㊞ 同所 請人 重五郎㊞ 文政三庚辰三月 小津清左衛門殿」

文政三年(1820)三月、木更津の惣兵衛の紙代金の年賦証文である。宛先は、小津屋清左衛門本店である。

小津家文書4-129 (包紙)「一札入 木更津 河内屋嘉七 年賦」

小津家文書11-2 「年賦金証文之事 一金㊞弐拾両也 仕入紙代金也 右之金子此節皆済勘定可仕之処難渋ニ付再々年賦ニ相願候所御承知被成下千萬忝存候、依之来ル午年ゟ盆暮金弐両宛壱ヶ年合而金四両ニ相定来ル戌年迄五ヶ年限り都合金弐拾両也無相違急度皆済可致候且又御勘弁を以当用之代呂物壱ヶ年金四拾両限り御売可被下候様是又忝存候、然ル上者当用代金之儀者盆後両度皆㊞済急度可致候 右様御世話被成下候上者当用代金者勿論右年賦金若壱季成共相滞候ハ者、本金高ヲ以御懸り被成候共聊申分無御座候、為後日之年賦金証文、仍而如件 上総国望陀郡木更津 借用主 藍屋嘉七㊞ 文政四辛巳年正月 小津屋清左衛門殿 御支配人中」

文政四年(1821)正月、木更津の藍屋嘉七の年賦証文で小津屋清左衛門本店宛である。木更津の紙店に紙を販売していたことがわかる文書である。

(小津史料館 小西良明)

浄土宗 選擇寺 http://senchakuji.ec-net.jp/

2025年2月13日木曜日

豊山 長谷寺 能満院

 長谷寺 能満院は、正徳三年(1713)、もともと求聞持法の霊場として知られた長谷寺に、求聞持堂がないことを憂えた常陸国水戸の宥仲、寛海という二人の僧によって建立された。本尊は虚空蔵菩薩だが非公開で、現在 ではもっぱら、明治時代に中興第一世の海如によって建立された「日限地蔵」の御利益で知られている。(奈良国立博物館,奈良女子大学学術情報センター)

小津商店由来 「九代目清左衛門法名道薀・・・妻法名朝暾院玉室慈光禅尼は七代清左衛門法名道久の四女なり、俗名久満兄太郎次郎法名道関早世のため養子法名道薀を迎へて相続し一男一女を挙げ、後深く仏門に心を寄せ特に大和長谷寺能満院の住職 海如和上に帰依し多数の経典仏書を書写し、文久三年癸亥十二月廿七日卒す、年七十二、法名朝暾院玉室慈光禅尼といふ」

 九代目小津清左衛門長澄 天明五年(1785)八月生~安政四年(1857)四月二十一日卒 享年七十三歳、妻慈光(久満) 寛政四年(1792)二月三日生~文久三年(1863)十二月二十七日卒 享年七十二歳

法華寺佛舎利 「願以此造塔功力三宝吉祥天下太平神祇増減五穀成就無諸災患諸人恙捨悪特善冨饒快楽三途八難衆生離苦得楽小津家先祖代々親眷属庶霊倶証天上菩提子々孫々福壽増長奉事三宝孝養父母家門永久現世吉利後生浄土同倶衆生成天上覚而已塔中奉納南都法華寺御所光明皇后御護持舎利分身五色佛舎利五粒宝篋印陀羅尼一巻開眼供養修法了嘉永七年甲寅年九月十五日授テ小津慈光善姉 長谷寺比丘海如(花押)」

嘉永七年(1854)九月十五日、長谷寺能満院比丘海如和上より小津慈光善姉(久満)は、南都法華寺御所 光明皇后御護持舎利分身五色佛舎利五粒宝篋印陀羅尼一巻を奉戴した。佛舎利は、小津清左衛門家で代々継承されていたが、昭和六十三年(1988)五月に菩提寺 養泉寺に移された。(小津史料館 小西良明)

奈良国立博物館,奈良女子大学学術情報センター  長谷寺能満院

総本山 長谷寺  https://www.hasedera.or.jp/

2025年2月12日水曜日

豊山 長谷寺

長谷寺は、奈良県桜井市初瀬にある真言宗豊山派の総本山の寺院。山号は豊山。院号は神楽院。本尊は十一面観世音菩薩。開山は道明とされる。(長谷寺 - Wikipedia)

年中諸用控 「一金百疋ヅヽ△大へ 長谷寺 一切□□」(貼紙)「一月 五月 九月 △大へ□□ 小遣帳へ付ル 同断」

小津商店由来「五代目小津清左衛門法名道冲・・・大和長谷寺観世音に永代開帳料を寄進し、・・・」 小津清左衛門長康 天和元年(1681)正月二十五日生~寛保元年(1741)九月四日卒 享年六十一歳

小津商店由来「六代目清左衛門法名道慧・・・宝暦四甲戌年〈一七五四〉三月大和長谷寺観世音本堂へ大香炉を寄進せし・・・」 小津清左衛門長郷 享保十五年(1730)十二月三十日生~宝暦五年(1755)八月十五日卒 享年三十六歳 

 (小津史料館 小西良明)

総本山 長谷寺  https://www.hasedera.or.jp/

2025年2月8日土曜日

長光山 陽岳寺

陽岳寺は、臨済宗妙心寺派の寺院。寛永十四年(1637)、御船手奉行 向井忠勝の開基である。(陽岳寺 - Wikipedia) 

干鰯問屋湯浅屋與右衛門支配人小津寅之助夫妻、長男新一の菩提寺である。寅之助の父は代々支配人を務める小津新七家の猪蔵、妻は小津与右衛門の二女きぬ、二男に映画監督の小津安二郎がいます。

本家小津新兵衛家は、小津清左衛門本店支配人を務めた後、湯浅屋に出資し、その後共同経営者、単独経営になり、別名に小津与右衛門を名乗っています。小津新七家は分家になります。本家の菩提寺は、小津清左衛門と同じ曹洞宗養泉寺で、江戸店奉公人菩提寺は、関東大震災までは本誓寺の子院称名院です、震災以後は浄土宗本誓寺になりました。映画監督小津安二郎の墓は、臨済宗円覚寺派の大本山 円覚寺です。

干鰯問屋湯浅屋は、紀州湯浅村出身の岩崎茂右衛門と弟嘉右衛門、同村出身の谷輪与左衛門が共同経営で始めた干鰯問屋で当初は相州浦賀で開業し、その後江戸北新堀に移っています。初代小津新兵衛保教は、伊勢一志郡須賀村で寛文十二年(1672)に生まれ、小津清左衛門江戸店に奉公し、正徳六年(1716)一月に支配人退役し仕分金五百両と小津の屋号をもらい別家となり、松坂の中里善三郎女とめを妻にして松阪中町に居住します。湯浅屋に出資し、谷輪与左衛門離脱後岩崎家と共同経営者となり、店は、宝永五六年(1708・9)頃に小網町に移転。

二代目は、長女とみに延享四年(1747)十一月、甥の中西長之助を婿養子に迎え、小津新兵衛当教となります。

小津家文書14-63 「目録覚 一金弐百拾六両也 右者酉正月二日目録表預リ金高 内 酉正月十八日 一金拾六両者中町ゟ差上ル 差引残金弐百両也 此利金拾六両也 割㊞合金弐㊞百拾六両也 右者横瀧分元利共〆上ヶ金高今日預㊞リ帳面仕置申候、以上 小網町 同藤八㊞ 宝暦四年戌正月二日 小津清左衛門様」

宝暦四年(1754)正月二日、小網町の湯浅屋与右衛門支配人藤八から松坂の小津清左衛門長郷宛の目録覚である。中町は松坂中町で、横瀧分は横滝寺のことと思われます。

小津家文書14-64 「口上 前紙之通御預リ金目録相認差上ヶ申候、乍憚御覧被成下度奉存候、尤利金六拾三両者太物店江相渡シ申候、且又横瀧分利金拾六両ハ中町宗七方ゟ差上申筈ニ御座候、以上 同 藤八 正月六日 小津清左衛門様上」

宝暦四年(1754)正月六日、小網町の湯浅屋与右衛門支配人藤八から松坂の小津清左衛門長郷宛の口上である。目録の内利足は分家の小津屋権右衛門太物店に、横瀧分は松阪中町宗七が返済している。

小津家文書14-58 「一筆啓上仕候、先以其御表、益御機嫌能被為遊御座候段追々承知仕珍重之御儀ニ奉存上候、左様御座候得ハ店之儀年来御本家様之御影を以相続仕来難有仕合ニ奉存候、然ル所御聞及被為下候通近年関東浦々不漁打続申候而仕入方之細商人方共年々損金仕候ニ付段々仕入金相滞気之毒ニ奉存候得共是ヲ相止メ申候而者下地ゟ之仕入残金損失ニ相成申候故無是非年々追貸ニ仕入金用立来リ申候御儀ニ御座候、兼而未ノ冬ゟ去年迄古今無御座不漁ニ而元手金幷ニ諸方ゟ之預リ金も御座候所濱々江貸込必至と難儀仕候、勿論商売躰ニ而取替御座候浦々旅人方此砌見捨申候而ハ互之及不相続申候ニ付去冬中も色々与差繰工面仕候而濱方者相応ニ相続為致候様ニ相働キ申候是以御影故ニ難有奉存候、尤旧冬者近年無之寒□強事、為出申候故是ゟ者浦方も直リ可申様ニ奉存候得共御入金方江利足金大分之儀ニ御座候得共此儀ニ難渋仕、殊ニ細商人之内潰株ニ相成候砌も余程御座候へハ旁以迚も内分ニ而ハ相続相成不申候ニ付心外之至ニ奉存候得共無是非此度御入金方様江年賦之願仕候、依之紀州宅へも先日願状差□シ当地御入金方江も此間ゟ内願仕懸申候就夫権右衛門様江も右御願申上度今日書中ヲ以申上候間定而御披露も御座候而御知得可被為下与奉察上候、今様之品主様江奉入御披覧ニ候御事可奉背御機嫌ニ哉与千万気之毒奉申上通候へ共無是非如斯ニ御座候何分ニも御本家様之御情ヲ不奉請候而ハ相続難相成新兵衛店之儀ニ御座候得者、何事も御免被成下候而新兵衛初店中大勢之者とも御救ひニ思召被為下、偏ニ店相続仕候様ニ奉願上候右願ニ付半七儀紀州江向近日罷登申候間湯浅宅相片付次第其御宅江参上仕、委細之儀ハ半七口上ニ可奉申上候、此度願ニ付、新兵衛も語気ヲ打申候而、御挨拶も可奉申上兼々是又気之毒ニ奉存候、憚多奉存候得共偏ニ御憐愍と思召被為下御情ヲ被為懸被下候様ニ奉願上候、恐惶謹言 同 儀助 半七 長重郎 新七 小津清左衛門様 貴上」

宝暦四年(1754)正月廿二日、宝暦元年(1751)冬より不漁の為店は、難渋しており、湯浅村の岩崎嘉右衛門家(紀州宅、湯浅宅)へ願出、権右衛門様(小津清左衛門分家太物店持主)へ願申上度、松坂の小津清左衛門長郷宛の小網町湯浅屋与右衛門支配人儀助、半七、長重郎、新七からの書状である。

小津家文書14-60 「覚 一金三千両 右者戌亥両年分利足金七百弐拾両御合力 内 金千両ハ右之金半七下着之節返済可仕候、金弐千両ハ年六分之利足ニ而預リ申候、右者来ル子ノ極月晦日ニ利足百弐拾両相渡可申候右之通御請申候上ハ相違仕間敷候、為後日仍而如件 同 新兵衛 半七 惣七 亥六月十三日 小津清左衛門様」

宝暦五年(1755)六月十三日、小網町湯浅屋与右衛門店持主小津新兵衛当教、半七、惣七から借金三千両の小津清左衛門長郷宛の覚である。

小津家文書14-62 「湯浅屋家賃 一金五百両 元黒江町沽券状壱通 一金八百両 材木町沽券状壱通 一金弐千両 新黒江町沽券状壱通 合金三千三百両也 右利足壱ヶ年ニ千両ニ付金六拾五両宛右之通ニ御座候、已上 同彦四郎 十月廿六日 小津清左衛門様」

宝暦五年(1755)十月廿六日、小津清左衛門本店支配人彦四郎から小津清左衛門長保宛の湯浅屋家賃の報告である。このとき長保は幼年三歳であるため甚兵衛が代勤している。後見人は祖母小津貞圓である。湯浅屋は、小網町に店、陽岳寺に近い深川に干鰯売場を開く。沽券は小津清左衛門地所で利足が湯浅屋の家賃と思われます。

深川黒江町、深川熊井町(新黒江町)、深川元町(深川西森下町)などに所有地(明治六年地租改正沽券図から見る小津清左衛門東京所有地)を持つ。

(小津史料館 小西良明)  

SpotTour 【小津めぐり】「生誕地、深川を歩く」in 江東

江東区古石場センター(小津安二郎) https://www.kcf.or.jp/furuishiba/

長光山 陽岳寺 https://www.yougakuji.org/

2025年2月7日金曜日

薬研堀不動院

薬研堀不動院は、真言宗智山派 大本山 川崎大師 平間寺の東京別院。目黒不動、目白不動とともに江戸三大不動として知られている。寺紋は大本山と同様に丸に三つ柏。住職は平間寺貫首が勤める事になっている。(薬研堀不動院 - Wikipedia)

大伝馬町から薬研堀不動院に向かう途中に馬喰町がある、大伝馬町の伝馬役兼帯名主佐久間善八、同馬込勘解由、於竹さん菩提寺 善徳寺は、慶長十三年(1608)~明暦三年(1657)六月晦日まで馬喰町にあった。小津清左衛門長柱は、馬喰町に地所があり、弘化二年(1845)三月廿六日、馬喰町一丁目、二丁目の四ヶ所が類焼した。一丁目の家守は玉屋清兵衛、二丁目は山田屋甚兵衛である。

年中諸用控 「一鳥目三十文 ヤゲボリ不動尊 ヒゴマ 毎月廿八日遣ス」

小津家文書5-189 「借用申金子之事 一金三拾両也 但文字金也 右者商内元手金ニ差支去丑正月夫宇八借用仕候処実正也、尤返納之義者同年三月晦日限ニ相頼置候処、煩ニ付返済延引罷成其上養生不相叶相果候間右金子返納仕候而者又候元手差支甚難渋仕候ニ付、此度相改私借用仕候処相違無御座候、依之済方之義者右之内当金壱両相納残金弐拾九両者当暮ニ金壱両相済来卯年ゟ壱ヶ年金四両ツヽ、酉年迄都合七ヶ年限リ金弐拾八両無相違急度皆済可致候、無利足之□金殊ニ年賦ニ被成下候上者何様之異変有之候共、少茂遅滞致間鋪候、為後日金子借用証文仍如件 横山町三丁目兵三郎店 卯八後家 借主 ちか㊞ 浅草猿屋町家主 後見 源兵衛㊞ 文政元寅年五月 小津屋清左衛門殿 林兵衛殿」

文政元年(1818)五月、小津屋清左衛門本店支配人林兵衛宛の借用証文である。借主は、横山町三丁目の卯八後家ちかである。借金は夫宇八(卯八)の開業資金であるが、返済が終わらないまま死去したため妻ちかの返済証文である。後見人は、地廻り米穀問屋 四十番組の伊勢屋源兵衛である。

小津家文書1-3 「借用申証文之事 一金拾両者来ル七月十四日限可相済対談 一金五拾両者  同十二月晦日限可相済対談 右者紙代金百弐両ト銀五匁九分相滞候ニ付、此度筒井伊賀守様御番所江御訴訟被成、追々御吟味中懸合之上当金四拾弐両三歩ト銀五匁九分当時相済、残金書面之通、七月、十二月両度ニ急度相済可申条、聊相違無御座候、万一相滞候ハヽ両人ニ不抱加判之証人共引受無相違弁済可仕候、為後日仍如件 横山町壱丁目佐兵衛店 借主 善右衛門㊞ 新右衛門町佐兵衛店 引請証人 平右衛門㊞ 右善右衛門家主 家主 同 佐兵衛㊞ 天保六未年三月 小津清左衛門殿」

天保六年(1835)三月、小津清左衛門本店宛の借用証文である。借主は同じ十組紙問屋に加入している横山町壱丁目の伊勢屋善右衛門。紙代金の返済は、南町奉行所 筒井伊賀守様へ訴訟を行って支払い期日が決まった。

小津家文書6-210 「借用金ノ証 (印紙五十銭㊞印紙五十銭) 一金五百五拾円也 但シ無利息之事 右之金額正ニ借用申処確実也、返済方之義者本年五月三十日ヨリ各月毎金六円宛ニト決定シ来ル明治弐拾年十二月三十日限リ向九拾弐ヶ月之間其都度無遅滞皆済可致候、万一壱度成共延滞ニ及候ハヽ、前条更ニ取消出金一時皆済可仕候定約聊相違無之候、依而借用金証書如件 日本橋区横山町弐丁目九番地 借主 千金良甚右衛門㊞ 明治十三年四月一日 小津清左衛門殿」

明治十三年(1880)四月一日、小津清左衛門本店宛の借用証文である。借主は千金良甚右衛門である。三川屋甚右衛門の名で横山町二丁目に店があった。借用は綿代金である。(小津史料館 小西良明)

川崎大師東京別院 薬研堀不動院 https://www.yagenborihudoin.com/

2025年2月6日木曜日

明顕山 祐天寺

祐天寺は、浄土宗の寺院である。享保三年(1718)の春ごろから増上寺三十六世住持の祐天の体調が悪化したため、弟子の祐海は祐天が常念仏を行える廟所を探す。しかし同年七月十五5日に祐天が亡くなる。祐天が廟所を目黒の地に建立することを望んでいたこともあり、祐海は同じ目黒にある善久院を金百両で購入し、住職となる。損傷の激しい善久院に祐天の廟所と常念仏堂を建立再興した。享保八年(1723)一月十三日、祐天寺の寺号が正式に許可される。祐天を開山とし、祐海は第二世となる。(祐天寺 - Wikipedia) 

祐天寺 論文には、伊勢国松坂を中心とした祐天信仰『佛教文化学会紀要』(令和4年12月)があります。

白子組海難碑 「文政二年十一月 勢州白子広寿丸芳蔵船乗組中国所名前(十四名) 南無阿弥陀仏 天下和順 日月清明 祐天寺祐東(花押) 夫れ仏の大非は偏へに苦者にあり常没の衆生を愍念し玉ふこと水に溺るゝ人を急ぎ救玉ふごとくなりとこゝに広寿丸といへる船文政二卯年十一月四日勢州白子を乗いでしに遠江灘てふ所にて同月十八日俄に難風吹起り翌十九日になりぬれども猶はげしくすさまじさなどいふべくもあらねば乗合十四人のもの行衛も知れずなりにきまさに姿婆苦海沈没のありさまかなしむべし是により施主の人々いたく哀み石をきざみ当寺に建て永く菩提を弔ひ深く阿みだ仏の悲願を仰ぐ豈弘誓の船救わざらんや 我今瞻比福廻生安楽土と云爾願以此功徳 平等施一切 同発菩提心 往生安楽国 文政四辛巳天 七月造立之」

文政四年(1821)七月、白子組太物問屋仲間海難供養碑を建立。文政二年(1819)十一月に勢州白子湊の広寿丸芳蔵船乗組中の十四名の海難事故の供養碑で三回忌に建立されました。白子組は、伊豆蔵屋吉右衛門、大黒屋三郎兵衛、柏原孫左衛門、恵比寿屋八郎左衛門、大黒屋吉右衛門、枡屋九右衛門、嶋屋半兵衛、越後屋八郎兵衛、白木屋彦太郎、大丸屋正右衛門、蔦屋市郎左衛門、槌屋幸助の十二軒、呉服店を本店とする太物仲間です。大伝馬町組は、両国の回向院で供養碑を建立しています。

百萬遍講中永代石碑 「南無阿弥陀佛 祐天(花押) 明顕山祐天寺九䇛西誉祐東(花押) 江戸金吹町 発願主鍵屋善助 文政四辛巳歳正月十五日造 日本元禄中、我開山大僧正祐天尊者徳行高輝 以光明名号専摂化十万、一時師在三縁山 憲廟曰、師也所書阿彌陀宝号験有七難遄銷之利、未知果然邪、師欽白、実爾経有之、佛告彌勒、其有得聞彼佛名号、乃至一念此人為得大利、是彌陀弘願之力人間信受之功水月感応之徳、豈敢貧道之術乎、今江戸金吹街有鍵屋善助者、性履信修善、嘗奉事師之手筆名号猶謁真影也、或病悩困厄事或臨終錯乱者自利利它、皆修百萬念佛会至誠悃禱寫、則獲安楽如影響矣、善助覩此霊異信仰愈益進、則為報恩摸此名号刻于巨石、以謀不朽同得善利者随喜助費此碑速成建之師之塔前、亦復不可思議無上功徳也乎哉 文政辛巳春三月十五日、現住沙門祐東識之」碑文には、小津清左衛門、大橋太郎次郎ほか七百名の銘がある。

文政四年(1821)正月十五日の建立、当主 小津清左衛門長澄、本店(小津清左衛門)支配人 林兵衛、向店(大橋太郎次郎)支配人 松兵衛の時である。太物店は、文政二年(1819)十一月に小津権右衛門から伊勢屋権右衛門に屋号を変更しており、分家小津権右衛門祐助からは寄進していない。(小津史料館 小西良明)

明顕山 祐天寺 http://www.yutenji.or.jp/

2025年2月5日水曜日

大伝馬町八雲神社

 大伝馬町八雲神社 神田明神拝殿左側にある境内社

長谷川木綿古帳差引帳 「覚 一金三拾両也 天王様江寄進金内金拾両ハ午盆後証文金也 右者今般神輿御修覆ニ付度々御頼申参候間仲間相談之上寄進いたし遣候、尤町金ニ而祭当番江相渡申候、以上 行事 綿屋惣兵衛 伊勢屋三右衛門 安永七年戌四月九日」

安永七年(1778)四月九日、御神輿の修覆のため寄進した覚である。

長谷川木綿古帳差引帳 「覚 一天王様絹幟弐拾本先年奉納いたし候御祭礼之砌幟持人足ちん之儀是迄町入用之内ゟ出金有之候、然ル処此度月行事衆ゟ願ニ付一統評儀之上已来右入用町金ゟ壱両宛出し可申候筈ニ相談取結申候、為念相記置候、以上 行事頭 竹内四郎兵衛 布袋屋善右衛門 天明八年申六月」

天明八年(1788)六月、絹幟弐拾本奉納し、祭礼の幟持ち人足賃についての覚である。

長谷川木綿古帳差引帳 「覚 一金三両弐分弐朱也 右ハ天王様太鼓図鳥修覆有之候ニ付祭当番家主中ゟ寄進いたし呉候様おたのみ参候而町内相談之上右金子町金より奉納仕候、以上 行事頭 川喜田久太夫 長谷川次郎吉 寛政六甲寅六月」

寛政六年(1794)六月、太鼓図鳥(諫鼓鶏の山車太鼓)修覆代を奉納した覚である。神田祭の神幸祭 諫鼓鶏の山車

奉納天水桶 「深川大島の鋳物師・太田近江大掾、藤原正次(通称・釜六) 大伝馬町 太物問屋中 天保十己亥六月」

天保十年(1839)六月、天水桶を大伝馬町太物問屋仲間が奉納。この時の仲間は、伊勢屋清左衛門、布袋屋善右衛門、川喜田久太夫、伊藤屋利助、長谷川次郎吉、宮嶋屋與兵衛、長谷川源右衛門、丹波屋次郎兵衛、大和屋九郎左衛門、綿屋惣兵衛、川喜田平四郎、大黒屋三郎助、戎屋六郎次、亀屋武右衛門、丸屋藤助、嶋屋茂三郎、升屋七左衛門、升屋佐太郎、田端屋次郎左衛門本店、新店、大和屋三郎兵衛、奈良屋伊右衛門の二十二軒である。(小津史料館 小西良明)

神田明神・御朱印 神田明神「大伝馬町八雲神社」

2025年1月31日金曜日

神田明神

 神田明神は、正式名称・神田神社。 東京の中心ー神田、日本橋、秋葉原、大手丸の内、旧神田市場、豊洲魚市場、108町会の氏神様です。「明神さま」の名で親しまれております。(神田明神HPより)

境内社、大伝馬町八雲神社 祭神は建速須佐之男命。江戸時代以前から祀られていたという。大伝馬町天王。三天王の二の宮。(神田神社 - SHINDEN) 小津清左衛門家太物店伊勢屋が、大伝馬町組太物仲間に加入しており、「牛頭天王様」に寄進している。神田祭の神幸祭 諫鼓鶏の山車

境外社、宝田恵比寿神社 江戸城内宝田村から慶長十一年(1606)大伝馬町創立と同時に現在の地に移されてきました。べったら市 宝田恵比寿神社

年中諸用控 「神田明神様」(貼紙)「嘉永元申年改ス 一銀子壱匁目之処へ年頭四百銅遣ス 但し壱朱也遣ス」「一南□壱片 神田大明神 四月二十一日御神楽 世話人ゟ集メ」

長谷川木綿古帳差引帳 「覚 一金三拾五両也 〆 右者神田大明神楼門再建ニ付世話人川瀬平吉殿幷ニ社家木村隼人殿ヲ以数度願来り、依之仲間相談之上町金より奉納致候、尤右之外 覚 一金拾両也 綿店四軒について同両四店メ 一金五両也 久保寺、升屋、永田、□坂屋メ 〆金五拾両也右金□一入ニ相納申候、以上 行事頭 田端屋治郎左衛門 大和屋三郎兵衛 寛政五丑九月」

寛政五年(1793)九月、神田明神の楼門再建について世話人川瀬平吉と社家木村隼人から大伝馬町組太物問屋仲間へ数度願出され、町金より出金寄進した覚えである。久保寺、升屋は、木綿売場 久保寺喜三郎、升屋七左衛門、永田は木綿・繰綿店永田伊兵衛である。

長谷川木綿古帳差引帳 「覚 一金拾五両也 但シ町金ゟ 右者神田明神御社神馬飼馬料之義社家品川監物殿ゟ寄進之義御頼ニ付仲間相談之上奉納いたし候、右神馬之儀ニ付已後寄進例ニ相成不申様急度相改置申候事 行事 伊勢屋治郎左衛門 大和屋三郎兵衛 文化五年辰十月」

文化五年(1808)十月、神田明神の神馬飼馬料について社家品川監物から大伝馬町組太物問屋仲間へ願出され、町金より出金寄進した覚えである。しかし実際は、品川監物が着服しており、神田明神 神主 柴崎宮内より無宿に致し、吉五郎と改名させられている。(藤岡屋日記・雑記) (小津史料館 小西良明)

神田神社由緒略記 本居豊頴 編(国会図書館) https://dl.ndl.go.jp/pid/815230

神田明神 https://www.kandamyoujin.or.jp/

2025年1月30日木曜日

当智山 本誓寺 称名院

称名院は、浄土宗当智山 本誓寺の子院である。大正十五年(1926)に深川仲大工町の称名院(旧寮舎)は本寺の本誓寺と合併した(猫の足あと)。小津清左衛門家江戸店の奉公人の菩提寺である。現在は、本誓寺の墓地に小津清左衛門家江戸三店の奉公人の墓がある。


 年中諸用控 「称名院」(貼紙)「嘉永元申年改ス 一小玉三□五分之処四百個遣ス」「年頭旦那様御名前銀壱朱也遣ス 同」「一弐匁之処三百個遣ス 正七 請取二日置ニ付□□□ 支配人名前 両度 同」「目代名前 両度」(貼紙)「記 〆廿六年七月十日致候 一金壱円弐拾銭 年中名代 一金壱円也 不動□供養料 一金五拾銭 御時布施 一金三拾銭 年中□□料 三拾銭 一金弐拾銭 □地□へ弐拾銭 一金拾銭也 下男衆へ八拾銭 〆金三円六拾銭也 外ニ白米弐升□□□□ 右之□□左ニ御目代支配人 各弐拾銭 拾□人〆各弐拾銭ツヽ 本誓寺御布施 右之通合計出金可致事 帳合者拾帳払トナル ○盆店行御布施ハ其時之小遣帳ヲ以ヲ支払可致事 □布施ハ□□□□ □□壱七□□□□」

小津家文書20-323 「寺請状之事 一此清左衛門与申仁従代々浄土宗ニ而拙僧旦那ニ紛無御座候、御 公儀様御法度之切支丹邪宗門ころひ候類族之親類縁者ニ而者無御座候、右之清左衛門先祖ゟ御法度之宗門ハ不及申、疑敷宗旨ト申者、於有之者拙僧何方迄も罷出急度申分ヶ可仕候、為後日之寺請状仍而如件 深河本誓寺 称名院㊞ 貞享四年卯十二月 清左衛門㊞ 家主 庄左衛門殿 五人組 伊兵衛殿 同 又兵衛殿」

貞享四年(1687)十二月、小津清左衛門長生の称名院による寺請状である。宛先は大伝馬町壱丁目の家主庄左衛門と五人組伊兵衛、又兵衛である。小津清左衛門家の菩提寺は曹洞宗龍松山養泉寺であるが、称名院は江戸店の菩提寺である。

小津家文書25-558 (包紙)「江戸深川称名院墓地寄附請書」小津家文書25-557 「一札 一貴院旦那小津清左衛門殿、印塔地望ニ付拙院旦那井口氏寄進地之内ニ而西北之角東西江壱丈南北四間之場所墓地ニ進シ候所実正也、右之為御礼金子拾㊞両寄附被成、慥ニ請取申㊞候、勿論施主方ゟ何之構無御座候、為後日仍而如件 享保十八癸丑六月十三日 常照院㊞ 称名院 右之通、方丈寺内江相達シ月番ニ命置申候、已上 (裏書)表書之通少茂相違無御座候、以上 癸丑六月十三日 称名院㊞ 賀弁代㊞」

享保十八年(1733)六月十三日、小津清左衛門長康(長生三男)が、本誓寺の子院常照院の地内墓地を金十両で譲り受、称名院の墓地内とした一札である。

小津家文書1-8 (包紙)「上等 墓地券 小津清左衛門」「上等第一号三ノ側 割㊞墓地券 弐坪 深川 此地下四円 第一大区拾四小区大傳馬町一丁目一番地小津清左衛門 右地所相渡候條御規則之通相守可申候 明治八年第七月 墓地取扱所㊞」明治八年(1875)七月、小津清左衛門長篤江戸店の墓地券である。明治六年(1873)三月二十五日太政官布告第一一四号により墓地券が発行された。

小津家文書29-768 「領受証幷謝辞 壱銭印紙㊞ 一金壱百円 右者当院会計上不如意ヲ来シ為メニ拙僧廿余年ノ住職無効ニ属セントスルニ際シ無余義改革ノ旨情願仕候処特別之御慈善ヲ以本文ノ金額御援助被成下難有正ニ㊞領受仕候、依之為右報酬玄久尊霊ヨリ自得御霊位ニ至ル御代々御祖先ノ為メ拙僧終身御回願可申上候、仍テ御扶助金額受証併テ謝辞如件 明治廿二年四月廿六日 稍名院住職 鷲山辨教㊞ 小津御三店御中」

明治二十二年(1889)四月二十六日、称名院が経営が苦しいため小津商店、大橋商店、小津木綿店の三店が金百円を援助した受領書幷謝辞である。本寺本誓寺は、明治六年(1873)に檀林格となっているため称名院は宿坊のようである。     (小津史料館 小西良明)

猫の足あと 当智山 本誓寺

2025年1月29日水曜日

佃 住吉神社

 天正十八年(1590)八月一日、徳川家康が関東下降の際、摂津国西成郡佃村および大和田村の漁夫33人と神主 平岡権大夫好次が江戸に移り、正保二年(1645)には江戸鉄砲洲向かいにある百間(約180m)四方の干潟を幕府から下賜された漁夫らがこれを埋め立てて築島し、永住することになった。この島を故郷の摂津国佃村にちなんで「佃」(島は「佃嶋」、村は「佃村」)と命名し、正保三年六月二十九日(1646)には、息長足姫命(神功皇后)と東照御親命(徳川家康の霊)の分霊を奉遷し、摂津国佃の住吉社(現・田蓑神社)の分霊(住吉三神)とともに祀るべく、住吉神社が創建された。(住吉神社 (東京都中央区) - Wikipedia)

年中諸用控 「同(嘉永元申年改ス) 一小玉イロ之処 同(年頭) 弐百銅遣ス 佃 住吉様 正月廿三日持参ス 但し旦那様名前ニ而包」「一鳥目弐百銅 正月留札 佃 住吉様」「一鳥目弐百銅 夏越祓 改拾銭也 佃 住吉様」「一金三拾銭ヅヽ 一五九 住吉様 平岡日向」

明治になると、一月 五月 九月に各三拾銭、住吉神社 神主 平岡日向に奉納。

長谷川木綿古帳差引帳 「覚 一佃嶋住吉社裏門通石垣幷玉垣建立ニ付、壱ヶ年壱度宛之太々神楽興行同通町組ゟ数度被願組々茂衆増承知被致候ニ付町内一統及相談当丑年ゟ来ル巳年迄五ヶ年之間家別ゟ神楽料金百疋宛奉納可致候様取究メ申候、已上 行事頭 伊勢屋三右衛門 蛭子屋六郎次 寛政五年丑ノ七月廿日」

寛政五年(1793)七月二十日、大伝馬町太物組仲間、住吉社裏門通石垣幷玉垣建立のため一年に一度 太々神楽興行を通町組から願出があり、寛政五年より寛政九年まで五ヶ年の間、店別に神楽料百疋を奉納する取極められた覚である。

長谷川木綿古帳差引帳 「覚 一金五百疋 佃嶋住吉社湯巻料 右者船々渡海為安全仲間一統相談之上湯巻致興行候、尤町金より出金候なり 行事頭 田端屋治郎左衛門 大和屋三郎兵衛 寛政五丑九月十日」

寛政五年(1793)九月十日、金五百疋は、菱垣廻船などの航海安全祈願のため、大伝馬町組町金から出金し奉納する覚である。

長谷川木綿古帳差引帳 「覚 一此度従御奉行所様、佃嶋住吉由緒御糺有之ニ付、津守日向守義本国摂州佃村江罷登相糺候処本国住吉宮神主平岡氏、藤原氏姓代々神職ニ有之条、依之自今改平岡日向守藤之姓ニ相改候段京都吉田殿ニ而官位頂戴装束相改候条、承免許右趣御奉行所様江奉書上御聞済有之候、就右装束代幷名弘 御神楽奉献、御神酒被下度条申参一統参詣仕候、右諸入用自力ニ難叶組々江助力御願ニ付仲ヶ間中ゟ祝儀左之通 一金千疋 但し町金ゟ出ス 右之通祝儀差上、四月廿八日参詣御願申上候、以上 行事頭 綿屋惣兵衛 川喜田平四郎 寛政八年辰ノ四月」

寛政八年(1796)四月、京都 吉田殿(吉田神社)から津守氏から平岡氏または、藤原氏に改、官位頂戴装束相改るように免許、書上が御奉行所に届き、御奉行所より通達があり津守日向守から平岡日向守に改姓した覚である。大伝馬町組の町金金千疋の祝儀は、諸費用に充てられた。諸社禰宜神主法度により、吉田家は全国の神社の神職の任免権(神道裁許状)があった。(小津史料館 小西良明)

東京佃 住吉神社 https://sumiyoshijinja.or.jp/

2025年1月24日金曜日

御嶽山 武蔵御嶽神社

御嶽山 武蔵御嶽神社は、中世に修験道(しゅげんどう)が進出して金峯山蔵王権現(きんぷせんざおうごんげん)を主祭した。総本山は、奈良吉野の金峯山寺である。

年中諸用控 「一金百疋 御嶽山 正月甲府片羽常右衛門殿へ頼ム 錦方ゟ」 

武蔵御嶽神社 http://musashimitakejinja.jp/

金峯山修験本宗 総本山 金峯山寺 https://www.kinpusen.or.jp/

2025年1月23日木曜日

護国山 崇恩寺

 護国山 崇恩寺は、山田宮後西河原町から山田越坂寺町に移転、巡見寺四十一ヶ寺の一つ。

元文四年(1739)、小津清左衛門長康は、山田神官 久志本式部より同所越坂 護国崇恩寺を買求めて修理を加え移築、羽州の僧 梅圓を住職にさだめ、昌山玄久居士(創業者小津清左衛門長弘)を開基とし、玄久居士御信仰の三尊の菩薩を本尊となし長康の三人の娘 法円大姉(長女、享年三十二歳)、妙壽大姉(二女、享年十九歳)、妙勢大姉(三女、享年二十歳)の菩提を回向す、曹洞宗 龍松山 養泉寺末寺とする。

宝暦十二年(1762)十一月、小津清左衛門長保は、不許葷酒入山石碑を建立する。碑文「大檀松坂小津長保喜捨浄財建此碑仰祈家門榮盛姐室吉祥宝暦十二年歳次壬冬十一月護国山崇恩寺山田識」。

明治二年(1869)、小津清左衛門長柱は、龍松山 養泉寺本堂隣に移し、塔頭「崇恩寺」とする。

初代・原舟月作『蟠龍図』大伝馬町、諫鼓鶏山車の「太鼓面」2点が本堂の格天井に貼り付けられている。諫鼓鶏山車は、神田明神に保管されている。

昭和二十年(1945)、高田村寺 長松寺は焼夷弾で全焼、昭和二十一年(1946)、養泉寺住職の懇願により小津清左衛門長謹は、養泉寺内崇恩寺を移し、高田村寺 長松寺として再興した。

昭和五十年(1975)、養泉寺内にあった不許葷酒入山石碑は、長松寺の入り口に移転する。

神田明神の諫鼓鶏山車は、神田祭・神幸祭は一番目である。本居豊頴(とよかい)は、本居宣長の養子本居大平の孫であり、平野神社、神田神社の宮司を務めた後、東宮侍講、御歌所寄人になっている。(本居豊穎 - Wikipedia)

本居豊頴が宮司の時に諫鼓鶏山車の太鼓面を拝受したか。また豊頴は、明治二十五年(1892)十一月、神田神社由緒略記を編集。 (小津史料館 小西良明)

神田神社々務所 神田神社由緒略記(国立国会図書館)

松阪市観光協会 長松寺

2025年1月22日水曜日

出羽三山 出羽三山神社

出羽三山は真言宗であったが、江戸時代の初期、羽黒山の宥誉別当が徳川将軍家の庇護を受けるために、将軍家に保護されていた比叡山延暦寺にあやかり、羽黒山・月山は天台宗に改宗した。その際宥誉は天海上人の弟子となり、師の名を一字もらい天宥と改名した。天台宗への改宗に湯殿山は反発し、湯殿山派のみ真言宗となった。以降、三山にそれぞれ別当寺が建てられ、それぞれが以下のように、仏教の寺院と一体のものとなった。

羽黒山出羽神社 - 伊氐波神の本地仏を正観世音菩薩とし、一山を寂光寺と称して天台宗の寺院(輪王寺の末寺)であった。羽黒山全山は、江戸期には山の至る所に寺院や宿坊が存在した。羽黒山に羽黒山五重塔が、鳥居前に手向宿坊街が残っているのはその名残である。月山神社 - 本地仏を阿弥陀如来とし、岩根沢(現・西川町)に天台宗日月寺という別当寺が建てられた。湯殿山神社 - 本地仏を大日如来とし、別当寺として本道寺(現・口之宮湯殿山神社)、大日坊、注連寺、大日寺(現大日寺跡湯殿山神社)という真言宗の4寺が建立され、うち本道寺が正別当とされた。

出羽三山は、山形県村山地方・庄内地方に広がる月山・羽黒山・湯殿山の総称である。修験道を中心とした山岳信仰の場として現在も多くの修験者、参拝者を集めている。出羽三山は、近代以降に使われるようになった用語である。かつては「羽州三山」、「奥三山」、「羽黒三山(天台宗系)」、「湯殿三山(真言宗系)」と呼ばれていた。三山それぞれの山頂に神社があり、これらを総称して出羽三山神社という。(出羽三山 - Wikipedia)

長谷川木綿古帳差引帳 「覚 一羽黒山玄良坊、庚甲坊右両人ゟ昨年中被願出聞済ニ相成居候奉納金之内未寅年分金拾両奉納可致之処当丑年分と差繰奉納致呉候様被願出候ニ付一統相談之上聞済、則寅年分金十両此度奉納致候、尤当丑年分金五両未寅年等奉納致可候事 左ニ 一金拾両也 未寅年分出方余時町金ゟ右之通奉納致遣候、則請取書壱通取置申候、以上 行事 川喜田久太夫、伊藤利助 天保十二丑年三月」

天保十二年(1841)三月、大傳馬町太物仲間の記録で、羽黒山の玄良坊、庚甲坊の願出に、行事当番、川喜田久太夫、伊藤利助の両店が対応し、町金(太物仲間金)から奉納金を出金。

山上の宝物殿に玄良坊筆「於竹大日如来堂修復 寄附者姓名録」(嘉永二年(1849)季歳次己酉孟夏穀旦於竹大日如来別当玄良防弘道謹記)に馬込勘解由、小津清左衛門と連名で金襽水引壱張を寄進している。赤地金襽水引壱張 地紋蜀紅形 大伝馬町壱丁目馬込勘解由 同所小津清左衛門 但しこの水引は現存して居ない。(齋藤岩蔵著「お竹大日如来」)

赤地金襽水引壱張は、回向院でおこなれた於竹大日如来出開帳のときで、小津清左衛門長柱日記に、水引代金十四両程の費用が記録されている。      

小津家文書11-29 「預申金子之事 ㊞ 一金三百両也 右者左衛門尉勝手向就用借用被申候処実正ニ御座候、返済之儀者月壱割之利足相加、当十二月限庄内為登金を以元利無相違可致返済候、為後日証文仍如件 酒井左衛門尉内勘定組頭 佐藤仲助㊞ 勘定組頭 木部謙蔵㊞ 郡代 疋田弘右衛門㊞ 慶応四辰年二月 小津清左衛門殿 前書之通相違無之候、以上 家老 松平権十郎㊞」

庄内藩新徴組は、江戸市中取締の御見廻り役にあった。江戸薩摩藩邸の焼討事件は、慶應三年(1867)十二月二十三日に薩摩藩が 春日神社前にある庄内藩の屯所として使われていた寄席の「吹貫」に鉄砲が撃ち込まれ、その亭主と使用人のニ名が死亡した。その為、翌日二十四日、将軍の留守を守る淀藩主の老中稲葉正邦が、庄内藩江戸藩邸の留守居役松平親懐(権十郎)に「薩摩藩邸に賊徒の引渡しを求めた上で、従わなければ討ち入って召し捕らえよ」との命を下す。翌々日二十五日に江戸の三田にある薩摩藩の江戸藩邸が江戸市中取締の庄内藩新徴組らによって襲撃され、放火により焼失した(江戸薩摩藩邸の焼討事件 - Wikipedia)。 事件の二カ月後、慶応四年(1868)二月、出羽庄内藩に貸した金三百両である。五月には、徳川慶喜の警護などを目的とした彰義隊に金六拾両を差出している。(小津家文書29-771「請取申一札之事」)    (小津史料館 小西良明)

出羽三山神社 http://www.dewasanzan.jp/

2025年1月18日土曜日

羽黒山 荒澤寺 正善院

 羽黒山 荒澤寺 正善院 黄金堂 於竹大日堂

「於竹大日如来略縁起 密以、吾朝ハ神国といへども、和光同塵の利益不可思議なるが故に、天地開闢の大古より、本地の垂跡海内に普(あまね)く、五濁悪世の末代といへども、諸佛に化現枚挙するなり遑(いとま)あらず、是しかしながら一切衆生を、悉皆済度したまふべき、深重無二の弘誓とぞいふべき、爰に我黄金堂なり安置したてまつる、於竹大日如来の来由を尋ね奉るに、往年元和、寛永のころほひ、武蔵国比企郡に、戒行堅固なる聖ありけり、正身の大日如来を拝せむ事を深く願)ひ、千里の行程をも遠しとせず、我御山に歩みを運ぶ事年久しく成にけり、一とせ例の如く登山して、自坊に暫く止宿の折から、夜中に誰ともなくて告たまはく、汝わが尊容を拝せんと思はヾ、是より江戸に行て佐久間某が召つかひ竹女といふ者を拝すべしとなり、此瑞夢既)に三度に及びけれバ、行者ハ感涙肝に銘じて宿坊なりける、我先人玄良坊宣安にしかくと談話れバ、玄良坊も霊夢を感じて、打連だちて大江戸に登りぬ、佐久間某ハ大傳馬町に住して名高き豪家なるまヽに、尋行てあるじに語るに、是より先に主人夫婦も夢思の告を蒙れる事有て、問もや来ると待たりければ、互に奇異なる佛勅をよろこび、その夜密に竹女が部屋を窺ひ、両人に拝まするに不思議なる哉 平常よりも、殊に端正美麗に見えて、其全身より光明を放ち、一室のうち赫奕(かくやく)たり、行者ハ此度望たりぬと、あまたヽび礼拝稽首し、宣安(せんあん)と倶に終夜誦経し、翌すバあるしに暇を告て両僧互に名残をしげに、泣々本国へ帰り行ぬ斯て竹女ハ次の日より、一間にのみ篭りをりて、昼夜称名を唱へて、四五日ばかりハさてありけるが、寛永十五年三月廿一日の暁、俄に屋上に紫雲たなびき、室内に異香薫じて、大往生を遂をはりぬ、抑此竹女といへるハ、常に佛名を称して慈悲の心深く、かヽる豪富の家に仕へて、聊不足なき身にハあれども、仮初にも五穀を捨ず、我食を減じて乞食牛馬に施し、厨の水盤(なかし)の水落しにハ、布の袋を絞り置て、洗ひ流す雑菜といへども総て徒にハせざりたるとぞ、偖また佐久間夫婦の人ハ度々の奇端を見しより、信心日頃に十倍して、慈悲善根怠る事なく、現當二世の報謝のために、若干の資財を喜捨して、等身の尊像を彫刻し、持佛堂に安置して、朝暮崇敬したりたるが、其後寛文年中にいたりて、かかる尊容を俗家におかむハ、さはいへど勿体なしとて、霊所といひ 由緒といひ、値遇深き佛場なれバ遥々當国に守護し下りて、當山に安置し訖(をはん)ぬ、されバ人口に膾炙(くわいしや)して、或ハ於竹大日如来とも、或ハ佐久間大日とも、拳(こぞり)て称し奉たるぞかし、倩(つらつら)案ずるに、皆これ佛陀の方便にて、或ハ凡俗の少女と化生し、或ハ受戒の行者と応現し、愚痴無知の悪人女人を、安養世界の青蓮華台に、輙(たやす)く乗ぜしめ給はむと成べし、然る間此霊像を拝せん輩、慈悲を元とし、五穀を尊とみ、信心渇仰の心を励まし、現世後生の安穏快楽を、一向に頼み奉るべき者也 維持元文五年庚申四月佛生日 出羽国羽黒山麓黄金堂 於竹大日如来別當玄良坊仲間謹記」嘉永二年(1849)判。  

寛永十五年(1638)三月二十一日、お竹さんは、佐久間家の菩提寺、当時馬喰町カ善徳寺に埋葬される。

寛文六年(1666)、大伝馬町壱丁目名主佐久間勘解由は、出羽国羽黒山天宥法印に願い、黄金堂の境内に江戸の職人の手によって三間四面のお堂を建て、「お竹大日堂」と名付けた。

元文五年(1740)七月朔日より閏七月晦日迄、湯島天神に於いて湯殿山別当蓮台寺によって於竹大日如来出開帳、羽黒山麓黄金堂於竹大日如来別当玄良坊仲間は、於竹大日如来略縁起を刷る。

安永六年(1777)七月朔日より六十日間、愛宕山円福寺にて、出羽湯殿山黄金堂玄良坊佐久間おたけ大日如来開帳

文化十二年(1815)七月廿一日より六十日間、金龍山浅草寺境内の念仏堂に於いて玄良坊によって於竹大日如来出開帳、「霊宝に茶釜、前垂、たすきの紐等有り、前垂紐に紫縮緬を用ひたるもおかし」(武江年表)

嘉永二年(1849)三月二十五日より六十日間、両国の回向院において出羽国湯殿山黄金堂玄良坊によって於竹大日如来出開帳、「相撲小屋取払難く候ニ付。開帳四月五日初日と相極メ。」「四月五日開帳初日之処。同月四日ニ紀伊殿逝去ニ付。七日之間鳴物停止之御触出候故。同月十日御停止明ニ付。同月十一日ニ開帳相始メ申候。」(藤岡屋日記)「執事良玄坊(玄良坊)、お竹の蔽膝、庖厨の板流し等、此の前の開帳の時とは其の品かはれるもをかし。雨天続きで参詣少なかりし」(武江年表)

年中諸用控 「一羽黒山おたけ大日如来 春御札参候候其節金百疋遣候、尤拾年之壱年おき百疋 天保弐卯年三月中遣ス 金百疋也 巳三月 御初穂之義者九兵衛遣ス□也 金百疋也 未二月 御初尾之儀右同断□□遣ス 金百疋 弘化五申二月 □□□ 金百疋 文久三年        亥三月晦日奉納 金百疋 慶應三年卯三月廿一日奉納 金百疋 明治六酉五月十七日奉納」

羽黒山 荒澤寺 正善院 https://hagurosan-shozenin.or.jp/

2025年1月17日金曜日

諸宗山 無縁寺 回向院

諸宗山 無縁寺 回向院は、墨田区本所地域内に所在していることから「本所回向院」とも呼ばれている。明暦三年(1657)、明暦の大火の焼死者10万8千人を幕命(徳川家綱)によって葬った万人塚が始まり。のちに安政大地震をはじめ、水死者や焼死者・刑死者など横死者の無縁仏も埋葬する。明和五年(1768)以降には、境内で勧進相撲が興行された。これが今日の大相撲の起源となり、明治四十二年(1909)旧両国国技館が建てられるに至った。国技館建設までの時代の相撲を指して「回向院相撲」と呼ぶこともある。昭和十一年(1936)一月には大日本相撲協会が物故力士や年寄の霊を祀る「力塚」を建立した(回向院 - Wikipedia)。

長柱日記(五) 「同六日 昼後雨 一此度江戸表於回向院羽州お竹大日如来尊開帳之由久蔵ゟ申来、同八日 小雨、夕方ゟ晴、風大吹 先月廿九日出久蔵ゟ申越、此度夏詰之両人江初下り之事故無腹臓次三郎へ為申聞候様申越致安堵候、去ル廿八日夕出羽お竹大日如来尊御当着ニて殊之外賑々敷由有之候様申越、右者馬込氏又手前店由緒書有之由、佐久間家ニ付先年之節茂馬込様方ゟ被仰御熟談之上水引出来之由、拾四両程掛り御座候由八郎兵衛申居候、尤久蔵方へ可然様相談之上可致様申遣ス、右之事申出候」嘉永二年(1849)四月の松阪にいる小津清左衛門長柱の日記で、両国の回向院において羽黒山玄良坊によって出開帳が行われ、馬込勘解由、小津清左衛門連名で羽黒山に金襽水引壱張を寄進している。

小津家文書12-34 「為替手形之事 割㊞一金三拾両也 右之金高鏡岩濱之助殿ゟ慥ニ請取㊞申候所実正也、此代リ金御表浅草御蔵前三吉町雷権太夫殿 此手形以御受取可被成条参着之上無相違御渡可被成候、為後日之為替証文依而如件 嘉永五子年八月廿九日 小津新八㊞ 久蔵 大傳馬町 小津嘉七殿 政七殿 (裏書)表書之通リ慥ニ受取申候、以上 雷権太夫㊞ 九月十二日」嘉永五年(1852)八月二十九日、小津清左衛門本家店支配人新八から江戸本店支配人嘉七、差次政七に宛てた為替手形で、差出は鏡岩濱之助、松坂で預け金三十両を同年九月十二日、本人雷権太夫が受け取っている。

鏡岩濱之助は、相撲力士で引退後は郷里に戻って美濃相撲の勧進元となり、年寄・鏡岩を襲名した(鏡岩濱之助 - Wikipedia)。雷権太夫は、七代目相撲力士(雷 (相撲) - Wikipedia)。小津清左衛門は、宝暦五年(1755)より紀州藩松坂領御為替組御用を勤めていた。

小津家文書12-35 「為替手形之事 割㊞一金拾両也 右之金高鏡岩濱之助殿ゟ㊞慥受取申候所実正也、此代リ金其御表神田佐久間町廣瀬石太郎殿ゟ此手形以受取可被成条参着無相違御渡可被成候、為後日之為替証文依而如件 嘉永五子年八月廿九日 小津新八㊞ 久蔵 大傳馬町 小津嘉七殿 政七殿 (裏書)表書之通リ慥ニ受取申候、以上 雷権太夫㊞ 子ノ内九月十二日 吉兵衛」上記と同様に為替手形で、差出は鏡岩濱之助、松坂で預け金十両を同年九月十二日、神田佐久間町の廣瀬石太郎宛を雷権太夫が受け取っている。 (小津史料館 小西良明)

浄土宗 諸宗山 無縁寺 回向院 https://ekoin.or.jp/

2025年1月16日木曜日

獅子吼山 善徳寺

善徳寺は、獅子吼山専稱院と号します。善徳寺は、十蓮社楽誉聡林上人が開山となり、享徳ニ年(1453)江戸城西坪根沢に起立、その後平河町、大船町、馬喰町への移転を経て、明暦三年(1657)浅草新寺町(松が谷1-13)へ移転したといいます。関東大震災後の大正十四年九月二十二日、当地へ移転しています。「御入国翌年平川口へ移り、又三年を過大船町へ移り、慶長十三年馬喰町追廻へ移り、明暦三年七月朔日浅草へ引移り申候。」(猫の足あと)。

本堂には、本尊阿弥陀如来の前にしゃもじ型の於竹如来像が安置されている。脇に於竹大日如来立木像、於竹大日如来の軸があり、良い雇人が授る様にと云う参詣がある。

「於竹大日女如来畧縁起(おたけだいにちによらいりやくゑんぎ) 柳下亭種員敬誌」絵師・玉蘭斎貞秀、本文・柳下亭種員、版元・藤岡屋廣次郎で、大判三枚、嘉永二年(1849)の於竹大日如来出開帳により制作。松・竹・梅を現している。

玉蘭斎貞秀は、歌川貞秀(うたがわ さだひで、文化四年(1807)- 明治十二年(1879)?)。江戸時代後期から明治時代にかけての浮世絵師。横浜絵や、鳥瞰図、合巻の挿絵を描いたことで知られる。本名は橋本兼次郎。名は兼。始めは五雲亭、後に玉蘭、玉蘭斎、玉蘭主人、一玉斎、玉翁などと号す(歌川貞秀 - Wikipedia)。

柳下亭種員(りゅうかてい たねかず、 文化四年(1807年) - 安政五年八月二十一日 (1858年))とは 戯作者。 江戸 の生まれ。 板倉氏。 通称は坂本屋金七。 麓園とも号した。 酒屋 、 本屋 、 小物屋 などの職を転々とした後、 柳亭種彦 の門人となって長編の 合巻 を執筆している(柳下亭種員 - Wikipedia)。

藤岡屋慶次郎(ふじおかや けいじろう、生没年不詳)は江戸時代から明治時代にかけての東京の地本問屋。松栄堂、松林堂、藤慶と号す。水野氏。天保期には下谷池之端仲町で、嘉永期には通油町南側中程源七店地借、同町武右衛門地借にいた(藤岡屋慶次郎 - Wikipedia)。

小津家文書11-51-7 「永代売渡シ申家屋鋪之事 一大傳馬町壱丁目北側西角ゟ弐軒目、表京間拾間裏行町並地尻横幅京間拾間五尺壱寸之我等家屋敷、代金三千両ニ永代売渡シ、名主五人組家屋鋪売主立合、右之金子慥ニ請取申所実正也、此家屋敷ニ付 御公儀様ゟ御構無御座候、其上借金之方へ書入不申候、横合ゟハ不及申、子々孫々ニ至迄違乱申者無御座候、此家屋敷ニ付、何様之出入御座候共此加判之我々罷出、貴殿家屋敷ニ紛無之由、急度埒明ヶ可申候、為後日名主五人組加判致永代売券状仍如件 家屋鋪売主善八 五人組又兵衛 同伊兵衛 名主勘解由 元禄十七年申三月廿九日 小津清左衛門殿 地主惣三郎殿 小津三四右衛門殿 芝原三郎兵衛殿」
元禄十七年(1704)三月二十九日、大伝馬町壱丁目の御傳馬役兼帯名主佐久間善八退役により、家屋敷を譲渡する沽券状である。譲り受けたのは、店子の四人、松坂の小津清左衛門長生、伊勢相可の地主惣三郎、松坂の小津三四右衛門定治、津の芝原三郎兵衛である。名主勘解由は、佐久間善八跡を引き継ぐ馬込勘解由雅珍で、佐久間と同様御傳馬役兼帯名主で大伝馬町ニ丁目や四ツ谷伝馬町などの名主である。善徳寺は佐久間家・馬込家の菩提寺で、また佐久間家の奉公人お竹さんの墓がある。   

大伝馬町一丁目一番、二番に所有地(明治六年地租改正沽券図から見る小津清左衛門東京所有地)を持つ。           (小津史料館 小西良明) 

按針亭 三浦按針 ゆかり 善徳寺と馬込家墓

北区飛鳥山博物館 文化財説明板馬込家墓

猫の足あと 獅子吼山 善徳寺

2025年1月15日水曜日

雨降山 大山寺

真言宗大覚寺派 雨降山 大山寺は、江戸時代には当社に参詣する講(大山講)が関東各地に組織され、多くの庶民が参詣した。大山詣は6月27日から7月17日まで期間に行われる女人禁制の参詣で、特に鳶や職人の間で人気があった。大山に2つある瀧・良辧瀧と大瀧で水垢離し、頂上の石尊大権現に登り、持ってきた木太刀を神前に納め、改めて授けられた木太刀を護符として持ち帰った。大山祇大神は、富士山に鎮まるとされる木花咲耶姫の父であるため、大山と富士山の「両詣り」も盛んとなり、「富士に登らば大山に登るべし、大山に登らば富士に登るべし」といわれた。(大山阿夫利神社 - Wikipedia)

年中諸用控 「大山不動尊 渋野掃部」「一鳥目弐百銅 同所 年頭御札御持参候節遣し可申事 尤も此分小遣帳へ付ル」(貼紙)「□□ノ内 一金二拾銭 我等ニテ払帳合成ル 五九」

小津家文書2-66 (封筒)「相良号 天野彦右衛門殿 証書壱通」「印紙壱銭 印紙壱銭 借用金之証 一金四拾円也 右前書之金円要用ニ付、借用候処確実也、返済ノ儀ハ明治廿六年十二月十日限リ金廿円返金之約残金廿円ニハ明治廿七年十一月十日限リ返金約、若シ一時御請求相成候共異議無之且ツ所有財産御留押相成候共不苦候約、為後日借用金之証如件 神奈川縣南多摩郡町田村原町田千弐百廿二番地 明治廿四年三月十七日 借主天野彦右衛門㊞ 小津清左衛門出店主 田中国吉殿 印紙壱銭㊞ 今併約明治廿四年三月十七日付ヲ以テ地所之出入抵当金ニ対シ万一壱期タリ共滞リタル時以上ハ本文ヲ取消壱時ニ御請求相成候共異論無之、依之為後証如件 右 明治廿四年三月十七日 天野彦右衛門㊞ 小津清左衛門出店主 田中国吉殿」

明治二十四年(1891)三月十七日、借用金の証文で、借主は、神奈川縣南多摩郡町田村の相良屋 天野彦右衛門、貸主は小津清左衛門本店支配人 田中国吉である。  (小津史料館 小西良明)

大山阿夫利神社 https://www.afuri.or.jp/

 雨降山 大山寺 https://oyamadera.jp/

2025年1月10日金曜日

富士山 浅間大社

 浅間大社、徳川家康は867石の朱印地を安堵したほか、関ヶ原の戦いの戦勝を記念して現在の社殿を造営した。慶長14年(1609年)には、富士山頂における散銭取得の優先権を得た。その後の歴代将軍も祈祷料・修理料の寄進を行っており、4代将軍徳川家綱は金1千両を寄進、5代将軍徳川綱吉は銀50枚・金2千両、後にも金700両を寄進、10代将軍徳川家治は銀300枚を寄進した。その後も徳川家の歴代将軍による崇敬が絶たれることは無かった。また幕府により祈祷が命じられることがあり、宝永4年(1707年)には富士山焼祈祷により銀100枚を拝領し、祈祷は富士氏(富士大宮司・公文・案主)と別当が行っている(富士山本宮浅間大社 - Wikipedia)。

年中諸用控 「一鳥目百銅 富士山 猿谷右衛門 正月御札御持参之節遣ス 酉年ゟ改佐藤出羽様」猿谷右衛門、佐藤出羽は、富士山の御師で正月に御札を小津本店に持参していた。

小津家文書18-250 「控 東京 第一大区 十四小区 大傳馬町壱丁目壱番地 伊勢国飯高郡松坂 小津清左衛門出店 紙商平民 当出店主 出品人 土屋彦平 承応元年六月中開業 其後永続方今営業 一美濃判雁皮紙 五拾状入 壱〆 但シ壱状ニ付四拾八枚分 原価金弐円五拾銭 一雁皮長尺半切 九百六拾枚入 壱〆 原価金壱円也 弐口合金三円五拾銭 外□箱 丈壱尺四寸 巾壱尺 深サ三寸五分 丈弐尺五寸 〆箱 弐包 巾六寸 深サ六寸 産地製造場 岐阜縣下美濃国武儀郡御手洗村 雁皮紙荷主 紙屋喜助 静岡縣下駿河国静岡七軒町 雁皮半切荷主 勧工所 素質 不詳 製造用品 不詳 美濃国雁皮楮 稿麦ガラ 駿河国三俣楮 石灰 ヌヘシノ木根製糊 製造法 美濃国山林江植造置雁皮楮ト申木ニテ毎年四月頃切込木ノ皮ヲムキテ揚ケ水ニ漬置数度晒シ蕎麦ガラノ灰汁ニテ煮揚ヶ石板(盤)ノ上ニテ拍子木ニテタタキ是ヲ水トヌベシト申木ノ根ヲ糊ニシテ混シ合漉揚ヶ板ニ張テ揚裁揃ルモノナリ亦雁皮半切ハ三俣ト申楮多クハ山辺へ植造ルモノニシテ毎年十二月頃切込大桶ニ入レ蒸シ夫ヨリ乾揚ヶテ水ニ漬置上皮ヲ離シ残リ中皮ヲ石灰汁ニテ煮揚又々数度水ニ漬晒シ石盤ノ上ニテ棍棒ニテタタキヌベシト申木根ノ糊ヲ混シ合セ漉立板ニ張乾揚弐タツ切裁揃モノナリ 製造機械 漉立ノ舟ハ凡巾三尺横四尺位ノ桶ニシテ漉立簾ハ女竹ノ小網ノシゴヲ馬ノ尻毛ニテ網シ又張板ヲ用ユルナリ 製造人名 不詳 効用 雁皮紙之義ハ多クハ製本或ハ書籍写物等ニ用ユル半切之義ハ当今使用之品ニテ文通ニ用ユルモノナリ 開店場 無之 商業景況 明治八年ト同九年壱ヶ年売高比格ナシテ九年分弐割減 運輸 三菱会社取扱 仕入高総計 壱ヶ年凡金拾八万円余 売出高総計 壱ヶ年凡金拾五万五千円余 審査 普通漉方 原価 増減無之 出品 増減無之右出品取扱之義ハ御開場中御府江御委任奉願候也 右 土屋彦平 明治十年六月廿日」

小津家文書18-243 「一美濃判雁皮帋 二百九十八 代価金弐円五拾銭 十箱 一雁皮長尺半切帋 代価金壱円 十箱 東京 第一大区 十四小区 大傳馬町壱丁目壱番地 小津清左衛門出店主 出品人 土屋彦平」

明治十年(1877)八月、小津清左衛門本店支配人土屋彦平は、上野公園で開催された第一回内国勧業博覧会に美濃雁皮紙、駿河雁皮紙を出品した。(小津家文書18-242「出品願書」)   (小津史料館 小西良明)

富士山本宮浅間大社 http://fuji-hongu.or.jp/sengen/

2025年1月9日木曜日

住吉大社

 住吉大社の祭神は、伊弉諾尊が禊祓を行われた際に海中より出現された底筒男命・中筒男命・表筒男命の三神、そして当社鎮斎の神功皇后を祭神とします。仁徳天皇の住吉津の開港以来、遣隋使・遣唐使に代表される航海の守護神として崇敬をあつめ、また、王朝時代には和歌・文学の神として、あるいは現実に姿を現される神としての信仰もあり、禊祓・産業・貿易・外交の祖神と仰がれています。(住吉大社の祭神の由緒)

年中諸用控 「一金□疋 堺 住吉様 正月□毎年〇叶ゟ神納ス 但し此分仕切江加入」〇に叶は屋号で、藪屋竹内四郎兵衛(松坂住の江戸店太物店)である。

小津家文書10-319-9 「改年之御慶不可有休期目出度申納候、先以其御地御揃愈御安泰可被成御越年珍重之御義奉存候、随而当方無異嘉年仕候、乍憚御安意思召可被下候、誠ニ右年始之御祝詞申上度如斯御座候、猶期永日之時候 恐惶謹言 小津清左衛門長(花押) 正月五日 神田七左衛門様 参上候事」

安政二年(1855)正月五日、松坂にいる小津清左衛門長柱から大坂の神田七左衛門に宛てた年始挨拶である。神田七左衛門は、先代小津清左衛門長堯の長男鈴松で、養母は、長柱の妻 志賀である。大坂今橋町の神田七左衛門家に養子となり家督を継いでいた、安政五年(1858)九月十四日卒。神田七左衛門の店は、今橋一丁目 諸紙積 堺屋七左衛門。

小津家文書4-124 「以書付御礼御詫奉申上候 一金五百両也 右者前々請下申候鰹節其外大損相嵩候ニ付、当春中和解仕奉歎願候所、前書金子御増金御聞済被成下置候難有仕合奉存候、則先便為替ニて取組候間何卒日限之通御済方偏ニ奉願上候 一前書歎願之儀ニ付、昨寅年四月勢州御本家様へ直々奉願上候儀、何分大損相嵩堺屋七左衛門殿方ヘ何共申訳無御座、心痛途方暮罷居候所、貴節御節役 保兵衛様勢州表へ御登り之由承り前後不弁幸之事とぞんじ七左衛門殿方ヘ相談茂不仕㊞御店様をさし越御本家様へ歎願仕候儀、全大損ニて心配乱仕居候哉、右様不調法仕候段重々奉恐入候ハヽ後悔罷在候、右ニ付今後諸事急度相慎候間何卒是迄心得違之段幾重ニ茂御仁免被成下度偏ニ奉願上候、以上 堺屋七左衛門 節方 阿波座弥蔵㊞ 慶応三卯年六月十二日 小津御店 御支配人様 御店 御衆中様」

慶応三年(1867)六月十二日、今橋一丁目の堺屋七左衛門諸紙積店(神田七左衛門)の鰹節担当の阿波座弥蔵から小津本店支配人仁兵衛宛の詫び状である。節役 保兵衛は、明治四年(1871)に本店支配人となる宮村保兵衛である。

小津家文書番号なし 「一札 一㊞㊞㊞㊞私義 荷物積入可申約定を以、前金借用仕候処実正也、荷物積入差引可仕筈之折柄、外借財方ゟ厳敷取立ニ相成、不得止事休業ニ至実ニ難渋罷在無拠荷物積入方不行届之次第重々恐入候、附而者其以不相済儀ニ者御座候得共、右金子割済之儀相願尚従前之通御取引被成下度、且者手元改革相続仕度宗種々御頼談申上候処、格別御勘弁を以夫々御聞済被成下一同難有仕合奉存候、然ル上者 ㊞㊞㊞㊞ 毎年割済金聊無遅滞返済可仕候儀者勿論、已後者諸事不都合無之様急度相心得可申、若不当之仕儀有之候ハヾ、如何様之御取計被成候共其節一言之申分無之候、為後日一札、依而如件 大坂府下東大組第拾弐区 高麗橋弐丁目 紙屋嘉兵衛㊞ 大坂府下東大組第拾弐区 北浜通弐丁目 紙屋佐七㊞ 大坂府下東大組第弐拾区 安治川通南壱丁目 柏屋勘太郎㊞ 明治五年壬申六月 小津清左衛門殿 佐兵衛殿 前書之通御聞済之上、従前之通御取引被成下候段難有仕合奉存候、積方之儀者相成丈丹誠可仕候間万端格別御引立之程奉願上候、附而者甚以申上兼候得共為替金之儀者荷物着何卒御渡方被成下度、此段奉願上候、以上 紙屋嘉兵衛㊞ 明治五年壬申六月 小津清左衛門殿 佐兵衛殿」

明治五年(1872)六月、小津本店宛の紙屋嘉兵衛、紙屋佐七、柏屋勘太郎との船への荷物積込の一札である。江戸時代は、大坂で紙を入札し十組の菱垣廻船に紙積み込むまでの取引である。菱垣廻船の海上安全祈願は、佃嶋の住吉神社に、また海難事故は、大伝馬町組は回向院、白子組は祐天寺に施餓鬼供養や供養碑を建立した。

住吉大社には奥の院 開口神社(あぐちじんじゃ)、御旅所 宿院頓宮があります。写真は、開口神社境内にある三好元長戦死跡碑です。小津清左衛門家は三好家の末裔で、初代三好隼人祐長年(不明~1584)は、四代三好長秀(1479~1509)の孫(三好氏家記には三好義長ヨリ四代ノ孫)、三好元長(1501~32)の子(三好家記には三好筑前守長基ノ子)とあります。三好家の初代は三好義長で、六代の三好長慶(1522~64)は、五代三好元長の菩提を弔うため南宗寺を建立しています。        (小津史料館 小西良明)

住吉大社 https://www.sumiyoshitaisha.net/

開口神社 https://aguchi.jp/

宿院頓宮 https://shukuin-tongu.com/

2025年1月8日水曜日

朝熊岳 勝宝山 金剛證寺

臨済宗南禅寺派 朝熊岳 勝宝山 金剛證寺は、伊勢神宮の丑寅(北東)に位置する当寺は「伊勢神宮の鬼門を守る寺」として伊勢信仰と結びつき、「伊勢へ参らば朝熊を駆けよ、朝熊駆けねば片参り」とされ、伊勢国・志摩国併せて最大の寺となった。また、当寺には虚空蔵菩薩の眷属である雨宝童子が祀られているが、雨宝童子は伊勢神宮内宮の祭神である天照大御神の化現と考えらていたため、当寺は伊勢神宮の奥の院とされるようになった。こういった伊勢神宮との結び付きもあり、当寺では仏事に用いられるのは樒(しきみ)ではなく神事に使われる榊(さかき)が供えられる、全国でも珍しい寺となった。(金剛證寺 - Wikipedia)

年中諸用控 「□□内 一鳥目四百銅 伊勢朝熊嶽 正月御札参り候節遣候可事」

小津家文書10-327 「改年之吉慶不可有際限候、其表店中愈無事可被致重年之珍重存候爰元家内一家中共無異儀罷在候間此段安心可給候、先者年頭之祝儀申入度如此候、猶期永日之時候、恐惶謹言 清左衛門長(花押) 正月五日 大橋彦七殿 孝七殿 平兵衛殿 尚々店一同江も宜敷申入可給候、以上」

安政二年(1855)正月五日、松坂にいる小津清左衛門長柱から江戸向店大橋屋の支配人 彦七、差次 孝七、目代 平兵衛に宛てた年始挨拶である。

小津家文書10-319-12 「年之吉慶□□期申納候、店中愈万福越年被致珍重欣喜之至ニ候、当方全員□□加齢御安意被下候、先ハ右年頭之御祝義申入度如此御座候、□□期永日之時候、草々□□ 清左衛門 一月二日 国吉殿 常吉殿 彦蔵殿 周蔵殿 彦平殿 二伸 昨年者不相変之内鮭被願下辱御礼申入候、年明者天気都合も克嘉例之通初荷初売も□□□取引被致候事と奉存候、私過より春勘定之下調ニ取掛可申諸事入念疎漏無之様注意可有之候也」

明治二十六年(1893)一月二日、松坂にいる小津清左衛門長幸から東京の小津本店支配人 田中国吉、差次 常吉、目代 大市彦蔵、目代 清水周蔵、目代 東京紡績担当 土屋彦平、五人に宛てた年始挨拶である。 (小津史料館 小西良明) 

伊勢西国三十三所霊場会 朝熊岳 金剛證寺