2025年1月18日土曜日

羽黒山 荒澤寺 正善院

 羽黒山 荒澤寺 正善院 黄金堂 於竹大日堂

「於竹大日如来略縁起 密以、吾朝ハ神国といへども、和光同塵の利益不可思議なるが故に、天地開闢の大古より、本地の垂跡海内に普(あまね)く、五濁悪世の末代といへども、諸佛に化現枚挙するなり遑(いとま)あらず、是しかしながら一切衆生を、悉皆済度したまふべき、深重無二の弘誓とぞいふべき、爰に我黄金堂なり安置したてまつる、於竹大日如来の来由を尋ね奉るに、往年元和、寛永のころほひ、武蔵国比企郡に、戒行堅固なる聖ありけり、正身の大日如来を拝せむ事を深く願)ひ、千里の行程をも遠しとせず、我御山に歩みを運ぶ事年久しく成にけり、一とせ例の如く登山して、自坊に暫く止宿の折から、夜中に誰ともなくて告たまはく、汝わが尊容を拝せんと思はヾ、是より江戸に行て佐久間某が召つかひ竹女といふ者を拝すべしとなり、此瑞夢既)に三度に及びけれバ、行者ハ感涙肝に銘じて宿坊なりける、我先人玄良坊宣安にしかくと談話れバ、玄良坊も霊夢を感じて、打連だちて大江戸に登りぬ、佐久間某ハ大傳馬町に住して名高き豪家なるまヽに、尋行てあるじに語るに、是より先に主人夫婦も夢思の告を蒙れる事有て、問もや来ると待たりければ、互に奇異なる佛勅をよろこび、その夜密に竹女が部屋を窺ひ、両人に拝まするに不思議なる哉 平常よりも、殊に端正美麗に見えて、其全身より光明を放ち、一室のうち赫奕(かくやく)たり、行者ハ此度望たりぬと、あまたヽび礼拝稽首し、宣安(せんあん)と倶に終夜誦経し、翌すバあるしに暇を告て両僧互に名残をしげに、泣々本国へ帰り行ぬ斯て竹女ハ次の日より、一間にのみ篭りをりて、昼夜称名を唱へて、四五日ばかりハさてありけるが、寛永十五年三月廿一日の暁、俄に屋上に紫雲たなびき、室内に異香薫じて、大往生を遂をはりぬ、抑此竹女といへるハ、常に佛名を称して慈悲の心深く、かヽる豪富の家に仕へて、聊不足なき身にハあれども、仮初にも五穀を捨ず、我食を減じて乞食牛馬に施し、厨の水盤(なかし)の水落しにハ、布の袋を絞り置て、洗ひ流す雑菜といへども総て徒にハせざりたるとぞ、偖また佐久間夫婦の人ハ度々の奇端を見しより、信心日頃に十倍して、慈悲善根怠る事なく、現當二世の報謝のために、若干の資財を喜捨して、等身の尊像を彫刻し、持佛堂に安置して、朝暮崇敬したりたるが、其後寛文年中にいたりて、かかる尊容を俗家におかむハ、さはいへど勿体なしとて、霊所といひ 由緒といひ、値遇深き佛場なれバ遥々當国に守護し下りて、當山に安置し訖(をはん)ぬ、されバ人口に膾炙(くわいしや)して、或ハ於竹大日如来とも、或ハ佐久間大日とも、拳(こぞり)て称し奉たるぞかし、倩(つらつら)案ずるに、皆これ佛陀の方便にて、或ハ凡俗の少女と化生し、或ハ受戒の行者と応現し、愚痴無知の悪人女人を、安養世界の青蓮華台に、輙(たやす)く乗ぜしめ給はむと成べし、然る間此霊像を拝せん輩、慈悲を元とし、五穀を尊とみ、信心渇仰の心を励まし、現世後生の安穏快楽を、一向に頼み奉るべき者也 維持元文五年庚申四月佛生日 出羽国羽黒山麓黄金堂 於竹大日如来別當玄良坊仲間謹記」嘉永二年(1849)判。  

寛永十五年(1638)三月二十一日、お竹さんは、佐久間家の菩提寺、当時馬喰町カ善徳寺に埋葬される。

寛文六年(1666)、大伝馬町壱丁目名主佐久間勘解由は、出羽国羽黒山天宥法印に願い、黄金堂の境内に江戸の職人の手によって三間四面のお堂を建て、「お竹大日堂」と名付けた。

元文五年(1740)七月朔日より閏七月晦日迄、湯島天神に於いて湯殿山別当蓮台寺によって於竹大日如来出開帳、羽黒山麓黄金堂於竹大日如来別当玄良坊仲間は、於竹大日如来略縁起を刷る。

安永六年(1777)七月朔日より六十日間、愛宕山円福寺にて、出羽湯殿山黄金堂玄良坊佐久間おたけ大日如来開帳

文化十二年(1815)七月廿一日より六十日間、金龍山浅草寺境内の念仏堂に於いて玄良坊によって於竹大日如来出開帳、「霊宝に茶釜、前垂、たすきの紐等有り、前垂紐に紫縮緬を用ひたるもおかし」(武江年表)

嘉永二年(1849)三月二十五日より六十日間、両国の回向院において出羽国湯殿山黄金堂玄良坊によって於竹大日如来出開帳、「相撲小屋取払難く候ニ付。開帳四月五日初日と相極メ。」「四月五日開帳初日之処。同月四日ニ紀伊殿逝去ニ付。七日之間鳴物停止之御触出候故。同月十日御停止明ニ付。同月十一日ニ開帳相始メ申候。」(藤岡屋日記)「執事良玄坊(玄良坊)、お竹の蔽膝、庖厨の板流し等、此の前の開帳の時とは其の品かはれるもをかし。雨天続きで参詣少なかりし」(武江年表)

年中諸用控 「一羽黒山おたけ大日如来 春御札参候候其節金百疋遣候、尤拾年之壱年おき百疋 天保弐卯年三月中遣ス 金百疋也 巳三月 御初穂之義者九兵衛遣ス□也 金百疋也 未二月 御初尾之儀右同断□□遣ス 金百疋 弘化五申二月 □□□ 金百疋 文久三年        亥三月晦日奉納 金百疋 慶應三年卯三月廿一日奉納 金百疋 明治六酉五月十七日奉納」

羽黒山 荒澤寺 正善院 https://hagurosan-shozenin.or.jp/

2025年1月17日金曜日

諸宗山 無縁寺 回向院

諸宗山 無縁寺 回向院は、墨田区本所地域内に所在していることから「本所回向院」とも呼ばれている。明暦三年(1657)、明暦の大火の焼死者10万8千人を幕命(徳川家綱)によって葬った万人塚が始まり。のちに安政大地震をはじめ、水死者や焼死者・刑死者など横死者の無縁仏も埋葬する。明和五年(1768)以降には、境内で勧進相撲が興行された。これが今日の大相撲の起源となり、明治四十二年(1909)旧両国国技館が建てられるに至った。国技館建設までの時代の相撲を指して「回向院相撲」と呼ぶこともある。昭和十一年(1936)一月には大日本相撲協会が物故力士や年寄の霊を祀る「力塚」を建立した(回向院 - Wikipedia)。

長柱日記(五) 「同六日 昼後雨 一此度江戸表於回向院羽州お竹大日如来尊開帳之由久蔵ゟ申来、同八日 小雨、夕方ゟ晴、風大吹 先月廿九日出久蔵ゟ申越、此度夏詰之両人江初下り之事故無腹臓次三郎へ為申聞候様申越致安堵候、去ル廿八日夕出羽お竹大日如来尊御当着ニて殊之外賑々敷由有之候様申越、右者馬込氏又手前店由緒書有之由、佐久間家ニ付先年之節茂馬込様方ゟ被仰御熟談之上水引出来之由、拾四両程掛り御座候由八郎兵衛申居候、尤久蔵方へ可然様相談之上可致様申遣ス、右之事申出候」嘉永二年(1849)四月の松阪にいる小津清左衛門長柱の日記で、両国の回向院において羽黒山玄良坊によって出開帳が行われ、馬込勘解由、小津清左衛門連名で羽黒山に金襽水引壱張を寄進している。

小津家文書12-34 「為替手形之事 割㊞一金三拾両也 右之金高鏡岩濱之助殿ゟ慥ニ請取㊞申候所実正也、此代リ金御表浅草御蔵前三吉町雷権太夫殿 此手形以御受取可被成条参着之上無相違御渡可被成候、為後日之為替証文依而如件 嘉永五子年八月廿九日 小津新八㊞ 久蔵 大傳馬町 小津嘉七殿 政七殿 (裏書)表書之通リ慥ニ受取申候、以上 雷権太夫㊞ 九月十二日」嘉永五年(1852)八月二十九日、小津清左衛門本家店支配人新八から江戸本店支配人嘉七、差次政七に宛てた為替手形で、差出は鏡岩濱之助、松坂で預け金三十両を同年九月十二日、本人雷権太夫が受け取っている。

鏡岩濱之助は、相撲力士で引退後は郷里に戻って美濃相撲の勧進元となり、年寄・鏡岩を襲名した(鏡岩濱之助 - Wikipedia)。雷権太夫は、七代目相撲力士(雷 (相撲) - Wikipedia)。小津清左衛門は、宝暦五年(1755)より紀州藩松坂領御為替組御用を勤めていた。

小津家文書12-35 「為替手形之事 割㊞一金拾両也 右之金高鏡岩濱之助殿ゟ㊞慥受取申候所実正也、此代リ金其御表神田佐久間町廣瀬石太郎殿ゟ此手形以受取可被成条参着無相違御渡可被成候、為後日之為替証文依而如件 嘉永五子年八月廿九日 小津新八㊞ 久蔵 大傳馬町 小津嘉七殿 政七殿 (裏書)表書之通リ慥ニ受取申候、以上 雷権太夫㊞ 子ノ内九月十二日 吉兵衛」上記と同様に為替手形で、差出は鏡岩濱之助、松坂で預け金十両を同年九月十二日、神田佐久間町の廣瀬石太郎宛を雷権太夫が受け取っている。 (小津史料館 小西良明)

浄土宗 諸宗山 無縁寺 回向院 https://ekoin.or.jp/

2025年1月16日木曜日

獅子吼山 善徳寺

善徳寺は、獅子吼山専稱院と号します。善徳寺は、十蓮社楽誉聡林上人が開山となり、享徳ニ年(1453)江戸城西坪根沢に起立、その後平河町、大船町、馬喰町への移転を経て、明暦三年(1657)浅草新寺町(松が谷1-13)へ移転したといいます。関東大震災後の大正十四年九月二十二日、当地へ移転しています。「御入国翌年平川口へ移り、又三年を過大船町へ移り、慶長十三年馬喰町追廻へ移り、明暦三年七月朔日浅草へ引移り申候。」(猫の足あと)。

本堂には、本尊阿弥陀如来の前にしゃもじ型の於竹如来像が安置されている。脇に於竹大日如来立木像、於竹大日如来の軸があり、良い雇人が授る様にと云う参詣がある。

「於竹大日女如来畧縁起(おたけだいにちによらいりやくゑんぎ) 柳下亭種員敬誌」絵師・玉蘭斎貞秀、本文・柳下亭種員、版元・藤岡屋廣次郎で、大判三枚、嘉永二年(1849)の於竹大日如来出開帳により制作。松・竹・梅を現している。

玉蘭斎貞秀は、歌川貞秀(うたがわ さだひで、文化四年(1807)- 明治十二年(1879)?)。江戸時代後期から明治時代にかけての浮世絵師。横浜絵や、鳥瞰図、合巻の挿絵を描いたことで知られる。本名は橋本兼次郎。名は兼。始めは五雲亭、後に玉蘭、玉蘭斎、玉蘭主人、一玉斎、玉翁などと号す(歌川貞秀 - Wikipedia)。

柳下亭種員(りゅうかてい たねかず、 文化四年(1807年) - 安政五年八月二十一日 (1858年))とは 戯作者。 江戸 の生まれ。 板倉氏。 通称は坂本屋金七。 麓園とも号した。 酒屋 、 本屋 、 小物屋 などの職を転々とした後、 柳亭種彦 の門人となって長編の 合巻 を執筆している(柳下亭種員 - Wikipedia)。

藤岡屋慶次郎(ふじおかや けいじろう、生没年不詳)は江戸時代から明治時代にかけての東京の地本問屋。松栄堂、松林堂、藤慶と号す。水野氏。天保期には下谷池之端仲町で、嘉永期には通油町南側中程源七店地借、同町武右衛門地借にいた(藤岡屋慶次郎 - Wikipedia)。

小津家文書11-51-7 「永代売渡シ申家屋鋪之事 一大傳馬町壱丁目北側西角ゟ弐軒目、表京間拾間裏行町並地尻横幅京間拾間五尺壱寸之我等家屋敷、代金三千両ニ永代売渡シ、名主五人組家屋鋪売主立合、右之金子慥ニ請取申所実正也、此家屋敷ニ付 御公儀様ゟ御構無御座候、其上借金之方へ書入不申候、横合ゟハ不及申、子々孫々ニ至迄違乱申者無御座候、此家屋敷ニ付、何様之出入御座候共此加判之我々罷出、貴殿家屋敷ニ紛無之由、急度埒明ヶ可申候、為後日名主五人組加判致永代売券状仍如件 家屋鋪売主善八 五人組又兵衛 同伊兵衛 名主勘解由 元禄十七年申三月廿九日 小津清左衛門殿 地主惣三郎殿 小津三四右衛門殿 芝原三郎兵衛殿」
元禄十七年(1704)三月二十九日、大伝馬町壱丁目の御傳馬役兼帯名主佐久間善八退役により、家屋敷を譲渡する沽券状である。譲り受けたのは、店子の四人、松坂の小津清左衛門長生、伊勢相可の地主惣三郎、松坂の小津三四右衛門定治、津の芝原三郎兵衛である。名主勘解由は、佐久間善八跡を引き継ぐ馬込勘解由雅珍で、佐久間と同様御傳馬役兼帯名主で大伝馬町ニ丁目や四ツ谷伝馬町などの名主である。善徳寺は佐久間家・馬込家の菩提寺で、また佐久間家の奉公人お竹さんの墓がある。   

大伝馬町一丁目一番、二番に所有地(明治六年地租改正沽券図から見る小津清左衛門東京所有地)を持つ。           (小津史料館 小西良明) 

按針亭 三浦按針 ゆかり 善徳寺と馬込家墓

北区飛鳥山博物館 文化財説明板馬込家墓

猫の足あと 獅子吼山 善徳寺

2025年1月15日水曜日

雨降山 大山寺

真言宗大覚寺派 雨降山 大山寺は、江戸時代には当社に参詣する講(大山講)が関東各地に組織され、多くの庶民が参詣した。大山詣は6月27日から7月17日まで期間に行われる女人禁制の参詣で、特に鳶や職人の間で人気があった。大山に2つある瀧・良辧瀧と大瀧で水垢離し、頂上の石尊大権現に登り、持ってきた木太刀を神前に納め、改めて授けられた木太刀を護符として持ち帰った。大山祇大神は、富士山に鎮まるとされる木花咲耶姫の父であるため、大山と富士山の「両詣り」も盛んとなり、「富士に登らば大山に登るべし、大山に登らば富士に登るべし」といわれた。(大山阿夫利神社 - Wikipedia)

年中諸用控 「大山不動尊 渋野掃部」「一鳥目弐百銅 同所 年頭御札御持参候節遣し可申事 尤も此分小遣帳へ付ル」(貼紙)「□□ノ内 一金二拾銭 我等ニテ払帳合成ル 五九」

小津家文書2-66 (封筒)「相良号 天野彦右衛門殿 証書壱通」「印紙壱銭 印紙壱銭 借用金之証 一金四拾円也 右前書之金円要用ニ付、借用候処確実也、返済ノ儀ハ明治廿六年十二月十日限リ金廿円返金之約残金廿円ニハ明治廿七年十一月十日限リ返金約、若シ一時御請求相成候共異議無之且ツ所有財産御留押相成候共不苦候約、為後日借用金之証如件 神奈川縣南多摩郡町田村原町田千弐百廿二番地 明治廿四年三月十七日 借主天野彦右衛門㊞ 小津清左衛門出店主 田中国吉殿 印紙壱銭㊞ 今併約明治廿四年三月十七日付ヲ以テ地所之出入抵当金ニ対シ万一壱期タリ共滞リタル時以上ハ本文ヲ取消壱時ニ御請求相成候共異論無之、依之為後証如件 右 明治廿四年三月十七日 天野彦右衛門㊞ 小津清左衛門出店主 田中国吉殿」

明治二十四年(1891)三月十七日、借用金の証文で、借主は、神奈川縣南多摩郡町田村の相良屋 天野彦右衛門、貸主は小津清左衛門本店支配人 田中国吉である。  (小津史料館 小西良明)

大山阿夫利神社 https://www.afuri.or.jp/

 雨降山 大山寺 https://oyamadera.jp/

2025年1月10日金曜日

富士山 浅間大社

 浅間大社、徳川家康は867石の朱印地を安堵したほか、関ヶ原の戦いの戦勝を記念して現在の社殿を造営した。慶長14年(1609年)には、富士山頂における散銭取得の優先権を得た。その後の歴代将軍も祈祷料・修理料の寄進を行っており、4代将軍徳川家綱は金1千両を寄進、5代将軍徳川綱吉は銀50枚・金2千両、後にも金700両を寄進、10代将軍徳川家治は銀300枚を寄進した。その後も徳川家の歴代将軍による崇敬が絶たれることは無かった。また幕府により祈祷が命じられることがあり、宝永4年(1707年)には富士山焼祈祷により銀100枚を拝領し、祈祷は富士氏(富士大宮司・公文・案主)と別当が行っている(富士山本宮浅間大社 - Wikipedia)。

年中諸用控 「一鳥目百銅 富士山 猿谷右衛門 正月御札御持参之節遣ス 酉年ゟ改佐藤出羽様」猿谷右衛門、佐藤出羽は、富士山の御師で正月に御札を小津本店に持参していた。

小津家文書18-250 「控 東京 第一大区 十四小区 大傳馬町壱丁目壱番地 伊勢国飯高郡松坂 小津清左衛門出店 紙商平民 当出店主 出品人 土屋彦平 承応元年六月中開業 其後永続方今営業 一美濃判雁皮紙 五拾状入 壱〆 但シ壱状ニ付四拾八枚分 原価金弐円五拾銭 一雁皮長尺半切 九百六拾枚入 壱〆 原価金壱円也 弐口合金三円五拾銭 外□箱 丈壱尺四寸 巾壱尺 深サ三寸五分 丈弐尺五寸 〆箱 弐包 巾六寸 深サ六寸 産地製造場 岐阜縣下美濃国武儀郡御手洗村 雁皮紙荷主 紙屋喜助 静岡縣下駿河国静岡七軒町 雁皮半切荷主 勧工所 素質 不詳 製造用品 不詳 美濃国雁皮楮 稿麦ガラ 駿河国三俣楮 石灰 ヌヘシノ木根製糊 製造法 美濃国山林江植造置雁皮楮ト申木ニテ毎年四月頃切込木ノ皮ヲムキテ揚ケ水ニ漬置数度晒シ蕎麦ガラノ灰汁ニテ煮揚ヶ石板(盤)ノ上ニテ拍子木ニテタタキ是ヲ水トヌベシト申木ノ根ヲ糊ニシテ混シ合漉揚ヶ板ニ張テ揚裁揃ルモノナリ亦雁皮半切ハ三俣ト申楮多クハ山辺へ植造ルモノニシテ毎年十二月頃切込大桶ニ入レ蒸シ夫ヨリ乾揚ヶテ水ニ漬置上皮ヲ離シ残リ中皮ヲ石灰汁ニテ煮揚又々数度水ニ漬晒シ石盤ノ上ニテ棍棒ニテタタキヌベシト申木根ノ糊ヲ混シ合セ漉立板ニ張乾揚弐タツ切裁揃モノナリ 製造機械 漉立ノ舟ハ凡巾三尺横四尺位ノ桶ニシテ漉立簾ハ女竹ノ小網ノシゴヲ馬ノ尻毛ニテ網シ又張板ヲ用ユルナリ 製造人名 不詳 効用 雁皮紙之義ハ多クハ製本或ハ書籍写物等ニ用ユル半切之義ハ当今使用之品ニテ文通ニ用ユルモノナリ 開店場 無之 商業景況 明治八年ト同九年壱ヶ年売高比格ナシテ九年分弐割減 運輸 三菱会社取扱 仕入高総計 壱ヶ年凡金拾八万円余 売出高総計 壱ヶ年凡金拾五万五千円余 審査 普通漉方 原価 増減無之 出品 増減無之右出品取扱之義ハ御開場中御府江御委任奉願候也 右 土屋彦平 明治十年六月廿日」

小津家文書18-243 「一美濃判雁皮帋 二百九十八 代価金弐円五拾銭 十箱 一雁皮長尺半切帋 代価金壱円 十箱 東京 第一大区 十四小区 大傳馬町壱丁目壱番地 小津清左衛門出店主 出品人 土屋彦平」

明治十年(1877)八月、小津清左衛門本店支配人土屋彦平は、上野公園で開催された第一回内国勧業博覧会に美濃雁皮紙、駿河雁皮紙を出品した。(小津家文書18-242「出品願書」)   (小津史料館 小西良明)

富士山本宮浅間大社 http://fuji-hongu.or.jp/sengen/

2025年1月9日木曜日

住吉大社

 住吉大社の祭神は、伊弉諾尊が禊祓を行われた際に海中より出現された底筒男命・中筒男命・表筒男命の三神、そして当社鎮斎の神功皇后を祭神とします。仁徳天皇の住吉津の開港以来、遣隋使・遣唐使に代表される航海の守護神として崇敬をあつめ、また、王朝時代には和歌・文学の神として、あるいは現実に姿を現される神としての信仰もあり、禊祓・産業・貿易・外交の祖神と仰がれています。(住吉大社の祭神の由緒)

年中諸用控 「一金□疋 堺 住吉様 正月□毎年〇叶ゟ神納ス 但し此分仕切江加入」〇に叶は屋号で、藪屋竹内四郎兵衛(松坂住の江戸店太物店)である。

小津家文書10-319-9 「改年之御慶不可有休期目出度申納候、先以其御地御揃愈御安泰可被成御越年珍重之御義奉存候、随而当方無異嘉年仕候、乍憚御安意思召可被下候、誠ニ右年始之御祝詞申上度如斯御座候、猶期永日之時候 恐惶謹言 小津清左衛門長(花押) 正月五日 神田七左衛門様 参上候事」

安政二年(1855)正月五日、松坂にいる小津清左衛門長柱から大坂の神田七左衛門に宛てた年始挨拶である。神田七左衛門は、先代小津清左衛門長堯の長男鈴松で、養母は、長柱の妻 志賀である。大坂今橋町の神田七左衛門家に養子となり家督を継いでいた、安政五年(1858)九月十四日卒。神田七左衛門の店は、今橋一丁目 諸紙積 堺屋七左衛門。

小津家文書4-124 「以書付御礼御詫奉申上候 一金五百両也 右者前々請下申候鰹節其外大損相嵩候ニ付、当春中和解仕奉歎願候所、前書金子御増金御聞済被成下置候難有仕合奉存候、則先便為替ニて取組候間何卒日限之通御済方偏ニ奉願上候 一前書歎願之儀ニ付、昨寅年四月勢州御本家様へ直々奉願上候儀、何分大損相嵩堺屋七左衛門殿方ヘ何共申訳無御座、心痛途方暮罷居候所、貴節御節役 保兵衛様勢州表へ御登り之由承り前後不弁幸之事とぞんじ七左衛門殿方ヘ相談茂不仕㊞御店様をさし越御本家様へ歎願仕候儀、全大損ニて心配乱仕居候哉、右様不調法仕候段重々奉恐入候ハヽ後悔罷在候、右ニ付今後諸事急度相慎候間何卒是迄心得違之段幾重ニ茂御仁免被成下度偏ニ奉願上候、以上 堺屋七左衛門 節方 阿波座弥蔵㊞ 慶応三卯年六月十二日 小津御店 御支配人様 御店 御衆中様」

慶応三年(1867)六月十二日、今橋一丁目の堺屋七左衛門諸紙積店(神田七左衛門)の鰹節担当の阿波座弥蔵から小津本店支配人仁兵衛宛の詫び状である。節役 保兵衛は、明治四年(1871)に本店支配人となる宮村保兵衛である。

小津家文書番号なし 「一札 一㊞㊞㊞㊞私義 荷物積入可申約定を以、前金借用仕候処実正也、荷物積入差引可仕筈之折柄、外借財方ゟ厳敷取立ニ相成、不得止事休業ニ至実ニ難渋罷在無拠荷物積入方不行届之次第重々恐入候、附而者其以不相済儀ニ者御座候得共、右金子割済之儀相願尚従前之通御取引被成下度、且者手元改革相続仕度宗種々御頼談申上候処、格別御勘弁を以夫々御聞済被成下一同難有仕合奉存候、然ル上者 ㊞㊞㊞㊞ 毎年割済金聊無遅滞返済可仕候儀者勿論、已後者諸事不都合無之様急度相心得可申、若不当之仕儀有之候ハヾ、如何様之御取計被成候共其節一言之申分無之候、為後日一札、依而如件 大坂府下東大組第拾弐区 高麗橋弐丁目 紙屋嘉兵衛㊞ 大坂府下東大組第拾弐区 北浜通弐丁目 紙屋佐七㊞ 大坂府下東大組第弐拾区 安治川通南壱丁目 柏屋勘太郎㊞ 明治五年壬申六月 小津清左衛門殿 佐兵衛殿 前書之通御聞済之上、従前之通御取引被成下候段難有仕合奉存候、積方之儀者相成丈丹誠可仕候間万端格別御引立之程奉願上候、附而者甚以申上兼候得共為替金之儀者荷物着何卒御渡方被成下度、此段奉願上候、以上 紙屋嘉兵衛㊞ 明治五年壬申六月 小津清左衛門殿 佐兵衛殿」

明治五年(1872)六月、小津本店宛の紙屋嘉兵衛、紙屋佐七、柏屋勘太郎との船への荷物積込の一札である。江戸時代は、大坂で紙を入札し十組の菱垣廻船に紙積み込むまでの取引である。菱垣廻船の海上安全祈願は、佃嶋の住吉神社に、また海難事故は、大伝馬町組は回向院、白子組は祐天寺に施餓鬼供養や供養碑を建立した。

住吉大社には奥の院 開口神社(あぐちじんじゃ)、御旅所 宿院頓宮があります。写真は、開口神社境内にある三好元長戦死跡碑です。小津清左衛門家は三好家の末裔で、初代三好隼人祐長年(不明~1584)は、四代三好長秀(1479~1509)の孫(三好氏家記には三好義長ヨリ四代ノ孫)、三好元長(1501~32)の子(三好家記には三好筑前守長基ノ子)とあります。三好家の初代は三好義長で、六代の三好長慶(1522~64)は、五代三好元長の菩提を弔うため南宗寺を建立しています。        (小津史料館 小西良明)

住吉大社 https://www.sumiyoshitaisha.net/

開口神社 https://aguchi.jp/

宿院頓宮 https://shukuin-tongu.com/

2025年1月8日水曜日

朝熊岳 勝宝山 金剛證寺

臨済宗南禅寺派 朝熊岳 勝宝山 金剛證寺は、伊勢神宮の丑寅(北東)に位置する当寺は「伊勢神宮の鬼門を守る寺」として伊勢信仰と結びつき、「伊勢へ参らば朝熊を駆けよ、朝熊駆けねば片参り」とされ、伊勢国・志摩国併せて最大の寺となった。また、当寺には虚空蔵菩薩の眷属である雨宝童子が祀られているが、雨宝童子は伊勢神宮内宮の祭神である天照大御神の化現と考えらていたため、当寺は伊勢神宮の奥の院とされるようになった。こういった伊勢神宮との結び付きもあり、当寺では仏事に用いられるのは樒(しきみ)ではなく神事に使われる榊(さかき)が供えられる、全国でも珍しい寺となった。(金剛證寺 - Wikipedia)

年中諸用控 「□□内 一鳥目四百銅 伊勢朝熊嶽 正月御札参り候節遣候可事」

小津家文書10-327 「改年之吉慶不可有際限候、其表店中愈無事可被致重年之珍重存候爰元家内一家中共無異儀罷在候間此段安心可給候、先者年頭之祝儀申入度如此候、猶期永日之時候、恐惶謹言 清左衛門長(花押) 正月五日 大橋彦七殿 孝七殿 平兵衛殿 尚々店一同江も宜敷申入可給候、以上」

安政二年(1855)正月五日、松坂にいる小津清左衛門長柱から江戸向店大橋屋の支配人 彦七、差次 孝七、目代 平兵衛に宛てた年始挨拶である。

小津家文書10-319-12 「年之吉慶□□期申納候、店中愈万福越年被致珍重欣喜之至ニ候、当方全員□□加齢御安意被下候、先ハ右年頭之御祝義申入度如此御座候、□□期永日之時候、草々□□ 清左衛門 一月二日 国吉殿 常吉殿 彦蔵殿 周蔵殿 彦平殿 二伸 昨年者不相変之内鮭被願下辱御礼申入候、年明者天気都合も克嘉例之通初荷初売も□□□取引被致候事と奉存候、私過より春勘定之下調ニ取掛可申諸事入念疎漏無之様注意可有之候也」

明治二十六年(1893)一月二日、松坂にいる小津清左衛門長幸から東京の小津本店支配人 田中国吉、差次 常吉、目代 大市彦蔵、目代 清水周蔵、目代 東京紡績担当 土屋彦平、五人に宛てた年始挨拶である。 (小津史料館 小西良明) 

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