医王山 金光寺は、伊豆大島町元町四丁目にある曹洞宗の寺院。
長谷川木綿店古帳 差引帳 「平坂彦兵衛船済口 一三州平坂彦兵衛船、去ル酉九月廿四日出帆日和無御座同所昨之嶋幷勢州安乗浦ニ逼船致、十月十二日彼地出船段々乗下り、同廿九日豆州下田江入津、翌十一月朔日朝同所出帆致候所難風逢行衛相知不申候由色々取沙汰仕候ニ付積合中相談之上浦々江飛脚相定吟味為致候所何方ニ茂居合不申、尤上方船是壱艘大嶋へ流寄破船いたし候由風聞御座候所、同朔日夜大嶋差木地村欠原与申所ニ而弥々破船相違無之、然レ共夜中殊ニ大四時何国共一向相分り不申船頭も散々ニ相成銘々命相助り申度岩角へ取付上乗水主都合七人三ヶ所ニ而陸江這上り声限ニ呼呼候得共一向答も無之無是悲人里ヲ相尋難舟之趣相届ヶ候所早速□嶋付御役人中御立合御見分之上人足御差出候相□□水主□□荷物御取揚被下候所追々死骸揚り候ニ付御吟味之上同所 金光寺へ土葬ニ御片付夫ゟ日々役人御立合荷物御取揚被下候へ共汐取懸敷キ場所故揚荷物無数、然共放嶋之事故致方茂無之分一差出候上乗賄預ニ而干立荷物仮船へ積入、当戌二月九日当地へ入津仕、則嶋御掛り御代官 江川太郎左衛門様御役所相届ヶ右一件相済候ニ付 鳥居武兵衛殿方ゟ荷物請取先格之通振勘定相済シ申候、尤浦入用不残町内ゟ相払候得者船槽之儀者町内勝手ニも可相成之所 鳥居殿幷賄与七ゟ合力致呉候様相頼候ニ付船槽之儀ハ船元へ合力致遣ス、其外溺死香典幷ニ相残り水主共へ心付左之通り 一金弐両ハ船頭へ香典 一金六両ハ水主六人へ同断 一金弐両ハ上乗嘉助心付 一金弐両ハ賄与七江同断 一金六両壱分ハ水主五人江同断 〆金拾八両壱分也 右之通合力致遣候、尤船頭不取計ニ而広太之荷物相捨り候得者合力致筋合者決而無之候得共大勢之者共溺死致候上気之毒ニ致候ニ付格別之了簡を以右合力いたし遣候、旦亦右大嶋之儀流人嶋ゆへ通路難相成難船之様子一向不申参候所彼嶋表御吟味厳重成ル事ニ而海状抔茂甚タ入念候□故数日相掛り前文之通り漸々、当二月上旬荷物積来、則海状も到着致早速 鳥居殿ゟ持参致□□□とも殊之外永キ事故右帳江者留置不申別紙ニ究置申候 一浦状壱通 一済口証文壱通 一元通諸勘定帳壱冊 一心付金請取書壱通 〆 一前文之通り於大嶋彦兵衛幷ニ乗組大勢溺死仕候ニ付町内評義之上右之亡霊旦者海上為安全、戌三月廿一日本所回向院境内江石碑幷ニ位牌相建月牌付置、同日施家鬼供養相頼銀符持参一統参詣仕候所殊之外叮嚀成義、則諸入用左之通り 一金拾三両ハ石碑幷ニ地代、施我鬼供養料、外ニ方丈江薬代 右之通町金ニ而出金いたし、尤口々書付別紙有之候ニ付一封ニ改大波籠江仕舞置候間□物ニ者相記不申候、以上 行事頭 蛭子屋六郎治 嶋屋六兵衛 戌三月」
寛政二年(1790)三月、平坂彦兵衛船済口は、三州平坂彦兵衛船松吉丸破船事故の覚である。三州平坂彦兵衛船は、寛政元年(1789)九月二十四日は、天気悪く一色町佐久島、阿児町安乗に出港できず、十月十二日に出港、二十九日に伊豆下田に入港、十一月一日に出港するが嵐にあい、一日夜、難破し伊豆大島南部の差木地村欠原に漂着する。溺死した乗組員七名は金光寺に埋葬された、大島は流罪の島のため処理に時間がかかり、翌年三月二十一日に大伝馬町太物仲間は、海上安全、溺死者供養の為本所の回向院に石碑建立、施餓鬼供養を行った。
回向院境内大伝馬町組太物問屋仲間石碑「勢州白子三州高浜船溺死一切精霊」「大専道悲信士 水主荘吉、大通慈門信士 水主伊助、□□本鏡信士 親父長兵衛、大棟梁聖信士 船頭彦兵衛、大幻恵空信士 飲食徳三郎、大演喜法信士 惣右衛門、大念持経信士 水主長松」「三州 各霊位 平坂」「寛政元己酉年」「霜月朔日卒」「世話人 行事 長谷川六郎治 岡本六兵衛 寛永二年戌三月」 蛭子屋六郎治は長谷川六郎治、嶋屋六兵衛は岡本六兵衛、太物問屋行事当番は、いずれも伊勢松坂の江戸店である、供養碑が現在も回向院境内で見ることができる。(小津史料館 小西良明)
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