2020年11月11日水曜日

江戸町年寄 樽与左衛門

 江戸町年寄樽与左衛門 樽屋 拝領屋敷本町二丁目 初代は徳川家康の家臣水野康忠

 十二代樽与左衛門(延享三年~文化十一年十二月二十九日、享年六十九歳)は、養子播磨出身岩崎善右衛門で、寛政二年、樽の名字帯刀を許され、天明五年十二月に十一代与左衛門が隠居したため町年寄になり家督を相続します。

文化三年十一月二十五日、御用金徴収のため大傳馬町木綿問屋らを呼出し出金を強要しています。小津清左衛門は御用上納金三千五百両を、文化三年十二月金千両、文化四年五月金千両、九月金千五百両と三回に分けて納めています。(小津史料館展示)

文化十一年十二月二十九日、樽与左衛門は、貸付金引負で自殺をします。その後町奉行の吟味が行われましたが、内密にされ樽屋は守られました。樽与左衛門は、紀州徳川家など御用金を貸付ており返済してもらえず自殺したようです、その後幕府が取立ています。

小津清左衛門は、町名主馬込勘解由にも貸付ており、勘解由は、宇都宮藩に貸付ています。

小津清左衛門も紀州藩御用金を両替商升源に金三千両を貸し付けています。(小津史料館展示)、御用商人である小津清左衛門は紀州藩の御用金の運用采配は自由にまかされていました。

町年寄は、本町一丁目奈良屋市右衛門、本町三丁目喜多村彦右衛門、樽屋の三人が世襲しています。喜多村家でも貸付金引負で町年寄を退役など謹慎処分を受けています。(小西)

2020年11月6日金曜日

伊勢商人の由緒書

 幕府や紀州藩の御用商人は、由緒書を提出しています。

松坂の小津清左衛門家は、五代長康が享保十四年松坂の大年寄役、六代長郷が、宝暦三年十一月、大年寄格式、宝暦四年正月、紀州藩御紋提灯を預り苗字帯刀を許されています。このころに紀州藩に提出したと思われます。由緒書では、先祖は、山城国守護代三好長基の子三好隼人祐長年となっており兄が摂津国守護代三好長慶となります。しかし史実では確認することはできません。七代長保が江戸本町四丁目大橋屋を譲り受ける証文に三好太郎次郎殿とあり始めて三好を使っています。大橋屋は伊勢御師の大橋又太夫の店でその土地は小津清左衛門所有の土地だったため家賃をもらっていた関係から名跡、店、従業員をそのまま引き継ぎ、大橋屋太郎次郎とした店で向店と呼ばれていました。その後三好家に関するものは、三好家の家紋を屋根瓦の一部に使っています。三好長基の菩提寺、堺の顕本寺に寄進やお参りにいった記録は見つかっていません。十代、十一代清左衛門は紀州藩地士八十五人扶持。

松坂の本居宣長家は、先祖は、蒲生氏郷の家臣本居武秀で一緒に会津に移り九戸政実の乱で討死にしています。しかしその息子は松坂でうまれ小津を名乗り商人を始めています。宣長は、寛政四年に紀州藩御針医格五人扶持になっています。そのときに由緒書を調べたようです。父、義兄まで商人でしたので小津を名乗っています。後十人扶持。息子春庭は失明したため弟子の大平を夫婦で養子に迎え、和歌山で紀州藩医師、侍講などを務めています。

射和の竹川彦左衛門家は、先祖は、小谷城主浅井亮政の子浅井友政で、兄弟浅井久政でその子は浅井長政になります。織田信長の戦いで敗れた久政、長政親子は天正元年に自害しています。友政は、天正元年に商人となり、天正四年に竹川を名乗るのようになっています。七代彦左衛門正秀は江戸幕府御為替組に加入しています。このころ由緒書を提出していると思われます。射和は鳥羽藩ですので鳥羽藩諸士格となっていますので鳥羽藩にも提出しています。竹川家は両替店を本店に絹物店、太物店、醤油店、酒店、荒物店など多岐に江戸、京都、大坂に出店しています。十六代彦左衛門の養子は、竹川から浅井に改姓し、浅井公政を名乗ります。(小西)

2020年8月27日木曜日

小津和紙(株式会社小津商店)の創業記念日

 小津和紙(株式会社小津商店)の創業記念日 

小津商店の創業日は、承応二年八月九日です。創業者小津清左衛門長弘は小津本館ビルが建つこの地で紙店小津屋を創業しました。旧暦ですので1653年8月9日は、新暦9月11日になります。創業367周年。

創業したとき、大伝馬町一丁目(現在は日本橋本町三丁目)は、伝馬役を兼ねた名主佐久間善八、伊勢商人の太物店(木綿店)や絹店が多くありました。

小津清左衛門長弘は、開業資金を同郷松坂の太物店小津屋三郎右衛門道休から借り井上仁左衛門の紙店をそのまま譲り受け創業しています。店は間口三間奥行二間と小さく佐久間善八に家賃を支払って営業します。その後、川越の人を妻に迎え、一緒に松坂に帰っています。

小津商店の設立記念日は、一月五日です。昭和四年一月五日に合資会社小津商店が設立され小津清左衛門家は株を持たず本店現業の支配人やOBの別家が株を持ち、社員経営に変わりました。 設立91周年。(小西)

2020年8月22日土曜日

大伝馬町一丁目 明治二十五年

 大伝馬町一丁目 明治二十五年 全国商工人名録

北側西

1番地 小津清左衛門 紙問屋、繰綿問屋

2番地 伊勢屋 小津清左衛門 木綿問屋

4番地 石崎藤助 紙問屋

5番地 川喜田屋久太夫支店 木綿問屋、繰綿問屋、糸問屋

6番地 伊藤屋利助 木綿問屋、繰綿問屋

7番地カ 外村吉兵衛店 糸問屋

8番地 大和屋 長井九郎左衛門 木綿問屋

10番地 丹波屋 長谷川次郎兵衛 木綿問屋、繰綿問屋

南側東

13番地 長井利兵衛 茶問屋

14番地 丹波屋 長谷川次郎兵衛 木綿問屋

15番地 綿屋 長井九郎左衛門 木綿問屋

17番地 川喜田屋久太夫支店 木綿問屋、繰綿問屋

18番地 戎屋 長谷川六郎次 木綿問屋

19番地 亀屋商店 長谷川武右衛門 木綿問屋

21番地カ 升屋 久須木七左衛門 木綿問屋

22番地 田端屋商店 田中次郎左衛門 木綿問屋

25番地 佐野屋 吉田丹次兵衛 木綿問屋

25番地 茗荷屋 岡田善五郎 醤油問屋、茶問屋

明治五年頃に番地表記、明治二十年に繰綿問屋仲間が東京紡績を設立している。(小西)

2020年8月20日木曜日

小津清左衛門木綿店

 小津清左衛門の太物店(木綿問屋)は長生の養子先小津三十郎家で家督を相続し二代目当主小津孫大夫の時、延宝三年に大伝馬町に木綿店小津屋小右衛門を開業しています。貞享元年に離縁し兄小津清左衛門長弘の養子となり四代目小津清左衛門長生となり紙店小津屋清左衛門を経営します。

元禄十年頃に紙店の東隣の旅人宿結城屋源兵衛(小津源兵衛)が穀店に転業し伊勢町に転居した明店を譲り受けます。元禄十一年に木綿株を佐久間庄右衛門から譲り受けます。元禄十一年四月に木綿店小津屋清左衛門を開業します。このとき繰綿株も同時に譲り受けたようです。長生はこの店を元禄十四年春に次男小津孫太夫長英に任せます。元禄十七年三月、名主佐久間善八から表拾間の木綿店屋敷を木綿仲間小津三四右衛門、地主惣三郎、小津清左衛門、芝原三郎兵衛の四人が譲り受けます。宝永三年九月、名主佐久間善八から表五間を譲り受けます。宝永七年正月、長生の死後、三男新五郎が家督を相続し五代目小津清左衛門長康と改名します。

木綿店を経営していた小津孫大夫響忍は寛延二年に死去、小津孫大夫家は、六代目小津清左衛門長郷本家により小津三十郎家から夫婦で養子を迎え、宝暦四年頃、小津権右衛門と改名します。屋権右衛門となります。この時繰綿株も取得したのかもしれません。

文化二年、長谷川文書には、小津清左衛門から宝暦四年に木綿繰綿問屋小津屋権右衛門に変わっています。繰綿問屋小津屋権右衛門は二十番組に属し文化十一年に休株、文政二年十一月に伊勢屋権右衛門と改名しています。文政二年から天保十二年までの白木屋文書「問屋株帳」には木綿問屋伊勢屋権右衛門、文政十年二月、伊勢屋清左衛門改名とあります。また繰綿問屋は小津屋清左衛門が筆頭に掲載されています。文政七年の「江戸買物獨案内」でも木綿問屋伊勢屋権右衛門と掲載されています。文化十四年、小津権右衛門浄円死去、この頃に繰綿株休株となり、同時に本店の経営に変わったようです。

嘉永四年、問屋組合再興では旧幕引継諸目録「諸問屋名前帳」木綿問屋では伊勢屋清左衛門が筆頭に掲載されています。その後明治以後は、小津木綿店となります。昭和四年に合資会社小津木綿店となり小津家から経営が離れ社員経営となります。(小西)

2020年8月14日金曜日

文政二年 十組繰綿問屋

 白木屋文書問屋株帳(文政二年~天保十二年問屋株解散令)をもとに作成

十組繰綿問屋 七拾株 冥加金千両 掲載順 

1 大伝馬町一丁目金兵衛店 小津屋清左衛門 勢州住宅ニ付店預り人林兵衛

2 大伝馬町一丁目又兵衛店 殿村屋仁右衛門 京都住宅ニ付店預り人専助

3 本船町栄吉店 伊勢屋徳三郎 京都住宅ニ付店預り人清八 文政四年十月休株

4 大伝馬町一丁目幸助店 長谷川屋次郎吉 勢州住宅ニ付店預り人利助

5 大伝馬町一丁目宇兵衛店 伊藤屋利助 尾州住宅ニ付店預り人三四郎

6 大伝馬町一丁目新左衛門店 大和屋三郎兵衛 勢州住宅ニ付店預り人孫兵衛

  文政五年二月休株 天保三年十月帰株

7 通一丁目五兵衛店 白木屋彦太郎 京都住宅ニ付店預り人伝兵衛

8 通二丁目伊右衛門店 綿屋鉄太郎

9 尾張町二丁目平蔵店 恵比寿屋八郎左衛門 京都住宅ニ付店預り人文蔵

10 駿河町庄右衛門店 越後屋八郎兵衛 京都住宅ニ付店預り人平吉

11 通旅籠町茂兵衛店 大丸屋正右衛門 京都住宅ニ付店預り人治郎兵衛

12 室町一丁目七右衛門店 嶋屋半兵衛 武州本庄宿住宅ニ付店預り人久兵衛

13 麹町五丁目吉兵衛店 枡屋九右衛門 江州住宅ニ付店預り人久右衛門

14 本町四丁目六兵店 柏屋孫左衛門 京都住宅ニ付店預り人加兵衛 文政五年二月休株

15 四ツ谷伝馬町三丁目家持 伊勢屋治平衛

16 新大坂町庄兵衛店 伊勢屋又次郎 京都住宅ニ付店預り人彦兵衛

17 通四丁目利兵衛店 大文字屋治兵衛

18 本船町八郎右衛門店 森田屋善吉 文政六年十二月休株 文政八年九月再加入

19 本町四丁目九兵衛店 大黒屋三郎兵衛 京都住宅ニ付店預り人甚七

20 本町四丁目六兵衛店 伊豆蔵屋吉右衛門 京都住宅ニ付預り人磯兵衛

21 大伝馬町一丁目久兵衛店 丹波屋次郎兵衛 休株

22 大伝馬町一丁目久兵衛店 長谷川源右衛門 休株

省略

35 大伝馬町一丁目金兵衛店 小津屋権右衛門 休株

以下省略

70店あるが、文政二年18店が営業、文政七年15店が営業、休店が多く冥加金の負担は営業店舗の荷扱い量で決まるので小津屋清左衛門の負担は大きかった。小津清左衛門の木綿店伊勢屋は小津屋権右衛門でこのときは休株となっています。繰綿株を持つ店の約半分が木綿株を所持していました。(小西)

2020年8月13日木曜日

享保十七年 十組木綿問屋

享保十七年(1732)九月 大傳馬町長谷川木綿店古帳 掲載順
地主九兵衛(勢州相可)   
大和屋三郎兵衛(長井、勢州松坂)
中田治右衛門(伊勢屋、勢州)
加嶋屋治郎兵衛(広岡、摂津大坂)
田端屋治郎左衛門(田中、勢州津)
沢野甚左衛門(沢屋)
小津孫右衛門(小津屋、勢州松坂)
岡本六兵衛(嶋屋、勢州松坂)
田蔵勘三郎(勢州白子)
入沢新太郎(安野屋、勢州白子)
濱嶋傳右衛門(尾州大野)
黒田長兵衛(松坂屋)
一見七右衛門(白子屋、勢州白子)
大黒屋三右衛門
伊勢屋次郎右衛門
嶋本治郎右衛門(嶋屋、京都)
地主惣兵衛(地主屋、勢州相可)
村田亦右衛門
大和屋九郎左衛門(長井、勢州松坂)
小津三左衛門(嶋屋、紀伊長嶋)
濱嶋傳右衛門(尾州大野)
長嶋惣兵衛(和泉屋)
玉屋四郎兵衛(岡本、勢州松坂)
石川藤右衛門
石川庄兵衛(石川屋、勢州白子)
長井与兵衛(勢州松坂)
中條瀬兵衛(神戸屋、勢州津)
長谷川市左衛門(布屋、勢州松坂)
中村喜左衛門
亀屋武右衛門(長谷川、勢州松坂)
南部藤兵衛(南部屋)
高岡久兵衛(一文字屋、勢州白子)
丹波屋次郎兵衛(長谷川、勢州松坂)
長谷川源右衛門(長谷川屋、勢州松坂)
山村吉右衛門(山村屋、勢州松坂)
奥井勘兵衛(大黒屋、勢州相可)
徳力与兵衛(徳力屋、勢州松坂)
村田傳兵衛
濱田庄助
岸野三郎兵衛(布屋)
大黒屋六左衛門
永田伊兵衛(永田屋)
川喜田久太夫(河喜田屋、勢州津)
川喜田四郎兵衛(河喜田屋、勢州津)
地主平右衛門(地主屋、勢州相可)
芝原三郎兵衛(芝原屋、勢州津)
地主弥太郎(地主屋、勢州相可)
小津三四右衛門(小津屋、勢州松坂)
地主惣三郎(地主屋、勢州相可)
藪屋四郎兵衛(竹内、勢州松坂)
小津清左衛門(伊勢屋、勢州松坂)

51軒、大伝馬町一丁目木綿問屋で住居の並び順のようです。伊勢国の江戸店が多いのがわかります。このほかに紙店小津屋清左衛門、木綿売場升屋七左衛門(久須木)、木綿売場長井作十郎がありました。(小西)

2020年8月6日木曜日

小津清左衛門の江戸店

天保十二年問屋株解散令まで
小津屋清左衛門 大伝馬町一丁目 承応二年開業
 十組 紙問屋
 十組 繰綿問屋
 十組 真綿問屋 文化十三年休株
 十組 下り傘問屋
大橋屋太郎次郎 本町四丁目 天明四年開業
 十組 紙問屋
 十組 茶問屋
 十組濱吉組 鰹節塩干肴問屋
小津屋権右衛門 大伝馬町一丁目
 十組 繰綿問屋
伊勢屋権右衛門 大伝馬町一丁目 元禄十一年開業
伊勢屋清左衛門 文政十年改名
 十組大伝馬町組 木綿問屋 

嘉永四年問屋組合再興
小津屋清左衛門 大伝馬町一丁目
 紙問屋一番組
 繰綿問屋
 下り鰹節問屋
大橋屋太郎次郎 本町四丁目
 紙問屋一番組
 茶問屋一番組
 茶問屋二番組
 下り鰹節問屋
伊勢屋清左衛門 大伝馬町一丁目
 木綿問屋大伝馬町組

小津屋清左衛門は本店、大橋屋太郎次郎は向店、伊勢屋は太物店、松坂は本家店と呼ばれた。本家店は紀州和歌山藩御用御為替組、大年寄、正米問屋を務めた。
問屋株解散令後に本店は下り鰹節問屋を始めている。(小西)

2020年8月1日土曜日

小津七右衛門家

小津七右衛門道印(文禄元年生~慶安元年二月八日、享年五十七歳)
父は本居武秀道観。妻は油屋源右衛門道元長女とじ。後妻、妾あり。

長女(?~慶安元年一月十七日)
紀州長島、小津八郎兵衛へ嫁ぐ。

長男(慶長十七年生~延宝八年十一月二十六日、享年六十九歳)
小津次郎右衛門宗運、妻は中村氏女。江戸に妾、後妻三矢氏女、後妻黒野村、長田氏女。江戸通旅籠町、紙問屋小津次郎右衛門開業。

二男(慶長十七年生~元禄元年十二月二十七日、享年七十七歳)
小津三郎右衛門道休、妻は日野町、松屋藤左衛門宗昌女ふく。江戸大傳馬町一丁目、木綿店小津屋三郎右衛門開業。

三男(正保四年生~天和四年二月十三日、享年三十八歳)
小津喜兵衛道樹へ養子、養母は母の妹。小津喜兵衛道仁、妻は小津清兵衛末友二女。

四男(?~元禄六年二月七日)
小津六兵衛宗祐、妻は植村次五兵衛女。茶・醤油酢問屋小津屋六兵衛開業。

二女(?~延宝三年一月十四日)
日野町、内藤庄兵衛へ嫁ぐ

妾妙延法尼の養子(寛永十八年生~享保四年十一月二十七日、享年七十九歳)
父は典心、小津清兵衛末友に育てられる。小津治右衛門道清。妻は小津喜兵衛道仁二女。

長男次郎右衛門と二男双子と思われる。本家は二男三郎右衛門道休となる。小津次郎左衛門家は小津清兵衛茶店の最初の支配人で小津清兵衛の別家。(小西)

2020年7月30日木曜日

小津清左衛門長生家

小津清左衛門長生(寛永十五年生~宝永七年正月十一日、享年七十六歳)
父は森嶋與次太夫長継、母は西町の堤仁左衛門女、五男虎之助。妻は本町の斗屋甚四郎女谷。
小津三十郎宗心の木綿店で奉公し初代支配人となる、三十郎宗心の養子となり、三十郎妻の妹谷と結婚し家督を相続、小津孫大夫と改名する。
しかし兄長弘のため貞享元年離縁し、兄長弘の家督を相続、小津清左衛門と改名する。
元禄十一年に木綿店伊勢屋権右衛門を開業。

長女虎(延宝二年生~延宝三年、享年二歳)

長男亀太郎(延宝三年八月十九日生~天和二年三月十九日、享年八歳)
延宝六年、清左衛門長弘の養子となる。

次男長之助(延宝五年十一月三日生~享保十六年九月晦日、享年五十五歳)
元禄十四年、木綿店伊勢屋権右衛門を父長生から譲り受け、小津孫大夫長英と改名、分家する。妻は小津小右衛門奏広女清。

二女菊(延宝八年二月二十日生~延宝八年二月二十日)

三男新五郎(天和元年正月二十五日生~寛保元年九月四日、享年六十一歳)
宝永七年、父長生から家督を相続し、小津清左衛門長康と改名する。妻は小津清兵衛道生三女玉。

四男清十郎(貞享元年七月八日生~元禄二年七月八日、享年六歳)

三女千代(?~元文元年正月二十四日)
享保十九年、小津屋清左衛門支配人だった別家寺田七郎兵衛と結婚。
七郎兵衛は、本家の命により森嶋才三郎長光の死去後家督を相続し、小津七郎兵衛浄喜と改名する。

四女常(?~正徳三年二月十一日)
小津小右衛門専久(?~貞享三年三月十一日)へ嫁ぐ。
小津小右衛門専久は、小津三十郎宗心の二代目支配人となり長生の跡、貞享元年家督を相続。土浦の醤油問屋小津屋三郎兵衛、夫婦とも土浦で死去。

小津三十郎宗心(元和三年生~宝永二年四月五日、享年八十九歳)は、捨て子だったため身寄りもなくまた跡取りもいなかった。跡取りは、小津孫大夫(清左衛門長生)離縁後、小津小右衛門専久が相続するが、長生家と縁組を結んでいる。三十郎家、土浦の醤油問屋に清左衛門家との関りが深く、土浦の小津屋の支配人小津茂右衛門家も関係している。
三十郎の木綿店小津屋小右衛門は、大傳馬町壱丁目南側にあり、享保五年四月の町内絵図面に間口四間半家主三十郎、間口五尺九寸小右衛門とある。(松阪市史第十二巻付図江戸大伝馬町一丁目町絵図)
また長生は、兄の紙店より木綿店に思い入れがあったのか、木綿店を開業し、二男長之助に経営を任しており、兄が開業した紙店は三男新五郎が相続した。(小西)

2020年7月25日土曜日

小津清兵衛歴代

初代
油屋源右衛門道元(?~元和五年六月十二日)
天正十六年小津村より松坂職人町に移住

二代
小津清兵衛末友(天正十八年生~承応元年七月八日、享年六十三歳)
父は道元、二男。妻は角屋間兵衛浄鉄女。
松坂平生町の小津與次兵衛宗故から江戸大伝馬町二丁目茶店を譲り受け、茶店小津清兵衛を開業。
茶店小津清兵衛を小津次郎右衛門宗運へ譲る。
職人町の居宅を小津喜兵衛道樹に譲り本町角に転居。

三代
小津源右衛門繁長(?~元禄四年八月十一日)
父は末友、母は角屋間兵衛浄鉄女。妻は伊豆倉氏女。

四代
小津清兵衛長正(承応二年生~享保十四年十二月二十四日、享年七十七歳)
父は繁長、母は伊豆倉氏女、長男長太郎。妻は浜田三十郎正繁女。
三女玉、小津清左衛門長康に嫁ぐ。

五代
小津清兵衛長親(元禄三年生~宝暦十年二月三十日、享年七十一歳)
父は長正、母は浜田三十郎正繁女、二男。妻は辻氏女。

六代
小津清兵衛道貞(?~文政三年三月十九日)
父は長親、母は辻氏女、男晴太夫。

七代
小津源兵衛道貫(?~文政七年十月二十日)
父は道貞。

小津清兵衛末友の江戸店で甥の小津三郎右衛門道休が奉公しその後大伝馬町一丁目南側の久須木七左衛門の升屋内で木綿売場店を開業、初代支配人は小津三十郎宗心。その三十郎宗心も木綿仲買店を開業、初代支配人は小津孫大夫、後の小津清左衛門長生。その清左衛門長生の三男長康の妻が小津清兵衛長正の三女玉。
小津清兵衛末友の江戸店茶店を譲った小津次郎右衛門宗運(三郎右衛門道休の兄)は、弟小津六兵衛宗祐に譲っています。
小津清兵衛末友の居宅を譲った小津喜兵衛道樹へは、三郎右衛門道休の弟喜兵衛道仁が養子に入っています。
七代源兵衛は、池波正太郎著「鬼平犯科帳シリーズ泥鰌の和助始末」に出てくる南新堀の紙問屋小津源兵衛がモデルと思われます。火付盗賊改方長谷川平蔵宣以、寛政元年二年頃の話です。(小西)

2020年7月23日木曜日

小津新兵衛歴代

初代
小津新兵衛保教(寛文十二年生~享保十八年五月十九日、享年六十二歳)
父は須賀村の中西喜右衛門浄慶、二男理樹。妻は松坂の中里善三郎女とめ。
正徳六年、小津屋清左衛門支配人退役、仕分金五百両と小津の屋号をもらい別家として松坂中町に住む。
江戸北新堀の干鰯問屋湯浅屋与右衛門に出資、共同経営者の谷輪与左衛門離脱後に共同経営者となる。店を北新堀から小網町に移す。

湯浅屋は紀州湯浅村出身の岩崎茂右衛門と弟嘉右衛門、同村出身の谷輪与左衛門が、共同経営で始めた干鰯問屋で当初は相州浦賀で経営していた。宝永五六年頃に北新堀で経営。

二代
小津新兵衛当教(享保四年生~天明五年八月十九日、享年六十七歳)
父は中西喜右衛門、二男長之助。妻は保教長女ぎん、後妻は保教三女るい。
宝暦五年、小津清左衛門所持の深川黒江町・材木町店借。
宝暦十年、江戸大火のため小網町店、深川干鰯売場焼失。
宝暦十一年頃、松坂中町から百足町に転居、借家住まいとなる。
宝暦十二年頃、江戸店小網町に戻し再興する。
天明四年、家督を長男に譲り、隠居し道機と改名する。

三代
小津新兵衛理香(宝暦八年生~文化五年九月十九日、享年五十一歳)
父は当教、母はるい、長男新蔵。妻は船江村、森三郎右衛門女りせ。後妻はなほ。
天明四年、家督を相続し、新兵衛と改名する。
寛政二年、坂内川氾濫の土手の普請を行い、松坂で「土手新」と呼ばれるようになる。

紀州藩七人扶持。

四代
小津新右衛門友能(明和三年生~文政十二年十一月二十九日、享年六十三歳)
父は飯野郡下村、杉山喜蔵、二男徳次郎。妻は西町、山村次郎兵衛壺仙三女ひな。後妻は松坂、坂田佐七女せゐ。
十歳で湯浅屋に勤め、太助と改名する。
文化五年、理香死去後、家督を相続し、与右衛門と改名する。徒好。
文化十一年、理香長男に家督を譲り、隠居し、新右衛門と改名する。

五代
小津新兵衛理修(享和元年生~文政五年八月二日、享年二十三歳)
父は理香、母はりせ。長男亀蔵。妻は度会郡川崎、堀田権三郎三女うの。
文化十一年、家督を相続し、新兵衛と改名する。
眼疾を煩う。

六代
小津与右衛門久足(文化元年八月十二日生~安政五年十一月十三日、享年五十五歳)
父は友能、母はひな。三男安吉。
本居春庭に師事し国学・和歌を学ぶ
文政五年、理修死去後、家督を相続し、与右衛門と改名する。
文政十一年、春庭死去後、小津清左衛門家から離縁された春庭の長男有郷を後見人となり本居家を相続させる。
天保八年、家督を譲り隠居し、桂窓と改名する。

七代
小津新兵衛克孝(文化七年生~慶応三年十月二十一日、享年五十八歳)
父は津片瀬、川井甚四郎、男忠三郎。妻は理修長女ゐの。
天保八年、ゐのと結婚し家督を相続、新兵衛と改名する。
安政五年、御為替組に加入する

小津与右衛門
父は克孝、母はゐの。長男。妻はきん。

八代
小津与右衛門静光(?~明治三十七年三月十三日)
父は度会郡山田、志毛井発蔵。妻は克孝死去後、再婚のきん。

小津新兵衛は、小津屋清左衛門の支配人を務めたあと別家となるが、清左衛門家から江戸店を支援している。分家に新七家があるが、湯浅屋の支配人家系を跡取りにした場合与右衛門と名乗っている。山村次郎兵衛壺仙は、森壺仙のことで「宝暦咄し」「いせ参御蔭之日記」の著者である。「いせ参御蔭之日記」には小津清左衛門本家店でおにぎりとお茶の施行をしていたことが書かれている。その血筋をひく久足は「西荘(セイソウ)文庫」を残し「みちのく日記」など紀行文も数多くある。(小西)

2020年7月17日金曜日

長井嘉左衛門歴代

初代
長井嘉左衛門直興(天正二年生~嘉永十九年、享年六十九歳)

二代
長井九郎左衛門吉重(慶長十五年生~貞享二年、享年七十六歳)
父は直興

三代
長井九郎左衛門常尚(承応三年生~享保二十年、享年八十二歳)
養父は吉重、妻は寺西彦太夫女。
元禄九年、江戸大伝馬町一丁目木綿店大和屋市兵衛の跡を譲り受け、大和屋九郎左衛門開業。 

四代
長井嘉左衛門直規(延宝八年生~享保十九年、享年五十五歳)
父は常尚、母は寺西彦太夫女。

五代
長井嘉左衛門常孝(元禄三年生~宝暦三年、享年六十三歳)
父は常尚、母は寺西彦太夫女。直規弟。
兄直規死去後、家督を相続し、嘉左衛門と改名する。
元文五年、江戸大伝馬町一丁目木綿店綿屋惣兵衛開業。

六代
長井九郎左衛門直方(享保九年生~明和五年六月二十二日、享年四十五歳)
父は小津次郎左衛門重信、母は小津孫右衛門道智長女千代。二男。妻は村田孫兵衛全次女。
長井嘉左衛門直規へ養子。
宝暦五年、御為替組に加入、十五人扶持。

七代
長井九郎左衛門直延(宝暦九年生~文化九年、享年五十四歳)
父は直方、母は村田孫兵衛全次女、三男。
寛政三年、隠居し嘉左衛門と改名、弟新七に家督を譲る。
寛政七年、御為替組御用を分家長井惣兵衛定栄と交代する。
寛政十年、御為替組御用を惣兵衛から戻し再勤する。

長井九郎左衛門尚明(?~文政三年五月九日)
父は直方、母は村田孫兵衛全次女、四男新七。妻は本居宣長二女美濃。
寛政三年、美濃と結婚し、兄直延へ養子、九郎左衛門尚明と改名する。
寛政九年、長井家内で問題が起こり、大泉八左衛門家へ夫婦で養子、大泉新吾と改名する。
寛政十年、大泉八左衛門家を離縁し、兄直延に復縁、尚明に名を戻す。
享和元年、小津次郎左衛門信業へ夫婦で養子、小津次郎左衛門信厚と改名する。
隠居し、小津勘右衛門尚明に改名する。

八代
長井嘉左衛門尚俊(文化二年生~嘉永四年、享年四十七歳)
父は長井惣兵衛定至、母は長井惣兵衛定栄女。妻は長谷川次郎兵衛元美女久能、芳。
文化十年、御為替組御用、二十五人扶持。
文政六年、銀札役所御用、藩札の発行。
天保三年、地士独礼格。

九代
長井嘉左衛門迫孝(文政元年生~明治三十一年、享年八十一歳)
父は長井惣兵衛宗澄、四男。妻は長井嘉左衛門尚俊女よし。
安政五年、町廻り組大年寄。
文久四年、大御番格

十代
長井嘉左衛門道守(文政九年生~明治三十三年、享年七十五歳)
父は長井惣兵衛宗澄、六男貞蔵。妻は長井嘉左衛門尚俊女かね。

十一代
長井九郎左衛門直雅(明治十六年十二月五日生~昭和十一年、享年五十四歳)
父は小津益吉、母は小津清左衛門長柱長女多賀、二男弘三郎。
明治二十八年、道守の養子となる。
明治三十三年、家督を相続し、嘉左衛門に改名する。
明治三十五年、井桁壱長井九郎左衛門、井桁重綿屋九郎左衛門を井桁壱長井商店、井桁重長井商店に改称する。
大正、衛生材料を取扱い中国へ進出。

長井家は、養子の多い家系であることがわかる。
小津次郎左衛門家は、大伝馬町弐丁目にあった小津清兵衛の支配人の家で独立後、茶・醤油酢の小津屋次郎左衛門を通旅籠町(大伝馬町三丁目)に開業している。
小津孫右衛門や本居宣長、村田孫兵衛は、小津三四右衛門家の親戚である。
大泉八左衛門家からは、分家長井惣兵衛や小津次郎左衛門の養子となり当主となっている。
長井家は、御為替組や大年寄を出す家柄であったため仲間達から縁組がだされ、店はなくなったが現在も鎌倉に家系は続いている。(小西)

2020年7月16日木曜日

小津益吉家

小津清左衛門長柱が、絶家となっていた小津権右衛門家を長女多賀に婿を長谷川家から益吉を迎えへて松坂矢下町に再興した東家、権右衛門家九代となる。

小津益吉(天保十三年十一月十八日生~明治三十三年九月二十日、享年五十八歳)
父は紺屋町の長谷川西家長谷川六郎次元経、二男。妻は、長柱長女多賀(天保十二年十一月二日生~大正元年八月二十一日、享年七十一歳)。
安政五年、長柱の養子となり、多賀と結婚。
明治五年、矢下町へ分家、小津権右衛門家再興、東家。

長女茂登(文久元年七月二十三日生)
四日市の三輪達之助へ嫁ぐ。

二女春(文久三年生~明治元年、享年六歳)

長男鹿吉(慶応三年七月二十四日生、昭和二十六年七月七日、享年八十四歳)
明治三十三年、父益吉死後家督を相続、小津銀行に勤める、その後、明治火災保険の松阪代理店を開業。妻は長谷川西家長谷川六郎次元孚娘うた。

三女つう(明治四年五月二十三日生)
津大門の冨岡太郎兵衛長男冨岡太兵衛へ嫁ぐ。
小津清左衛門長幸の妻は冨岡太郎兵衛長女都賀(明治二年生)。

四女けい(明治七年三月十二日生)
長谷川西家七代長谷川彦三へ嫁ぐ。彦三は武右衛門定静男卯之助、六郎次家へ養子にいっている。

二男貫之助(明治九年二月十四日生)
長谷川南家へ養子、南家七代長谷川玉嶺。日本画家。
妻は、南家長谷川武右衛門定静女。長谷川彦三と兄妹。

五女てつ(明治十一年二月二十七日生)
殿村佐五平家殿村清蔵へ嫁ぐ。

三男弘三郎(明治十六年十二月五日生)
長井九郎左衛門家へ養子、十一代長井九郎左衛門直雅。
妻は中條瀬兵衛三女ふみ(明治十六年十月生)、沙陀吉の妹。

六女とも(明治十八年十二月二十七日生)
津の中條瀬兵衛家中條沙陀吉(明治十四年六月十三日生)へ嫁ぐ。

四男覚三(明治二十二年三月四日生)
魚町にて分家。

益吉と多賀の結婚は、長谷川家と小津清左衛門家の関係を強くした。
小津家、殿村家は松坂の大年寄、小津家、長井家、殿村家、長谷川家は、紀州御為替組御用を務めた家である。長谷川家は、明治には東京に移住している。
中條瀬兵衛家は津の醤油問屋であるが、江戸大伝馬町に木綿店長崎屋瀬兵衛、江戸堀留町茶・醤油店長崎屋瀬兵衛、江戸伊勢町に本店、茶・醤油酢・明樽の中條瀬兵衛を持っていた。沙陀吉は、当主として茶・醤油商中條商店社長である。(小西)

2020年7月11日土曜日

長谷川次郎兵衛歴代

初代
正善(永禄二年生~元和八年八月二十七日、享年六十四歳)

二代
長谷川次郎兵衛喜安(天正四年生~慶安二年十一月十六日、享年七十四歳)
父は正善、母は妙善大姉。木綿仲買を商う。

三代
長谷川次郎兵衛政幸(正保二年生~元文五年三月、享年九十三歳)
父は喜安、母は長谷川市左衛門全忠二女。二男。妻は長谷川市左衛門清念長女とら。
母の実家の店、大伝馬町一丁目布屋市左衛門の番頭格で木綿売買実務に従事。
延宝三年、大伝馬町一丁目に木綿店丹波屋次郎兵衛を開業。
元禄十五年、大伝馬町一丁目木綿店江嶋屋茂兵衛を譲受、長谷川源右衛門を開業。三男岩松に任す。本家を相続、元忠。
享保十年、大伝馬町一丁目木綿店亀屋七郎兵衛を譲受、亀屋武右衛門を開業。四男吉三郎に任す。分家南家初代長谷川武右衛門明喬。

四代
長谷川次郎兵衛元忠(貞享三年生~延享三年、享年六十一歳)
父は政幸、母はとら。三男岩松。妻は長谷川市左衛門道専長女。
元文三年、大伝馬町一丁目木綿店川口半左衛門を譲受、戎屋六郎次を開業。弟六男彦八郎に任す。分家西家初代長谷川六郎次元陳。
弟六男六郎次元陳の長男熊之助を養子にする。家督を譲り隠居、源右衛門と改名する。

五代
長谷川次郎兵衛元隆(享保九年生~宝暦七年、享年三十四歳)
父六郎次元陳。長男熊之助。妻は職人町、藤田徳右衛門女。
長谷川次郎兵衛家は元隆死後、南家武右衛門福通男安之助を跡取りにする。

六代
長谷川次郎兵衛邦淑(宝暦二年生~文化十四年、享年六十六歳)
父は武右衛門福通。安之助。妻は藤田徳右衛門徳翁女都賀。安永五年十九歳で死去。後妻藤田徳右衛門徳翁女登美。
安永四年、紀州藩御為替組に加入する。五人扶持。
天明三年、大伝馬町一丁目に繰綿問屋長谷川次郎吉を開業、経営を親類に任す。
寛政四年、家督を長男に譲り隠居、源右衛門と改名する。

七代
長谷川次郎兵衛元美(安永三年生~嘉永元年、享年七十五歳)
父は邦淑、母は都賀、長男安之助。妻は三井則右衛門高岳二女道、文化三年二十七歳で死去。後妻は三井則右衛門高行古代。
寛政四年、家督を相続、次郎兵衛に改名する。
文政元年、家督を長男に譲り隠居、源右衛門と改名する。

八代
長谷川次郎兵衛元貞(寛政八年生~安政五年四月四日、享年六十四歳)
父は元美、母は道、長男次郎吉。妻は津八丁の河辺忠四郎女喜尾。
文政元年、家督を相続、次郎兵衛に改名する。
文政五年、紀州藩三領銀札発行開始、御為替組惣代となる。
文政八年、土浦味噌醤油問屋丹波屋休店。
天保七年、三河邦平坂の木綿買次問屋外山徳太郎店と合併、平坂店とする。
安政四年、家督を長男に譲り隠居、源右衛門と改名する。

九代
長谷川次郎兵衛元凞(文政三年生~明治七年、享年五十五歳)
父は元貞、母は喜尾、長男次郎吉。妻は武右衛門定功女幾。嘉永二年、二十二歳で死去。後妻伊勢山田御師の春木太夫長女種。
安政四年、家督を相続、次郎兵衛に改名する。

十代
長谷川次郎兵衛元章(嘉永三年生~明治三十八年、享年五十六歳)
父は元凞、母は種、長男次郎吉。妻は武右衛門定静女島。

十一代
長谷川次郎兵衛定矩(明治元年生~大正十四年、享年五十一歳)
父は武右衛門定静、四男定次郎、妻は六郎次元孚長女麗。
明治四十二年、ガラス店を設ける、大正四年、五店を合併、長谷川商店。大正七年、株式会社長谷川商店設立。

長谷川家は、本家に跡取りがいない場合、分家の長男が養子となり本家の娘と結婚している。
長谷川市左衛門家は、江戸店が分散したため長谷川次郎兵衛家の東家として存続、亀山藩主石川成徳子爵男成房を養子に迎え九代目当主長谷川成房、妻は十一代次郎兵衛定矩長女ぶん。
長谷川武右衛門家は、八代長谷川久四郎は妻に竹内惟忠子爵長女千代子を迎える。千代子の父竹内惟忠は国学者、貴族院議員。母は久邇宮朝彦親王五女絢子様。香淳皇后の従姉妹になる。

小津清左衛門家との関係
紀州藩御為替組御用、藩札発行を共に勤める。
小津清左衛門家に勢之助(後の本居有郷)を養子を迎えるとき八代長谷川源右衛門猶子としている。
江戸店は、長谷川は五店、小津三店、また土浦の味噌醤油店では、長谷川は丹波屋、小津は小津小右衛門が店を出している。小津小右衛門は小津三十郎家だが親戚関係にあるため清左衛門は代々面倒を見ている。
小津清左衛門長柱は、長谷川六郎次元経二男を養子に迎え、長女多賀と結婚し、小津権右衛門家を再興している(小津東家)。長男鹿吉は家督を相続、二男貫之助は長谷川武右衛門家へ養子七代玉嶺、三男弘三郎は、長井九郎左衛門家へ養子、十一代直雅。後継者に困っていた家に養子となっている。娘もそれぞれ店持の当主の妻となっている。
両家とも木綿、繰綿も扱っていたため東京紡績の設立に出資し株主、取締役となっている。
茶道は、三井家が表千家であるが、長谷川、小津は裏千家である。七代長谷川次郎兵衛元美の妻が三井本家創業者高利の血を引くが小津益吉も血を引いている。

三井家との系図

(小西)

2020年7月9日木曜日

小津三四右衛門歴代

初代
本居武秀道観(天文二十二年生~天正十九年、享年三十九歳)
本居宗助平武連次男佐兵衛。蒲生氏郷の家臣。天正十八年、蒲生氏郷、伊勢から会津に移封されたとき一緒に移る。九戸政実の乱が起こり九戸城近くで討ち死。妻は武秀戦死後松坂小津村に戻り、油屋源右衛門道元に助けられ道印を生む。

二代
小津七右衛門道印(文禄元年生~慶安元年二月八日、享年五十七歳)
父武秀、母不明。松坂魚町に移住し小津姓を名乗り染物を商う。妻は油屋源右衛門道元長女とじ。

三代
小津三郎右衛門道休(慶長十七年生~元禄元年十二月二十七日、享年七十七歳)
父道印、母とじ。次男。弟三男は、小津喜兵衛道仁。
叔父の江戸店、大伝馬町二丁目茶店小津清兵衛で働く。正保二年、大伝馬町一丁目升屋七左衛門店内で木綿売場小津屋三郎右衛門を開業。承応二年、小津清左衛門長弘に開業資金を貸す。承応三年、松坂に戻り日野町の松屋藤左衛門宗昌女ふくと結婚し、隠居家小津孫右衛門を興す。明暦元年、大伝馬町一丁目に木綿店小津屋三四右衛門開業。寛文五年、大伝馬町一丁目に木綿店小津屋孫右衛門開業。延宝五年、隠居し職人町に移る。

四代
小津三四右衛門定治(万治元年生~享保十四年六月十一日、享年七十二歳)
父小津喜兵衛道仁。長男初三郎右衛門。母は小津清兵衛末友二女。妻は、新町の浜田八郎兵衛浄貞女まん、長女つる出産後死去。小津六兵衛宗祐長女と再婚するも離別。西町の荒木太左衛門信入女かんと再々婚。
伯父道休の養子となり、家督を相続。延宝五年、江戸堀留町に煙草店、両替店を開業。元禄九年、大伝馬町一丁目木綿店小津屋十右衛門を譲り受ける。元禄十年、小津屋十右衛門の店を本店小津屋三四右衛門に小津屋三郎右衛門と小津屋三四右衛門を合併。小津屋孫右衛門は、隠居家小津孫右衛門道知に譲る。

五代
小津三四右衛門定利(元禄八年十一月生~元文五年七月二十三日、享年四十六歳)
父小津孫右衛門道智。次男大助。母は、西町の山村宗次右衛門久昌女くに。妻は小津三四右衛門定治二女清。
享保元年、定治の養子となり、弥四郎と改名する。享保三年、実兄孫右衛門元閑の後家清と結婚する。連子は宗五郎。妻清、死去後、村田孫兵衛豊商四女かつと再婚する。
元文五年、定利、江戸店で急死しため休店。

六代
小津三四右衛門定治(正徳二年十月十三日生~宝暦元年二月八日、享年四十歳)
父小津孫右衛門元閑。母小津三四右衛門定治二女清。長男宗五郎。
享保三年、母が再婚したため、小津三四右衛門定利は義父となる。天保十三年、神田紺屋町に居住し、店を持つ。妻はやは離別。元文五年、定利死後、相続する。寛保二年、堀留町の煙草店、両替店を閉業。寛保四年、休業中の小津屋三四右衛門を津島嘉兵衛に譲渡。

七代
本居宣長(享保十五年五月七日生~享和元年九月二十九日、享年七十二歳)
父小津三四右衛門定利。母村田孫兵衛豊商四女かつ。次男冨之助。妻は村田彦太郎女みか、離別。藤堂家津幡医、草深玄弘女かつと再婚。
元文五年、父定利死後、弥四郎と改名する。延享二年、叔父の江戸店小津屋孫右衛門に一年間寄宿。寛保元年、魚町の小津孫右衛門家へ移り、栄貞と改名する。寛延元年、伊勢山田妙見町の紙商、御師の今井田儀左衛門家へ養子、寛延三年今井田家を離縁。宝暦元年、義兄定治死去のため家督を相続、神田紺屋町の店等を整理する。宝暦二年、京都へ遊学。本居姓に復す。宝暦三年、医学を学び、健蔵と改名する。宝暦五年、稚髪、宣長と改名し、小児科の医師となる。寛政四年、紀州藩御針医格五人扶持、後に十人扶持。寛政十年、古事記伝全巻終業。

小津清左衛門家との関係
初代本居武秀道観とは清左衛門家初代三好隼人祐長年とは豊臣豊冨秀吉と織田信雄・徳川家康との小牧・長久手の戦いでは、それぞれ蒲生氏郷軍、織田信雄軍の配下となって戦っています。
三代三郎右衛門道休に三代清左衛門長弘は開業資金の融通、屋号小津屋と家印ウロコキュウの使用を許されています。
五代三四右衛門定利と五代清左衛門 長康の妻玉とは従兄妹になります。
本居家三代本居有郷は、七代清左衛門長郷後家慈源の養子となり御為替組見習までなっていますが離縁しており、離縁しなければ九代清左衛門となっていました。(小西)

2020年7月4日土曜日

小津清左衛門歴代

初代
三好隼人祐長年(?~天正十二年九月十五日)
父は三好筑前守長基(阿波勝瑞城主)、母は不明、兄弟は三好長慶(摂津飯盛山城主)や十河一存(和泉岸和田城主)とされる。
北畠具豊(織田信雄)の家臣木造中将具康(北畠左衛門祐具康)軍の家臣として従軍、豊臣秀吉の家臣蒲生氏郷軍と戸木の戦いで戦死。

二代
森嶋與次太夫長継(天正十三年生~承応三年五月二日、享年六十九歳)
父長年戦死後に誕生、母は、同じ木造中将具康の家臣、佐々木小志摩の娘。兄佐々木九郎左衛門に世話になり、伊勢川崎に居住。叔父は森嶋覚左衛門と改名、猶子となり九郎次郎となる。元和八年、川崎より松坂西町に移住。

三代
小津清左衛門長弘(寛永ニ年生~宝永七年三月八日、享年八十六歳)
父は長継、母は松坂西町の堤仁左衛門の娘。次男太郎次郎。
母の親類京都の斎藤小兵衛の養子となり、江戸本石町の江戸店呉服店に勤め、斎藤清左衛門と名乗る。後離縁して江戸大伝馬町の紙店に勤め、その後独立して小津屋を開業し、小津清左衛門と改名する。妻は川越の人。跡取りなく弟を養子に迎え、隠居し玄久と名乗る。

四代
小津清左衛門長生(寛永十五年生~宝永七年正月十一日、享年七十三歳)
長継の五男、長弘の弟、虎之助。
小津三十郎宗心の太物店に勤め、支配人となり宗心の養子となり家督を相続し小津孫太夫と改名する。妻は、宗心の妻の妹谷。貞享元年、長弘の跡を継ぐため離縁、小津清左衛門長生と改名する。このとき松坂西町から松坂本町に移住。元禄十一年、太物店伊勢屋を開業、後に次男孫大夫長英に店を譲り、孫太夫は分家する後の権右衛門家。
森嶋家は、三女千代に江戸店支配人だった小津七郎兵衛浄喜を婿養子にし相続。
四女常を小津三十郎宗心の跡取り小津小右衛門専久へ嫁がせている。

五代
小津清左衛門長康(天和元年正月二十五日生~寛保元年九月四日、享年六十一歳)
長生三男新五郎、長生死後家督を相続し、小津清左衛門長康と改名する。妻は小津清兵衛道生三女玉。

六代
小津清左衛門長郷(享保五年十二月三十日生~宝暦五年八月十五日、享年三十六歳)
長康長男新五郎、長康死後家督を相続し、小津清左衛門長郷と改名する。妻は津堀川の松田甚十郎女安、長男新五郎出産三か月後死去。後妻は津八町の鈴木多兵衛女音羽。

七代
小津清左衛門長保(宝暦三年四月四日生~寛政六年二月十一日、享年四十二歳)
長郷次男安次郎、母は後妻音羽。長郷死後家督を相続、幼少のため代勤甚兵衛。妻は津八町の医師筒井孝伯義道長女由賀。
天明四年、江戸本町四丁目の大橋屋又太夫を買収、大橋屋太郎次郎として営業を始める。

八代
小津清左衛門長年(寛政五年五月二十七日から寛政十一年九月二十一日、享年七歳)
長保長男太郎次郎、長保死後家督を相続、幼少のため代勤間宮彦助。後見人に母由賀(慈源)、長年死後、女戸主となる。

九代
小津清左衛門長澄(天明五年八月生~文久三年十二月二十七日、享年七十二歳)
父は津八町の医師筒井朴庵順一、次男孫三郎。母は阿川義廣女。享和元年叔母慈源の養子となり、新五郎と改名する。文化三年久満(長保四女、母慈源)と結婚、文化四年家督を相続し小津清左衛門長澄と改名する。文政九年、隠居し與次兵衛と改名する。天保五年、長堯離縁後再勤、天保九年分家小津権右衛門家を離縁義絶、天保十一年、再び隠居する。

十代
小津清左衛門長堯(文化三年五月生~安政七年三月十日、享年五十三歳)
父は尾州名古屋の関戸鉄太郎信房、三男寅五郎。母は松下久右衛門治矩女登勢。長澄の養子となり光三郎と改名する。文政八年、長澄長女志賀と結婚し、文政九年、家督を相続し小津清左衛門長堯と改名する。天保五年、小津家と離縁し、関戸家別家松下家初代松下寅五郎信近となる。西川長蔵長女ちかと再婚する。

十一代
小津清左衛門長柱(文化八年正月生~明治九年三月八日、享年六十六歳)
父は津八町の医師筒井孝伯美顕、三男貫之助、母は谷川氏女妙子。
長澄の養子となる、天保七年、長澄長女志賀の後夫として結婚。天保十一年、家督を相続し小津清左衛門長柱と改名する、明治四年、隠居し、與次兵衛と改名する。明治五年、小津益吉、分家小津権右衛門家を再興し、東家とする。

十二代
小津清左衛門長篤(天保三年十一月十二月生~明治二十年九月二十九日、享年六十三歳)
義父は度会郡桝村の医師西井道仙、母は津八町の医師筒井孝伯美顕の娘、謙之助。
嘉永六年、小津家入家、安政三年、長柱の養子となり長堯二女八百と結婚、勢之助と改名する。安政五年、御為替組見習となり、太郎次郎と改名する。明治四年、家督を相続し、小津清左衛門長篤と改名する。明治十二年、隠居する。

十三代
小津清左衛門長幸(慶応元年四月十日生~明治四十一年二月十四日、享年四十四歳)
長篤長男新五郎。母は長堯二女八百。
明治十二年、家督を相続、明治十六年、小津清左衛門長幸と改名する。妻は、津大門の冨岡太郎兵衛三女都賀。紡績、銀行など設立。

十四代
小津清左衛門長謹(明治二十一年五月六日生~昭和二十七年十二月八日、享年六十五歳)
長幸長男修太郎。明治四十一年、長幸死後、慶應義塾を退学し相続、小津清左衛門長謹と改名する。妻は、奈良五條町の栗山藤作四女民。(小西)

2020年7月2日木曜日

西島製綿所、東京製綿所

西島製綿所
明治二十四年(1891)九月、小津商店(小津清左衛門本店)の西島辰三によって浅草区今戸町百拾四番地に西島製綿所設立。梳綿機、打綿機、磨針機などの設備があった。繰綿から製綿された綿は、東京紡績に納入された。工場の責任者は、門松録之助。
明治三十二年(1899)十一月、西島製綿所、カード器械五台導入。

東京製綿所
明治三十四年(1901)九月、西島製綿所増設、今戸工場(東京製綿所)に名称変更。
 木造平家建、事務室 六坪二合余、倉庫 二十四坪五合、工場 三十三坪二合余、物置 七坪五合、食堂 九坪。
明治三十七年(1904)、今戸工場 食堂、物置変更。 
 木造平家建、事務室 六坪二合余、倉庫 二十四坪五合、工場 三十三坪三合余、食堂 七坪五合、物置 九坪、物置 十坪。 

西島製綿所は、火災保険証書などから小津清左衛門の経営で、小津商店支配人が管理していた。小津商店は、和洋紙、繰綿、紡績綿の商況(市況)を掲載した小津商報という新聞を毎月十五日に発行している。明治四十五年(1912)正月発行の第71号を小津史料館に展示。(小西)
小津商店

2020年6月27日土曜日

日本細糸紡績、小津細糸紡績、小津武林起業

日本細糸紡績株式会社
明治二十九(1896)年二月、大阪府西成郡歌島村宇野里に日本細糸紡績設立。資本金四十八万円。
明治三十一年(1898)時の大株主、松本長七、田村利七(1848~1911)、田中国吉(?~1908)、鹿島万兵衛(1849~1928)、長谷川次郎兵衛(1868~1925)。 田村、鹿島、長谷川は東京紡績取締役、田中国吉は、小津清左衛門本店の支配人。

合名会社小津細糸紡績所
明治三十六年(1903)九月、小津清左衛門が日本細糸紡績を買収して、小津細糸紡績所を設立。資本金四十万円、敷地約一万五千坪、建物三千四百六十六坪、精紡機二万錘、撚糸機約八千余錘。敷地内に工員のために学校、病院などがあった。

小津武林起業株式会社
大正九年(1920)、小津細糸紡績所と神戸の武林洋行を合併して小津武林起業を設立。武林洋行は大連などに営業所を持った商社。
昭和二年(1927)、閉鎖。横浜正金銀行が融通していた総額千八百八十万円のうち小津清左衛門長謹(1888~1952)は、私財を処分して約半額九百六十万円を弁済、小津銀行は四日市銀行に吸収合併。義父の栗山藤作(1864~?)は、貸付六百十四万円のうち三百万円を提供したまま隠居したため裁判となった。栗山藤作は、大和国五條町山林王、吉野銀行取締役、大和林業信託代表社員、四女民(1890~?)が長謹の妻の関係から、大正九年(1920)小津武林起業に出資し重役、大正十五年(1926)隠居。
その後、小津武林起業は東洋紡績のものとなっている。
栗山家の屋敷は、国の重要文化財の指定を受け、現在も子孫が住居する。経営する金久商事の屋号カネキュウは小津木綿店(大伝馬町の伊勢屋清左衛門)と同じである。(小西)

金久商事 http://kanekyu-shoji.co.jp/

参考:明治31年時における綿糸紡績会社株主名簿の分析
鈴木 恒夫、小早川 洋一、和田 一夫
学習院大学経済学会 第41巻第3号(通巻124号) 2004年11月
https://www.gakushuin.ac.jp/univ/eco/gakkai/pdf_files/keizai_ronsyuu/contents/4102/4102suzuki.htm

参考:小津武林と正金を繞る保証で危局に起つ…栗山耕作氏
大阪朝日新聞 1933.6.10 (昭和8)
神戸大学電子図書館システム
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00771479&TYPE=HTML_FILE&POS=1

2020年6月25日木曜日

鹿島紡績、東京紡績、三重紡績、東京商法会議所

鹿島紡績
 鹿島万平(1822~91)、嘉永二年(1849)、江戸堀江町四丁目に木綿・繰綿問屋を開業。
横浜開港後、綿花貿易に従事。
 元治元年(1864)、鹿島紡績所設立を計画。
 慶応三年(1867)、三井組に入り三野村利左衛門(1821~77)と生糸荷為換組合を組織。
 明治三年(1870)、滝野川に鹿島紡績所設立。
 明治四年(1871)、渋沢栄一に紙幣寮創設にあたり滝野川を推薦。
 明治五年(1872)、民間初の紡績工場、鹿島紡績所操業開始。
 明治二十一年(1888)、鹿島紡績所、東京紡績と合併、長男の鹿島万兵衛(1849~1928)取締役に就任。
 大正十一年(1922)発行「江戸の夕栄」を著。
  「江戸の夕栄」国立国会図書館デジタルコレクション
   https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/964412/47

東京紡績
 明治十九年(1886)、木綿問屋仲間、小津清左衛門、長谷川次郎兵衛、川喜田久太夫ら紡績会社設立を計画。
 明治二十年(1887)四月、深川区東大工町小名木川沿岸に東京紡績会社設立。資本金五十万円、社長は元三井銀行横浜支店長田村利七(1848~1911)、取締役長谷川次郎兵衛(1868~1925)、小津清左衛門(1865~1908)、西川庄六、川喜田久太夫(1878~1963)、鹿島万兵衛。明治三十一年(1898)時の大株主田村利七、渡辺多八郎、平沼専蔵(1836~1913)、長谷川次郎兵衛、小津清左衛門。
 明治二十一年(1888)、鹿島紡績所を吸収合併。
 明治二十二年(1889)二月、東京紡績会社操業開始。
 明治四十一年(1908)、創立二十周年を記念して橋場工場建設。
 大正三年(1914)、尼崎紡績と合併。

三重紡績
 明治十三年(1880)、伊藤伝七(1852~1924)により四日市に三重紡績所設立。
 明治十九年(1886)、渋沢栄一(1840~1931)により三重紡績株式会社設立。三重紡績所を合併。
 明治二十一年(1888)、本社工場操業開始。一万錘。
 明治二十二年(1889)、第二工場建設。
 明治二十六年(1893)、名古屋工場建設。
 明治三十年(1897)、津工場建設。
 明治三十四年(1901)、伊勢紡績を買収。
 明治三十八年(1905)、関西紡績と合併。
 明治三十九年(1906)、津島紡績、大阪西成紡績を買収。
 明治四十年(1907)、桑名紡績所、知多紡績所などを買収。
  取締役斎藤恒三、伊藤伝七、奥田正香(1847~1921)、九鬼紋七(1866~1928)、渋沢栄一、監査役川喜田四郎兵衛(1854~1919)、岡谷惣助(1851~1927)、小津清左衛門。
 大正三年(1914)、大阪紡績と合併し、東洋紡績株式会社となる。

東京商法会議所
 明治十一年(1878)三月、東京商法会議所設立。会頭渋沢栄一。
 明治十二年(1879)三月、小津清左衛門出席難しく議員除名を願出退会。
 明治十四年(1881)二月、渋沢栄一の紹介により小津清左衛門本店支配人釜田栄三入会。
 明治十四年(1881)六月、釜田栄三退会。 
 明治十六年(1883)十月、解散。商業会議所へ
 昭和三年(1928)一月、東京商工会議所に移行。

小津史料館に「温故而知新」青淵老人題(渋沢栄一)の色紙を展示しています。(小西)

2020年6月20日土曜日

鳥羽開港社中、松阪荷為替会社、小橋屋清左衛門、廻漕店鱗組

小津清左衛門長篤のとき、
明治五年(1872)
 二月、御為替組廃止。
 十一月、地方有志と共に鳥羽開港社中を設立、頭取となる、代勤田沢弥兵衛。
明治六年(1873)
 一月、度会郡出張所新町役所に於いて大三区小三区の区長拝命。
 七月、戸長免ぜられ、第二中学区取締拝命。
 十月、学区取締制廃止、区長の兼務となる。
 十一月、元羽書会所(元御為替組・元三井組)、太政官金札と交換した羽書数万枚を三井銀行及び県官立立合いの上、荒木野に於いて焼棄てる。
 十二月、鳥羽会社を松阪本町の元羽書会所(銀札会所)に移転し、社名を松阪荷為替会社と改め開業。
明治七年(1874)
 七月、松阪荷為替会社(鳥羽会社)、頭取免職。
 十月、横浜万年橋通りに小橋屋清左衛門開業。米澤和七三ヶ年横浜詰め。
明治十八年(1885)
 二月、横浜、小橋屋清左衛門閉店。
明治十九年(1886)
 松阪大口湊に別家一同合同して廻漕店鱗組開業。
 東京深川区東大工町に木綿仲間の長谷川次郎兵衛、川喜田久太夫らと東京紡績を計画。
明治二十年(1887)
 四月、東京紡績設立。
明治二十二年(1889)、廻漕店鱗組を松島政右衛門に譲渡。(小西)

2020年6月18日木曜日

和歌山藩松坂領御為替組

和歌山藩松坂領御為替組
宝暦五年(1755)三月、和歌山藩六代藩主徳川宗直(1682~1757)の時、松坂から為替によって江戸へ送る商人の組織、御為替組が設置され、西村喜兵衛、中川清三郎、長井嘉左衛門、小津清左衛門、藤田徳右衛門、殿村惣右衛門、須賀伊兵衛、中里新三郎の八名が加入した。このとき小津清左衛門長郷で和歌山藩地士拾五人扶持を仰付られる。
明和六年(1769)、中川清三郎天寿退役。
安永四年(1775)、長谷川次郎兵衛、村田十郎兵衛が加入。
安永九年(1780)、藤田徳右衛門退役。
天明元年(1781)、坂田五郎兵衛が加入。
寛政七年(1795)、長井嘉左衛門と長井惣兵衛と交替。
寛政八年(1796)、西村喜兵衛退役。
寛政十年(1798)、中里新三郎退役。長井惣兵衛、長井嘉左衛門へ戻す。
寛政十二年(1800)、須賀伊兵衛、村田十郎兵衛退役。
文政六年(1823)二月、銀札会所設置。長谷川次郎兵衛、小津清左衛門、長井嘉左衛門、殿村佐五平、坂田五郎兵衛の名が入った藩札が発行される。同時に三井組(京都本家北家の三井八郎兵衛、松坂北家三井宗十郎、松坂南家三井則右衛門)の藩札発行。

小津史料館展示、藩札


天保六年(1835)、坂田五郎兵衛、殿村惣右衛門(佐五平)退役。
この後は、商人名入から銀札会所名に変更された藩札が発行される。
安政年間、竹内謹一郎が加入。
安政五年(1858)、小津新兵衛が加入。
明治五年(1872)、二月二十七日廃止。このとき御為替組、三井組合せて二十五万両が処分されている。小津清左衛門長柱は八十五人扶持、地士独礼格、大年寄。
藩札は、明治政府発行の太政官札など信用がなく明治五年(1872)まで流通した。松坂札(松坂羽書、銀札)は、明治四年(1871)、新貨条例により壱両壱円と交換されたといわれ、他の藩札のレート基準になった。この藩札は、松坂だけでなく近隣や和歌山でも通用していました。藩札の紙は、御為替組は深野紙、三井組は白子紙が使用された。
藩札については、
 紀州紙幣史の研究 (1985年) (三重県郷土資料叢書〈第99集〉) 紀州古泉会、
 松阪市立歴史民俗資料館 企画展「続・藩札と羽書 MIEのエコマネー」図録
が出版されている。(小西)

2020年6月13日土曜日

商法会所、会計官為替方、通商司為替方、東京為替会社、小津銀行

小津清左衛門長柱(1811~76)
明治元年(1868)十一月、商法会所 元締頭取任命される
各種商業の取締りおよび商人より担保をださせて商業資金の貸付を行うことを目的とした。商法司が設置後一年足らずで廃止され、商法会所も自然消滅した。

明治元年(1868)十二月、会計官為替方 元締頭取任命される
御用掛を拝命した小津、長谷川次郎兵衛は、菊の御紋付弓張提灯および会計官御用の小田原提灯を下付され、以後京都への往復における人足継立や金子上納の際、宰領着用のかばんが免許された。会計官基立金に小津、長谷川、各一万両、各金札三千八百両。

明治二年(1869)五月、通商司為替方 頭取任命される、代勤大市彦蔵
外国貿易事務を管理し、その振興を計るのが目的であったが、会計官に転属後、目的が変り、物価の統制・貨幣の流通拡大・輸出入の振興・運輸の監督・諸仲間の統制改良・商社の建設促進などの権限が与えられた。東京築地に通商会社が設置された。

明治二年(1869)十二月、東京為替会社 総頭取に就任、代勤大市彦蔵
金券・銀券・洋銀券・銭券などの為替会社紙幣の発行および個人・通商会社などの貸付が目的であった。社員出資金は、三井高福、16万7千円、小野善助、15万5千円、島田八郎左衛門、9万円、田中次郎左衛門、5万円、川喜田久太夫、3万7千円、小津清左衛門、3万円、長谷川次郎兵衛、1万7千円。貸付金は、個人34万円余、通商会社13万5千円、郵便汽船会社、80万9千円、開墾社、6万円、廻漕会社16万3千円。
東京為替会社は解散、明治六年(1873)七月、三井組、小野組出資で第一国立銀行設立、東京為替会社の失敗で小津は、第一国立銀行に出資していないが口座は持つ、そして小野組が破産してしまい解散、その後に日本銀行が設立される。

小津清左衛門長篤(1832~87)、明治四年(1871)六月、家督を相続。
小津清左衛門長幸(1865~1908)、明治十六年(1883)、家督を相続。
小津清左衛門長謹(1888~1952)、明治四十一年(1908)、家督を相続。
明治三十二年(1899)一月、松阪本町矢下小路に小津銀行創立、資本金十万円、支配人大市彦蔵。
明治三十五年(1902)四月、元三井銀行松阪支店跡に移転。
明治三十六年(1903)、小津銀行新町出張所開設。
明治三十八年(1905)、小津銀行新社屋建築。
昭和二年(1927)、小津銀行、四日市銀行に吸収合併。清左衛門は、行主から取締役。

雙六上り部分(本家店)
「松阪實業大勉強家案内雙六(まつさかじつぎょうだいべんきょうかあんないすごろく)」の上りは小津銀行となっています。明治三十五年(1902)正月に南勢新報社が発行。小津商店で複製、松阪市歴史民俗資料館で販売しています。(限定品)
https://www.city.matsusaka.mie.jp/site/rekisiminzoku/ozu-syouhin.html
小津銀行新社屋

小津史料館展示の小津銀行パネル
(小西)

2020年6月11日木曜日

小津清左衛門5、長篤、長幸、長謹

小津清左衛門長篤(1832~87)、和歌山藩田丸領柳村医師西井道仙義子謙之助、母は長柱の実姉で道仙とは、連子で再婚したようである。嘉永六年(1853)、清左衛門家へ入家、安政三年(1856)、長柱の養子となり、長堯の二女八百と結婚、勢之助と改名、安政五年(1858)、和歌山藩御為替組見習拝命、太郎次郎と改名、明治四年(1871)、長柱から家督を相続、清左衛門に改名、明治十三年(1880)、弟西井格太郎に医師になるための学費などを経済的援助。
明治四年(1871)、東京為替会社廻漕取扱所を霊岸嶋銀町二丁目に設置。砂糖問屋組合結成、明治五年(1872)、和歌山藩御為替組廃止、砂糖問屋組合解散。鳥羽開港社中頭取、
明治六年(1873)、松阪、大三区小三区長拝命、第二中学区取締拝命、学区取締制廃止、区長の兼務となる、鳥羽会社を移転し松阪荷為換会社と改称して開業。明治七年(1874)、横浜万年橋通りに新店小橋屋清左衛門を造営、明治十二年(1879)、和紙問屋壱番組仲間と己卯組結成、有限会社東京洋紙店を引受ける。明治十六年(1883)、長男新五郎に家督を譲り隠居する。
小津清左衛門長幸(1865~1908)、長篤長男新五郎、明治十六年(1883)、家督を相続、明治十七年(1884)、都賀と結婚、木綿店建築、明治十八年(1885)、横浜、小橋屋閉店、明治十九年(1886)、松阪大口湊に廻漕店鱗組設立、明治二十年(1887)、深川大工町、東京紡績設立に参加、明治二十一年(1888)、有限会社東京洋紙会社を小津洋紙店に変更、明治二十四年(1891)、浅草に西嶋製綿所設立、明治二十六年(1893)、松阪殿町に別荘及び茶席を建設、明治三十二年(1899)、松阪本町、小津銀行設立、明治三十六年(1903)、大阪歌島、日本細糸紡績所を買収、小津細糸紡績所に改称、参宮鉄道取締役就任、明治四十年(1907)、三重紡績監査役就任、小津洋紙店解散、土地建物を隣の丸善に売却。
小津清左衛門長謹(1888~1952)、長幸長男修太郎、明治四十一年(1908)、中学卒業後慶応義塾に入学するも父長幸死去の為退学、家督相続、明治四十三年(1910)、関東大水害、小津商店改築、民と結婚、大正三年(1914)、東京紡績、尼崎紡績と合併、取締役退任、三重紡績、大阪紡績と合併し東洋紡績と改称、大正九年(1920)、神戸の武林洋行を買収、小津細糸紡績と合併し、小津武林起業株式会社と改称、大正十二年(1923)、関東大震災、東京三店焼失、昭和二年(1927)、小津銀行、四日市銀行と合併、行主から取締役、小津武林起業閉鎖、昭和三年(1928)、小津本店新店舗完成、昭和四年(1929)、東京三店、合資会社となり清左衛門経営から社員経営となる。合資会社小津商店、合資会社大橋商店、合資会社小津木綿店。(小西)

2020年6月6日土曜日

小津清左衛門4、長堯、長柱

小津清左衛門長堯(1806~60)、尾州名古屋巾下町、関戸鉄太郎三男寅五郎、長澄の養子となり、和歌山藩御為替組見習拝命し、光三郎と改名、文政八年(1825)、志賀(1809~54)と結婚、文政九年(1826)、五十人扶持、独礼格地士、家督を相続し清左衛門と改名する、文政十年(1827)、江戸店太物店伊勢屋権右衛門から伊勢屋清左衛門に改称、天保五年(1834)、小津清左衛門家と離縁し、関戸家別家初代松下寅五郎信近となる。
小津清左衛門長柱(1811~76)、津の医師筒井孝伯弟貫之助、長堯離縁後、長澄の養子となり、天保七年(1836)、志賀と結婚し後夫となる。志賀は、長堯との子八百を連子、また長堯の妾の子鈴松を養子にし、大坂今橋町、神田七左衛門方へ養子に出す、天保十一年(1840)、家督を相続し、清左衛門に改名し、八十五人扶持、独礼格地士を拝命、徳和村、斎藤弥助妹重との子多賀を実家筒井家に預ける。嘉永六年(1853)、甥の謙之助を入家、筒井家より多賀を引き取る、嘉永七年(1854)、妻志賀死去、安政三年(1856)、謙之助を養子にし八百と結婚、勢之助と改名、安政五年(1858)、大年寄役拝命、勢之助は御為替組見習となり、太郎次郎と改名、長谷川六郎次元経二男益吉を養子に迎え、多賀と結婚し、分家小津権右衛門家を再興する。慶応三年(1867)、大年寄役廃止、明治元年(1868)、太政官会計御用掛、会計附属商法司、明治二年(1869)、八十五人扶持食禄廃止、通商司為替方総頭取、東京通商会社総頭取、東京為替会社総頭取、明治四年(1861)、家督を譲り隠居、與次兵衛と改名。
 清左衛門長柱は、長澄長女志賀が長堯と離婚後、連子で結婚し、妻死後に義子八百に婿養子を迎え清左衛門の家督をつがせている。また斉藤重との子多賀は、長谷川家より養子をもらい、分家を再興している。また、長柱日記が残されています。(小西)
松阪市、小津清左衛門長柱日記
https://www.city.matsusaka.mie.jp/site/culture-info/chochunikki.html

2020年6月4日木曜日

小津清左衛門3、慈源、長澄

 小津慈源(1759~1843)、津八町、医師筒井孝伯長女由賀、小津清左衛門長保(1753~94)と結婚、喜賀と改名、天明元年(1781~81)長女新治、天明二年(1782~82)二女、天明五年(1785~94)三女八十、寛政四年(1792~1863)四女登美(久満)、寛政五年(1793~99)長男太郎次郎(長年)、登美以外いずれも早世。夫の死後、慈源と改名し、長男長年は二歳で家督相続、後継人になるも早世したため、女戸主となる。
 寛政十二年(1800)、北勢神戸駅、小津喜右衛門の周旋を以て亀山領大岡寺村萬福院琴平太神御遷座、当家の鎮守神となし家内安全商業繁栄の祈願をなす。
 松坂、養泉寺に筆写した正法眼蔵を奉納する。
享和元年(1801)、実家筒井家から孫三郎(兄朴庵の二男)を養子にし、新五郎と改名する。
享和三年(1803)、慈源、江戸本町四丁目沽券状に豊次郎事清左衛門と名乗る。
文化二年(1805)、操綿問屋行事役を務め、大坂の操綿問屋の申し入れには、大黒屋惣兵衛と名乗る。
文化三年(1806)、四女登美と養子新五郎と結婚させる。
文化四年(1807)、江戸店々の法規を定め、新五郎家督相続し清左衛門長澄となる。
小津清左衛門家は、この頃男子に恵まれず、跡取りに困惑する時代です。
分家小津権右衛門家は、小津三十郎家より夫婦で養子に迎えたり、森嶋家は、別家(元江戸店支配人)を養子に迎えています。
 小津清左衛門長澄(1785~1863)、津藩医師筒井朴庵二男孫三郎、享和元年(1801)、伯母慈源の養子となり、新五郎と改名する。
文化三年(1806)、清左衛門長保四女登美(久満)と結婚し、文化四年(1807)、家督相続し清左衛門に改名する。五十人扶持を仰せつかる。
茶道を妻久満と共に裏千家十代認得斉に師事する。また十一代玄々斎にも学ぶ。本居春庭(1763~1828)に和歌を学ぶ。
文化十年(1813)、十組下り傘問屋株取得、文化十三年(1816)、十組真綿問屋株休業。文政三年(1820)、長男熊之助(1812~20)早世。文政四年(1821)、服部芳太郎女登志(1804~46)を養女に迎え、殿村佐五平嫡子佐市方へ嫁ぐ。文政五年(1822)、本居春庭長男源之助(1804~52)を養子に迎え、御為替組見習を拝命するが、同年不縁する。不縁後、小津久足(1804~58)の後見で本居宣長の家名を継ぎ本居有郷(本居宣長の孫)となる。
文政六年(1823)、和歌山藩銀札役所御用拝命、熨斗目肩衣着用御免、独礼格地士拝命。
文政九年(1826)、養子長堯(1806~60)に家督を譲り、隠居し與次兵衛と改名する。
天保五年(1834)、長堯家内不和合にて不縁とし、和歌山藩御用を再勤する。
母の実家筒井家より、貫之助(長柱)(1811~76)を養子に迎え、天保七年(1836)、長女鹿(志賀)(1809~54)の後夫になり、天保十一年(1840)、家督を譲る。
 長澄も跡取りに困惑している。長男が早世したため、長女鹿(志賀)に婿取を計画するが、最初の夫候補、本居春庭長男熊之助とは相性が悪かったのか不縁し、名古屋の関戸家から長堯を夫に迎えるが家内不和合で不縁、筒井家から長柱を後夫に迎えるが、志賀との間には子はなく、長堯との子二女八百と結婚させ跡取りにしている。(小西)
清左衛門家と本居家の関係 

2020年6月1日月曜日

小津屋清左衛門2.長郷、長保、長年

 小津清左衛門長郷(1720~55)は、寛保元年(1741年)、父長康の死去により家督を相続します。寛保二年(1742年)四月、津堀川の松田甚十郎女安と結婚しますが、寛保三年(1743年)八月、長男新五郎を出産し、十一月に妻安は亡くなります。延享三年(1746年)十一月十一月、長男新五郎も早世します。
 寛延元年(1748年)十一月、江戸本町四丁目北側東角屋敷表口京間八間を金二千五百五拾両で勢州白子町の次兵衛から譲り受けます。
 寛延三年(1750年)十一月、津八丁の鈴木多兵衛女音羽と再婚します。宝暦三年(1753年)四月、次男安次郎が生まれます。
 宝暦三年(1753年)十一月、紀州藩大年寄格に仰せつけられ、宝暦四年(1754年)正月、御紋提灯を預り苗字帯刀を許されます。三月、度々御用金差出候ニ付大年寄格食禄十五人扶持、宝暦五年(1755年)三月、江戸表に於いて御為替組御用を拝命します。八月に亡くなります。
 小津清左衛門長保(1753~94)は、宝暦五年(1755年)十月、父長郷の死去により家督を相続しますが幼少のため祖母貞円(玉)が後見となり、代勤は甚兵衛が行います。
 安永六年(1777年)、継松寺に韓天寿銘文の銅香炉を寄進。韓天寿は、中川長四郎天寿(1727~97)のことで、書家、画家、御為替組御用を務めた江戸・京都・大坂に両替店を持つ中川清三郎家六代目当主です。 
証文之事(部分)天明四年六月
天明四年(1784年)六月、江戸本町四丁目の店子、勢州山田一ノ木の御師大橋又太夫から居宅建家、土蔵、名題・株式など奉公人ともども金四千百五十四両で譲り受けます。「証文之事」の宛先は三好太郎次郎で、これは先祖三好隼人祐長年の三好をとり、太郎次郎は創業者小津清左衛門長弘の幼少名で、店名を大橋屋太郎次郎、また寛政五年(1793年)五月に生まれた長男に太郎次郎と名付けています。 
株札
寛政二年(1790年)十一月、地士帯刀御免、食禄四十人扶持となり、與次太夫と改名。代勤は、手代彦助。寛政三年(1791年)五月、正米問屋元締を命じられ、帯刀免許念頭御目見えの節は熨斗目着用が許され、仲間の上座となり、殿村佐五平家と共同で金二万五千両を上納します。

 「証文之事」「株札」は小津史料館に展示しています。
株札には、「大傳馬町壱丁目 小津与次太夫㊞」と墨書と印が押されています。
 
 小津清左衛門長年(1793~99)は、寛政六年(1794年)二月、父長保の死去により家督を相続しますが幼少のため母慈源(由賀、喜賀)が後見となり、代勤は間宮彦助が行います。十二月、御為替組最上席となり、寛政八年(1796年)、正米問屋御用を拝命しますが、寛政十一年(1799年)九月に早世します。(小西)

2020年4月3日金曜日

小津屋清左衛門1.長弘、長生、長康

小津屋清左衛門 承応二年(1653年)八月九日開業、大傳馬町一丁目
 創業者、小津清左衛門長弘(1625~1710)は、寛永二十年(1643年)、大傳馬町名主佐久間善八の紙店に斉藤清左衛門として勤めます。
 承応二年(1653年)八月九日、井上仁左衛門紙店を金百三十両で譲り受け独立、小津屋清左衛門紙店を開業します。元手金は、小津三十郎宗心(1617~1705)の紹介で小津三郎右衛門道休(1612~88)から金二百両を借り、家印ウロコキュウと小津屋の屋号の使用を許され、店名を小津屋清左衛門とし、斎藤から小津清左衛門と改名します。この時の店は、佐久間善八屋敷表口三間、奥行二間で、佐久間善八の店子となり店賃を毎月支払ます。奉公人には、弟長兵衛(1633~60)、弟七郎右衛門(1644~74)が働きますが若くして亡くなります。結婚して郷里、松坂西町二丁目に戻ります。
 延宝五年(1677年)正月、東隣の薬種店大坂屋八右衛門の空き店表口二間を金十五両で譲り受け店を拡張します。
「定」戌六月 写し
延宝六年(1678年)正月、子供がいなかったため弟小津孫太夫の長男亀太郎(1675~82)を二十歳で家督を相続することで養子にしますが早世してしまいます。
 貞享元年(1684年)五月、相続候補がなくなり、小津三十郎宗心の跡取りとなっていた弟小津孫太夫は離縁し、小津清左衛門家の家督を相続、小津清左衛門長生と改名。
 貞享三年(1686年)、長弘は隠居し、玄久と名乗り、元禄七年(1694年)六月、掟書「定」七ヶ条を定めます。小津史料館に展示しています。
 小津清左衛門長生(1638~1710)は、貞享三年(1686年)八月、松坂西町二丁目から松坂本町に住居を移します。次男長之助(1655~1731)を分家させ、元禄十一年(1698年)四月に開業した木綿店伊勢屋を任せます。三男新五郎(1681~1741)に、小津清兵衛道生三女玉を迎え結婚、宝永七年(1710年)、小津清左衛門家の家督を譲ります。三女千代(?-1736)は、小津七郎兵衛浄喜と結婚し森嶋家を存続させます。四女常(?-1713)は、小津三十郎家の常州土浦、醤油問屋小津小右衛門に嫁ぎます。宝永三年(1706)九月、佐久間善八屋敷表五間を金二千八百両で佐久間善八から譲り受け、家持となります。
 小津七郎兵衛浄喜、元禄十四年(1701年)、支配人七郎兵衛は、退役し仕分金九百六十一両三歩十匁二分五厘をもらい別家となります、享保十九年(1734年)に本家の命により千代と結婚し、森嶋氏を継ぎ小津姓となります。勢州山田八日市場村、寺田喜右衛門二男。
 小津清左衛門長康(1681~1741)は、玉(1692~1762)と結婚したので、江戸店持の小津清兵衛家、小津三四右衛門家、小津次郎右衛門家などと親戚となります。正徳三年(1713年)、掟書「定」十二ヶ条を定め、「江戸店開基之図」を記します。享保十四年(1729年)、大年寄役を仰せつけられます。長女円(1709~40)は、小津清右衛門正啓と結婚し森嶋家を守り、二女谷(1713~31)は小津次郎左衛門信業へ嫁ぎ、三女由良(1716~35)は小津次郎兵衛へ嫁ぎ、長男新五郎(1720~55)は家督を相続し清左衛門長郷と改名します。
 享保十六年(1731年)秋、養泉寺に地蔵堂建立。享保十八年(1733年)六月、江戸深川称名院へ墓地を寄附。
 元文四年(1739年)、勢州山田萗恩寺を買求めて修理を加え移築、養泉寺の末寺、長松寺とし、昌山玄久居士を開基とし、信仰の三尊の菩薩を本尊となし若くして亡くなった三人の娘の菩提を回向します。元文五年(1740年)、紀州高野山大師堂、上総の鹿野山に永代祈祷料を納め、江戸店の隆昌を祈祷。
 妻玉は、宝暦五~六年(1755~6年)、長男長郷菩提のため城州山崎安養院へ常念仏喜捨金二百両、宝暦六年(1756年)、紀州高野山金堂へ大香炉を寄進します。宝暦十一年(1761年)九月、「本店掟書」を定めています。
 小津新兵衛保教(1672~1733)、正徳六年(1716年)正月、支配人新兵衛は、退役し仕分金五百両と小津の屋号をもらい別家として松坂中町に住み、紀州湯浅村出身の干鰯問屋湯浅屋に出資し、後共同経営者となっています。勢州須賀村、中西喜右衛門二男。著名人は小津新兵衛家には、西荘文庫で知られる蔵書家、紀行家、小津久足、東大教授でシェイクスピア研究の小津次郎、その分家小津新七家には、映画監督の小津安二郎がいます。(小西)

2020年4月2日木曜日

庄内藩 慶応四年(1868年)

慶応四辰年二月
「預申入金子之事」は小津史料館に展示しています。
小津清左衛門長柱(1811~76)が、慶応四年(1868年)二月に酒井左衛門尉、庄内藩十一代藩主酒井忠篤(1853~1915)に上納金三百両の証文。差出人勘定組頭佐藤忠助、木部謙蔵、郡代疋田弘右衛門、奥書は家老松平権十郎、松平親懐(1838~1914)。

翻刻
預申金子之事
一金三百両也
左衛門尉勝手向就要用借用被申候処
実正ニ御座候、返済之儀月壱割之利足
相加、当十二月限庄内為登金を以元利
無相違可致返済候、為後日証文仍如件
            酒井左衛門尉内
              勘定組頭
  慶応四辰年二月      佐藤仲助㊞
              勘定組頭
               木部謙蔵㊞
              郡代
               疋田弘右衛門㊞
      小津清左衛門殿
前書之通相違無之候、以上
             家老
              松平権十郎㊞

清左衛門長柱は、紀州藩御為替組御用、大年寄を勤め戦の準備をしますが松坂では戦は起こらず、慶応三年(1867年)四月、大年寄役が廃止されます。慶応四年(1868年)四月に、代勤前川善三郎が京都に於いて太政官会計御用掛りを拝命、明治元年(1868年)九月に、代勤前川仁兵衛が東京に於いて会計附属商法司を拝命、明治二年(1869年)、紀州藩改革によって地士食禄八十五人扶持が廃止されます。
 江戸では、慶応四年(1868年)三~四月、幕府は新政府に江戸城を明け渡します。(無血開城)、七月に江戸を東京に改称し、九月に明治元年となり、天皇は京都を出発し東京に行幸しました。
 庄内藩は、慶応三年(1867年)、藩政改革などで藩論を佐幕派で統一します。十二月、「酒井なければお江戸はたたぬ、おまわりさんには泣く子も黙る」と呼ばれた江戸市中警備の庄内藩新徴組は江戸三田の薩摩藩邸の焼討事件を起こします。慶応四年(1868年)五月、奥羽越列藩同盟を結び、新政府軍と戦いますが、九月に降伏し開城します。十二月、酒井忠篤は改易になり、明治二年(1869年)九月には罪を許されます。家老の松平権十郎は、大内藩(庄内藩から改称)の大参事となり、藩内に洋学所を開設しています。(小西)

2020年4月1日水曜日

廻船問屋 角屋(松本)七郎次郎と松本陀堂

菱垣廻船問屋は、大坂で寛永元年(1624年)、泉屋平右衛門がはじめ、寛永四年(1627年)、毛馬屋、富田屋、大津屋、顕屋、塩屋が開業しています。
 江戸では、御伝馬役馬込の配下だった、寛永二年(1625年)赤塚屋、寛永三年(1626年)升屋、寛永七年(1630年)久保寺ら伊勢国出身者が木綿問屋を開業しています。
 勢州松坂では、角屋七郎次郎忠栄(松本)(1574~1644)が、廻船問屋を開業します。長男忠祐(1608~91)は、松坂湊町に住み廻船問屋を継ぎます。
 二男栄吉、角屋七郎兵衛栄吉(1610~72)、朱印船貿易を行いますが、寛永十年(1633年)鎖国令のため安南国会安(ベトナムホイアン)に永住します。安南の「柳条布(りゅうじょうふ)」が輸入できなくなり、その柄をまねた松坂木綿が、後に松坂嶋と呼ばれ江戸で流行します。
 三男栄信、角屋九郎兵衛栄信、堺に移り、廻船問屋、鰯屋を開業します。
 本家角屋七郎次郎忠祐(1608~91)は、子供がなく養子有久は本家を継ぎ、 養子久林は別家松本六郎次郎久林、初代となり松坂中町に居住し木綿・茶・薬種を扱い江戸店も開業します。
 二代目松本六郎次郎賓秋(松本陀堂)(1673~1751)は、久林の二男で跡を継ぎますが、外科医、本草学者で、徳川吉宗(1684~1751)の改革、享保二年(1717年)、幕府は日本中の本草学者を江戸に集めて医薬の興隆をはかっており、大陸原産の高麗人参不足の解決が問題となっていました。松本陀堂は、享保五年(1720年)に和気で和人参を発見し「熊野直根」と名付けます。長男大慎も外科医となったため、松坂町奉行同心久世定右衛門兼由長男友八が養子となり跡を継ぎます。
 三代目松本陀堂守善(?~1804)、兼由長男友八、江戸店を閉店し、松坂で薬種業を営む
 四代目松本陀堂敬信、兼由三男義一、小津清左衛門から借用。
 久世定右衛門鉄次郎、兼由二男弥一郎
 
 小津清左衛門長澄(1785~1863)は、津藩典医筒井朴庵順一二男で、享和元年(1801年)、伯母慈源の養子となり、文化四年(1807年)十月、家督を相続し清左衛門と改名します。和歌を本居春庭(1763~1828)に学び、茶道を、裏千家認得斉(1770~1826)、玄々斎(1810~77)に学んでいます。
 長澄は、文化十年(1813年)六月、「一札之事」松本陀堂に金三十両を貸しています。差出人は、松本陀堂、久世弥一郎、服部三郎右衛門の三人。
 また、同年七月、下り傘問屋御鑑札、株札を取得します。
 菱垣廻船問屋は、江戸十組の荷を運んでいます、紙は大坂から、木綿・茶は白子や松坂大口湊から運ばれています。江戸には霊岸島で荷を降ろし、艀船で日本橋まで運ばれています。
 
 江戸十組薬種店、鰯屋は、勢州松坂、松本家と関係があるようです。(小西)

2020年3月30日月曜日

十組鰹節・塩干肴問屋 文政七年(1824年)

小舟町には、西堀留川に面し、鰹河岸があり問屋が多くありました。この川は現在埋め立てられ、ビルが立ち並ぶ、小津商店所有のキュロコ小津ビルは、そのなかの一棟。
川の反対側に米河岸があり、伊勢町に米問屋が多くあったが、現在は、昭和通りの一部となっている。
絵図は、俚俗江戸切絵図 喜多川周之図 有光書房の一部分です。原図は、日本橋北尾張屋版です。

「江戸買物獨案内」文政七年(1824年)の復刻本を小津史料館に展示しています。
江戸買物獨案内 十組 濱吉組 鰹節・塩干肴問屋 21軒
掲載順
1.尼屋傳次郎、麹町二丁目
2.伊勢屋次右衛門、日本橋元四日市
3.遠州屋傳兵衛、小舟町二丁目
4.遠州屋新兵衛、小舟町三丁目
5.伊勢屋伊兵衛(高津伊兵衛)、日本橋瀬戸物町、勢州四日市
6.住吉屋武兵衛、日本橋元四日市
7.村田屋伊兵衛、小舟町二丁目
8.大坂屋武兵衛、小舟町三丁目
9.伊勢屋武右衛門、日本橋通二丁目
10.鎌倉屋庄兵衛、日本橋元四日市
11.相模屋忠左衛門、日本橋四日市下町
12.虎屋彌三郎、小舟町三丁目
13.榎坂屋卯兵衛、小舟町三丁目
14.住吉屋伊兵衛、小舟町二丁目
15.大橋太郎次郎(小津清左衛門)、本町四丁目、勢州松坂
16.栖原屋平八、日本橋青物町、紀州
17.油屋勘兵衛、小舟町三丁目
18.伊勢屋善兵衛、小網町二丁目
19.丸屋喜三郎、日本橋釘店
20.丸屋治郎兵衛、日本橋室町一丁目
21.丸屋源三郎、日本橋室町一丁目

小津清左衛門の店は、15番目の大橋屋で紙・茶・鰹節の十組問屋株を持ち営業しているが、本店小津屋は、嘉永四年(1851年)三月、株仲間再興令の時には鰹節問屋株を取得していたようである。江戸店支配人から清左衛門や別家個人へ塩鮭が贈答として送られている。(小西)

2020年3月27日金曜日

十組茶問屋 文政七年(1824年)


浬俗江戸切絵図部分
茶問屋は、本町四丁目、大傳馬町一丁目、二丁目、通旅篭町と隣り合って続く町にありました。勢州の江戸店が多く。紙問屋・茶問屋の場合が多いようです。

左の絵図は、俚俗江戸切絵図 喜多川周之図 有光書房版の部分です。原図は、日本橋北 尾張屋版です。
 小津清左衛門の店は、小津茶・紙、小津木綿と書き込みがあります。

切絵図と裏面名所・史跡案内は、小津和紙で新たに制作、販売しています。A3判 価格330円(本体300円+消費税)
上記切絵図とA4判クリアファイルのセットは、価格550円(本体500円+消費税)、クリアファイルは、東都大傳馬町繁栄之図/新板大江戸持〇長者鑑

「江戸買物獨案内」文政七年(1824年)の復刻本を小津史料館に展示しています。

江戸買物獨案内 十組諸国茶問屋20軒、内兼銘茶問屋5軒 
掲載順
1.諸国茶問屋、小津屋次郎左衛門(小津)、通旅篭町、勢州松坂
2.諸国茶銘茶問屋、中野屋惣助、大傳馬町二丁目
3.諸国茶銘茶問屋、冨田屋利兵衛、通旅篭町、勢州
4.諸国茶問屋、大橋屋太郎次郎(小津清左衛門)、本町四丁目、勢州松坂
5.諸国茶問屋、茗荷屋善五郎(岡田)、大傳馬町一丁目、勢州白子
6.諸国茶問屋、長井屋利兵衛(長井)、本町四丁目、勢州松坂
7.諸国茶問屋、大和屋三郎右衛門(西村)、本石町四丁目、勢州相可
8.諸国茶問屋、長崎屋瀬兵衛(中條)、堀留町二丁目、勢州津
9.諸国茶問屋、湊屋源三郎(服部)、堀留町二丁目、勢州山添
10.諸国茶問屋、中條屋瀬兵衛(中條)、伊勢町、勢州津
11.諸国茶問屋、榛原屋藤助、元四日市町
12.諸国茶問屋、山本屋加兵衛(山本)、日本橋通二丁目、城州宇治
13.諸国茶問屋、住吉屋利三郎、南新堀一丁目、勢州
14.諸国茶問屋、白子屋仁兵衛、小舟町三丁目
15.諸国茶銘茶問屋、中屋善助、北新堀町
16.諸国茶銘茶問屋、西村屋新次郎、大傳馬町二丁目
17.諸国茶銘茶問屋、板屋與兵衛、大傳馬町二丁目、勢州
18.諸国茶問屋、中村屋三郎右衛門、大傳馬町一丁目
19.諸国茶問屋、小津屋六兵衛(小津)、堀江町一丁目、勢州松坂
20.諸国茶問屋、萬屋彦治郎、本郷四丁目

 小津の店名は、伊勢国松坂本町の小津清兵衛末友(1590~1652)が、大傳馬町二丁目に茶店を出します。奉公人甥の小津三郎右衛門道休(1612~88)は独立して木綿店を開業します。その兄小津次郎右衛門宗運(1612~80)は、紙店を開業、叔父清兵衛の茶店を譲り受けますが弟小津六兵衛宗祐(?~1693)に譲ります(19番目の店)。小津次郎左衛門宗甫(1605~49)は、清兵衛茶店の最初の支配人で別家となり、独立開業した店が1番目となっています。
 また、小津清左衛門長康(1681~1741)の妻玉(1692~1762)は、小津清兵衛道生の三女、清兵衛末友の孫で、本居宣長(1730~1801)の父小津三四右衛門定利(1695~1740)とは従兄弟になります。
 家印の鱗久(ウロコキュウ)は、紙店小津屋清左衛門、木綿店小津屋三四右衛門(小津屋三郎右衛門と合併)、茶店小津屋六兵衛の三店は、同じ家印です。

 小津清左衛門は、向店と呼ばれる大橋屋で4番目になっています。
大橋屋は、JR中野駅前で日本茶専門店として営業を続けています。(小西)
 O H A S H I http://ohashi-cha.blogspot.com/

2020年3月26日木曜日

十組繰綿問屋 文政七年(1824年)

「江戸買物獨案内」文政七年(1824年)の復刻本を小津史料館に展示公開しています。
繰綿は、綿花の種子をのぞいた繊維の部分で、精製されていない綿のことです。江戸時代は「操綿」とも書かれました。木綿問屋は、当初繰綿問屋株を持っていたようですが、繰綿相場で失敗する問屋が多く少なくなりました。呉服問屋は真綿問屋株を持っていました、真綿は絹の一種で蚕の繭からとれる綿のことです。

江戸買物獨案内 十組繰綿問屋 15軒
掲載順
1.小津屋清左衛門(小津)、大傳馬町一丁目、勢州松坂
2.伊勢屋徳三郎、本船町
3.長谷川屋次郎吉(長谷川)、大傳馬町一丁目、勢州松坂
4.伊藤屋利助(伊藤)、大傳馬町一丁目、尾州名古屋
5.白木屋彦太郎(大村)、日本橋通二丁目、京
6.綿屋鉄太郎、日本橋通二丁目
7.恵比寿屋八郎左衛門(島田)、尾張町二丁目、京
8.越後屋八郎兵衛(三井)、駿河町、京
9.大丸屋正右衛門(下村)、通旅篭町、京
10.嶋屋半兵衛、室町一丁目、江州
11.枡屋九右衛門(岩城)、麹町五丁目、京
12.伊勢屋次兵衛、四ツ谷傳馬町三丁目
13.伊勢屋又治郎、新大坂町
14.大文字屋次兵衛(西川)、日本橋通四丁目、江州
15.森田屋善吉、本船町

本店小津屋清左衛門は紙問屋なのに繰綿・真綿問屋株を持っていました、分家小津権右衛門は、小津屋権右衛門名で繰綿問屋でしたが、この時は木綿問屋伊勢屋権右衛門のみとなっています。本店は文化十三年(1816年)真綿問屋を休業、紙と繰綿を主力にします。明治になると紡績や製綿所を設立していきます。(小西)

2020年3月25日水曜日

十組紙問屋 文政七年(1824年)

江戸買物獨案内(復刻本)
「江戸買物獨案内」文政七年(1824年)の復刻本を小津史料館に展示公開しています。
国立国会図書館デジタルコレクション
江戸買物独案内 2巻付1巻. 上巻https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/8369320


十組紙問屋 46軒
掲載順
1.大和屋三郎右衛門(西村三郎右衛門)、本石町四丁目、勢州相可
2.小津屋清左衛門(小津清左衛門)、大傳馬町一丁目、勢州松坂
3.村田七右衛門(村田七右衛門)、本町四丁目、勢州白子
4.大橋屋小左衛門、通旅籠町、京都
5.青梅屋九兵衛(駒田九兵衛)、通塩町、勢州多門
6.相模屋利兵衛、新材木町
7.井筒屋清兵衛、通旅籠町
8.山本屋嘉兵衛(山本嘉兵衛)、日本橋通二丁目、城州宇治
9.相模屋清兵衛、通新石町
10.伊坂屋重右衛門、南新堀一丁目、勢州
11.多田屋新兵衛、南新堀二丁目
12.大橋屋太郎次郎(小津清左衛門)、本町四丁目、勢州松坂
13.寺本屋彦右衛門(寺本彦右衛門)、木材本町
14.伊勢屋武右衛門、日本橋通二丁目
15.紙屋彌兵衛(岡本彌兵衛)、本所松坂町一丁目、武州栗山
16.小津屋治郎右衛門(小津次郎右衛門)、通旅籠町、勢州松坂
17.小森屋治郎兵衛、本町四丁目
18.西村屋久左衛門、田所町
19.伊勢屋長兵衛、南傳馬町三丁目、勢州
20.伊勢屋八兵衛、南傳馬町三丁目
21.伊勢屋源兵衛、南傳馬町一丁目
22.大和屋喜左衛門、本郷一丁目、勢州
23.森田屋半兵衛、南新堀一丁目
24.萬屋甚兵衛、芝田町九丁目
25.湊屋源三郎(服部源三郎)、堀留町一丁目、勢州山添
26.和泉屋忠右衛門、麹町六丁目
27.伊勢屋善右衛門、横山町一丁目
28.伊勢屋作兵衛、五郎兵衛町、勢州
29.松坂屋半右衛門(柏原孫左衛門)、新両替町四丁目、京
30.萬屋小兵衛(深山小兵衛)、飯倉町二丁目
31.越前屋源兵衛、宇田川町
32.伊勢屋卯兵衛、麹町三丁目
33.小野寺屋重兵衛、本郷一丁目
34.伊勢屋儀兵衛、浅草諏訪町
35.萬屋彦次郎、本郷四丁目
36.内田屋吉兵衛、神田旅篭町一丁目
37.伊勢屋吉兵衛、神田鍋町
38.丸屋茂兵衛、本石町二丁目
39.相模屋新助、小石川仲町
40.和泉屋加右衛門、弥左衛門町
41.萬屋六兵衛、神田佐柄木町
42.榛原屋仙治郎、日本橋通一丁目、遠州
43.那須屋仁左衛門、庄助屋敷
44.桔梗屋小兵衛、十軒町
45.伊達屋彌七、大傳馬町二丁目
46.萬屋六兵衛、元飯倉町

掲載は売上順と思われ、ベスト3は、紀州和歌山藩の勢州三領の田丸(相可)、松坂、白子となり、木綿問屋同様勢州の江戸店が多くあります。小津清左衛門は、2番目本店と十二番目向店である。向店は、寛永元年(1748年)十一月、勢州白子の次兵衛から家屋鋪表口八間を譲り受け、天明四年(1784年)六月、その店子の勢州山田一の木、御師大橋又太夫から名跡を譲り受けた店(紙・茶)で奉公人ごと引き継ぎました。4番目の大橋屋は、同じ勢州山田の御師の店かもしれません。(小西)

2020年3月23日月曜日

十組木綿問屋 文政七年(1824年)


江戸買物獨案内(複製本)
「江戸買物獨案内」文政七年(1824年)の複製本を小津史料館に展示公開しています。
国立国会図書館デジタルコレクション
江戸買物独案内 2巻付1巻. 上巻
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/8369320


掲載順
十組木綿問屋 大伝馬町組 大伝馬町一丁目 21軒
1.長谷川屋源右衛門(長谷川)、勢州松坂
2.大和屋九郎左衛門(長井)、勢州松坂
3.丹波屋次郎兵衛(長谷川)、勢州松坂
4.田端屋次郎左衛門新店(田中)、勢州津
5.田端屋次郎左衛門本店(田中)、勢州津
6.大和屋三郎兵衛(長井)、勢州松坂
7.伊勢屋権右衛門(小津)、勢州松坂
8.布袋屋善右衛門(嶋田)、京
9.川喜田屋久太夫(川喜田)、勢州津
10.長谷川屋次郎吉(長谷川)、勢州松坂
11.升屋七左衛門(久須木)、江戸大伝馬町一丁目住
12.中屋喜三郎
13.伊藤屋利助(伊藤)、尾州名古屋
14.奈良屋伊右衛門(澤の井)、京
15.丸屋藤助、江戸小日向水道町住
16.綿屋宗兵衛(長井)、勢州松坂
17.川喜田屋平四郎(川喜田)、勢州津
18.大黒屋三郎助、勢州
19.戎屋六郎次(長谷川)、勢州松坂
20.亀屋武右衛門(長谷川)、勢州松坂
21.嶋屋六兵衛(岡本)、勢州松坂

十組木綿問屋 白子組 12軒
1.伊豆蔵屋吉右衛門(鈴木)、本町四丁目、京
2.大黒屋三郎兵衛(杉浦)、本石町四丁目、京
3.柏屋孫左衛門(柏原)、本町四丁目、京
4.恵比寿屋八郎左衛門(島田)、尾張町弐丁目、京
5.大黒屋吉右衛門、通油町、江州
6.枡屋九右衛門(岩城)、麹町五丁目、江州
7.嶋屋半兵衛、室町一丁目、江州
8.越後屋八郎兵衛(三井)、駿河町、京
9.白木屋彦太郎(大村)、日本橋通一丁目、京
10.大丸屋政右衛門(下村)、通旅籠町、京
11.蔦屋市郎左衛門、馬喰町四丁目
12.槌屋幸助、青物町

木綿問屋は、当初大傳馬町一丁目に店を出すことが条件で株を取得していたため、呉服店の布袋屋、伊藤屋、奈良屋が出店。しかし呉服店仲間で木綿を扱うために白子組が結成された。

掲載は、売上順と思われ、小津清左衛門の木綿店は7番目の伊勢屋権右衛門で分家に店を任していました。長谷川次郎兵衛は五店あり、1番目新店、3番目本店、10番目向店と呼ばれ、19番目分家南家、20番目分家西家の店です。(小西)

東京大学 経済学図書館・経済学部資料室 コレクション  特別資料  白木屋文書
http://www.lib.e.u-tokyo.ac.jp/?page_id=1930

2020年3月21日土曜日

小津清左衛門 江戸三店 弘化四年(1847年)

小津清左衛門長柱(1811~76)は、津の蘭方医、筒井孝伯美顕の三男で天保七年(1836年)婿養子となり、天保十一年(1840年)四月、家督を相続し清左衛門に改名。同年十月十三日に紀州和歌山藩から八十五人扶持、御蔵米三拾俵、独礼格地士を仰付られ、御為替組御用を勤めます。江戸は、本店(紙・操綿・鰹節・下り傘)、太物店(木綿)、向店(紙・茶・鰹節)の三店があり、長柱は本家店、松坂本町に居住。長柱日記、弘化三年(1846年)一月、江戸本郷丸山辺より出火、大橋店山本蔵一ヶ所、本店台所、霊岸島紙荷物蔵一ヶ所、木綿店大落焼失とあり。
弘化四年(1847年)頃 屋敷図 

復興後の弘化四年(1847年)頃の屋敷図
 緑:本店
(小津屋清左衛門)
 青:太物店
(伊勢屋清左衛門)
 茶:向店
(大橋屋太郎次郎)

「東都大傳馬街繁栄之図」歌川広重筆が描かれた天保~弘化の頃です。




屋敷図
屋敷図は、小津史料館で展示公開しています。(上記の作成図は、方向を変えています。)
 図には、大伝馬町一丁目南側、奈良屋伊右衛門(京の澤の井喜右衛門)、職人町(松坂)、長井(大和屋三郎兵衛)、田端屋本店、新店(津の田中次郎左衛門)、升屋七左衛門(家持居住、久須木七左衛門)、北側、布袋屋(京の嶋田善右衛門)、本町四丁目南側、砂糖店大坂屋由兵衛、薬種店近江屋久七、薬種店伊勢屋清左衛門(星野清左衛門)、荒物店近江屋庄助、北側、帳屋(小津清左衛門雇人家守、帳屋又兵衛)、本石町四丁目、に志免屋、大野宗甫(医者)、加印大和屋住居(紙店、茶店、本草学者、西村三郎右衛門廣休(1816~89)、勢州相可村)がわかります。

新板大江戸持〇長者鑑(クリアファイル)
「新板大江戸持〇長者鑑」弘化三年(1846年)改、正源堂板
中央の行司右側に傳馬町小津清左衛門、東前頭九枚目に本町大橋太郎次郎とあります。
 クリアファイルの裏面は「東都大傳馬町繁栄之図」で小津史料館オリジナル、小津和紙で販売しています。古地図とセットで550円(税込)

弘化五年(1848年)二月、大橋店の隣家屋敷表五間を京の田中三郎兵衛から金千三百両で譲り受けます。(小西)

2020年3月20日金曜日

大伝馬町一丁目 元文五年(1740)

大伝馬町一丁目は、宝田村居住の御伝馬役、三河国出身佐久間善八、伊勢国出身赤塚屋善右衛門、久須木七左衛門、久保寺四郎右衛門、冨屋四郎左衛門が、慶長十一年(1606年)に替地として無沽券(家持)で移住した町人が始まりで、佐久間は御伝馬役兼務で名主となり、四人は配下の伝馬役勤めですが寛永年間に木綿問屋を開業します。その後、木綿仲買問屋が開業し、明暦三年(1657年)、明暦の大火があり、その年株仲間の独占禁止令がでます。貞享三年(1687年)、木綿問屋が成立します。これは、今までの木綿問屋四軒は売場問屋へ、木綿仲買は木綿問屋七十軒となります。元禄七年(1694年)、十組問屋が結成され、文化十年(1813年)、十組問屋の再編に伴って結成された菱垣廻船積問屋仲間と呼ばれる株仲間に加入して冥加金を納めることとされ、大伝馬町組・白子組合わせて44軒で毎年1000両の冥加金を納付、天保十二年(1841年)二月の株仲間解散令の時、大伝馬町組は21軒でした。
貞享三年(1687年)二月四日付の長谷川木綿店古帳に売場問屋をのぞく問屋名簿があり、店が変わると上から紙を貼付し新店名を記載、元文五年頃までの56軒の記録です。
 一橋大学附属図書館所蔵コレクション 大伝馬町長谷川木綿店古帳
  https://www.lib.hit-.ac.jp/retrieval/collections_bunken/collections/hasegawacotton/
大傳馬町長谷川木綿店古帳から作成
木綿店古帳記載順(南側から北側)
 大和屋三郎兵衛
 中田治右衛門
 加嶋屋次郎兵衛、正保二年(1645年)開業
 田中次郎左衛門(田端屋)
 澤野甚左衛門、明暦元年(1655年)開業
 中屋久兵衛、寛文五年(1665年)開業
 大黒屋次郎三郎
 小津孫右衛門、寛文五年(1665年)開業
 岡本六兵衛(嶋屋)、明暦元年(1655年)開業
 田蔵勘三郎(田倉屋)、寛文五年(1665年)開業
 入澤新太郎(安野屋)、寛文五年(1665年)開業、寛保元年(1741年)廃業
 中屋久兵衛
 人見七右衛門(白子屋)、明暦元年(1655年)開業
 山村伊之助
 大黒屋三右衛門
 伊勢屋治郎左衛門
 岡本権平、正保二年(1645年)開業
 川喜田四郎兵衛、元禄十一年(1698)開業
 嶋本治郎右衛門(嶋屋)、元文二年(1737年)開業
 地主宗兵衛、元禄十五年(1702年)開業
 村田又右衛門
 長井九郎左衛門(大和屋)、元禄十一年(1698)開業
 小津三左衛門(嶋屋)
 濱嶋傳右衛門、元禄十二年(1699年)開業
 長嶋宗兵衛(和泉屋)、明暦元年(1655年)開業、寛保元年(1741年)廃業
 田中惣兵衛(桑名屋)、正保二年(1645年)開業
 長谷川庄兵衛(菱屋)、正保二年(1645年)開業
 岡本四郎兵衛(玉屋)、寛文十年(1670年)開業
 篠原長右衛門(宇路こ屋)、正保二年(1645年)開業
 石河庄兵衛(石川屋)、明暦元年(1655年)開業
 長井与兵衛、元禄十年(1697年)開業
 中條瀬兵衛(長崎屋)、寛文十年(1670年)開業
 長谷河市左衛門(布屋)、寛永十二年(1635年)開業
 中村喜左衛門
 長谷川武右衛門(亀屋)、享保十年(1725年)開業
 南部藤兵衛
 高岡久兵衛(一文字屋)、明暦元年(1655年)開業
 長谷河次郎兵衛(丹波屋)、延宝三年(1675年)開業
 同源右衛門(長谷川屋)、元禄十五年(1702年)開業
 山村吉右衛門
 奥井勘兵衛(大黒屋)、元禄十一年(1698)開業
 川口半左衛門、元文五年(1740年)廃業
 徳力与兵衛、寛永十五年(1638年)開業
 村田屋傳兵衛
 岸野三郎兵衛、正保二年(1645年)開業
 長井源太郎(橘屋)、寛文五年(1665年)開業
 油屋甚右衛門、元禄十五年(1702年)、絹商売から太物店に転業
 河喜田久太夫、寛永十二年(1635年)開業
 芝原三郎兵衛、延宝六年(1678年)開業
 竹内四郎兵衛(藪屋)
 地主九兵衛、延宝八年(1680年)開業
 小津小右衛門、延宝三年(1675年)開業
 地主平右衛門
 濱田勝助、明暦元年(1655年)開業
 地主平三郎
 小津三四右衛門、明暦元年(1655年)開業、元文五年(1740年)休業
 村田平左衛門、元禄十一年(1698)開業
 小津清左衛門(伊勢屋)、元禄十一年(1698)開業
 地主宗三郎、元禄十五年(1702年)開業
記載外
 久須木七左衛門(升屋)、寛永三年(1626年)開業、木綿売場問屋
 長井作十郎、元禄十五年(1702年)開業、木綿売場問屋
 小津清左衛門(小津屋)、承応二年(1653年)開業、紙問屋
 岡田治兵衛(茗荷屋)、醤油・茶問屋、木綿問屋は明暦元年(1655年)開業、元文二年(1737年)合力
 (小西)

2020年3月19日木曜日

大伝馬町一丁目 享保五年(1720年)

徳川吉宗(1684~1751)は、宝永二年(1705年)、紀州和歌山藩五代藩主、享保元年(1716年)、第八代将軍となり、伊勢の山田奉行だった大岡忠相(1677~1752)を南町奉行に任命し、享保の改革を行います。享保五年(1720年)、江戸町火消しいろは四十八組を設置、大伝馬町は「は組」、町人(家持)は、伊勢国出身の久須木家、長井家、小津家などで、又店借は伊勢商人、特に紀州和歌山藩領の勢州白子、松坂、田丸(相可)の江戸店が多くあり改革に協力し ました。

小津屋清左衛門(紙問屋)
 小津清左衛門長康(1681~1741)は、宝永七年(1710年)、父長生から家督を相続し清左衛門と改名しています。享保十四年(1729年)に松坂、大年寄役に仰せつけられています。江戸店は家持。松坂住。
小津清左衛門(伊勢屋、木綿問屋)
 小津孫太夫長英(1678~1731)は、長康の兄で元禄十四年(1701年)に分家し、父長生から木綿問屋伊勢屋を譲り受けています。江戸店は本家から店借。松坂住。
小津屋小右衛門(木綿問屋)
 小津小右衛門泰広(?~1738)は、両親は、土浦の醤油問屋小津小右衛門で土浦で没、母は清左衛門長生四女常、宝永七年(1710年)、清左衛門長生から金百両受領、享保十四年(1729年)、小津小右衛門合力願出。土浦住カ。
小津屋三四右衛門(木綿問屋)
 小津三四右衛門定治(1658~1729)、延宝五年(1677年)、伯父道休の養子となり家督を相続、江戸堀留町に煙草店、両替店を開業、元禄九年(1696年)に小津屋三郎右衛門四代目支配人だった別家小津十右衛門正圓の木綿問屋を譲り受け、元禄十年(1697年)、三郎右衛門、三四右衛門、十右衛門の三店を統合し、十右衛門店を本店としました。松坂住。
小津屋孫右衛門(木綿問屋)
 小津源四郎躬充(1697~1768)、兄孫右衛門元閑没後相続、享保二十年(1735年)小津屋孫右衛門営業不振の為合力願出。松坂住。
丹波屋次郎兵衛(木綿問屋)
 長谷川次郎兵衛政幸(1645~1740)、木綿問屋布屋市左衛門に奉公し、延宝三年(1675年)丹波屋次郎兵衛開業、元禄十五年(1702年)、木綿問屋江嶋屋茂兵衛を譲り受け、長谷川屋源右衛門を開業。松坂住。
長谷川屋源右衛門(木綿問屋)
 長谷川次郎兵衛元忠(1686~1746)、元禄十五年(1702年)、父政幸から長谷川屋源右衛門を任される。松坂住。
布屋市左衛門(木綿問屋)
 長谷川四郎兵衛道由(?~1743)、父市左衛門道専から相続。松坂住。
大和屋九郎左衛門(木綿問屋)
 長井九郎左衛門常尚(1654~1735)、元禄九年(1696年)、木綿問屋大和屋市兵衛から譲り受け、大和屋九郎左衛門を開業。松坂住。
松坂屋長兵衛(木綿問屋)
 小野田八助孝俊(1682~1721)、益田助右衛門弟宗七、妻は三井北家三井高平女すた。宝永元年(1704年)、江戸本町二丁目呉服店松坂屋八助の経営が三井家に移る。三井連家小野田家初代。京小川町住。

三百年後の現在の大傳馬町一丁目は、北側南側二十間の町は中央に分断する道ができ、地名は日本橋本町三丁目と変わっています。そして営業を続ける店は小津屋清左衛門の株式会社小津商店一軒のみとなりました。(小西、8月13日図更新)

2020年3月16日月曜日

於竹大日如来 後編

小津史料館展示棚
小津史料館は、於竹大日如来を紹介しています。
展示は、「於竹大日如来の由来」、嘉永二年(1849年)三月二十五日より六十日間、両国回向院に於いて行われた出開帳時に売られた錦絵四枚(複製)「於竹大日如来の由来」国麿筆、「於竹大日如来だい所どうぐさんけいのづ」国芳筆、「無題(狂歌 下女如来障子にうつる法のかげ)」国芳筆、「於竹大日如来由来」国芳筆、閉帳後に摺られた「於竹大日如来開帳奉納品物集」(松阪市所蔵)(複製)、桂昌院の流し板の紹介、於竹大日如来木像の紹介戊辰(1868年)の五月、小津太物店の口演、平成二十八年の新聞記事やテレビニュースなどパネルで紹介しています。
松阪市史料叢書第五集「小津清左衛門長柱日記(五)」松阪市教育委員会発行、小津清左衛門長柱(1811~76)松坂居住の日記には、嘉永二年(1849年)三月廿九日、大納言様御逝去ニ付今日ゟ普請鳴物停止ニ候事、三月廿八日大納言様御逝去ニ付慎ゆるめ振左之通(以下略)、四月二日、大納言様御逝去ニ付、一位様、菊千代様江御機嫌窺、常服ニて御城代幷月番奉行衆玄関罷出可申候事 同六日、此度江戸表於回向(院)羽州お竹大日如来尊開帳之由久臓ゟ申来、同八日、来ル廿八日夕出羽お竹大日如来尊御当着ニて殊之外賑々敷由有之候様申越、右者馬込氏又手前店由緒書有之由、佐久間家ニ付先年之節茂馬込様方ゟ被仰御熟談之上水引出来之由、拾四両程掛り御座候由八郎兵衛申居候、尤久臓方へ可然様相談之上可致様申遣ス、右之事申出候、同十一日、回向院ニて春相撲、去三十日千秋万歳相済候由、右ニ付木村庄太郎より勝負附被呉候事。
須藤由蔵(1793~?)の藤岡屋日記には、開帳三月廿五日初日之処右開帳の場所ニて勧進相撲興業有之候処小金御鹿狩、猶又雨天打続きて延引致し五日取残し候ニ付相撲小屋取払難く候ニ付開帳四月五日初日と相極メ、三月二十八日千住より江戸着也、道筋ハ千住より浅草通り、観音広小路より下谷通り、御成街道、内神田通り、今川橋、本町曲り、傳馬町通り、両国橋、回向院着也、(省略)四月五日開帳初日之処、同月四日ニ紀伊殿逝去ニ付、七日之間鳴物停止之御触出候故、同月十日御停止明ニ付、同月十一日ニ開帳相始メ申候(以下略)
 両日記から四回目の出開帳は、二回の延期の後、始められました。
羽黒山叢書第一
「羽黒叢書第一於竹大日如来 羽黒山修験本宗大本山荒沢寺正善院」は平成二十八年(2016年)九月二十五日~十月三十日に行われた居開帳時に発行。
表紙の絵は於竹大日堂に納められている於竹大日昇天図板絵額・国芳筆、奉納者は大傳馬町二丁目丁子屋平兵衛で「於竹大日如来開帳奉納品物集」にも描かれています。丁子屋平兵衛(岡田平兵衛)は書肆文渓堂で南総里見八犬伝など板元で知られています。天保十三年(1842年)十月、無許可販売で御咎めを受け所構にて小伝馬町より大伝馬町二丁目へ引越しています。 

於竹大日如来縁起(碑文) 
於竹大日如来縁起
於竹大日如来は寛永十七年(一六四〇)(十八歳の時)山形県庄内よりでて、当時の江戸大伝馬町馬込家の召使となる。 その行いは何事にも誠実親切で 一粒の米 一きれの野菜も決して粗末にせず貧困者に施した。 そのため於竹さんのいる勝手元からはいつも後光がさしていたという。 出羽の国の行者乗蓮と玄良坊が馬込家をおとづれ「於竹さんは羽黒山のおつげによると大日如来の化身である」とつげた。 主人は驚き勝手仕事をやめさせ 持仏堂を造り その後念仏三昧の道に入る。 これが江戸市中に拡がり 於竹さんを拝もうと来る人数知れずと言う。
 於竹さんの詠んだ歌に
  手と足はいそがしけれど南無阿弥陀仏 口と心のひまにまかせて
延宝八年(一六八〇)五月この世を去る 行年五十八
 五代将軍綱吉公の母堂桂昌院の歌に
  ありがたや光と共に行く末は 花のうてなに於竹大日
於竹さんが愛用し貧困者が市をなしたと言う有名な於竹井戸はこの地にあった。
  昭和四十六年(一九七一)五月吉祥
     史蹟 於竹大日如来保存会
注・碑文に「馬込家」とあるのは、佐久間家と馬込家を同一とする説によったものである。

佐久間家は三河国出身、馬込家は遠江国出身で、天正十八年(1590年)八月朔日に徳川家康の御供で江戸入りし宝田村に住居し御伝馬役を務とめ、慶長十一年(1606年)大傳馬町成立と同時に移転、佐久間家は大傳馬町一丁目の名主に馬込家は大傳馬町二丁目の名主となりそれぞれ御伝馬役を兼務しています。菩提寺は、佐久間家は心光院、馬込家は善徳寺。(小西)

2020年3月14日土曜日

於竹大日如来 前編

佐久間善八屋敷

上総国生れ 徳右衛門女(むすめ)佐久間善八屋敷で下女として働き、大日如来の化身とされました。寛永十五年(1638年)三月二十一日卒 佐久間善八は、心光院に京の仏師が彫刻した大日如来の像を安置、 桂昌院(1627~1705)は、流し板を奉納しました。
 心光院 https://shinkoin.com/
小津清左衛門長弘(1625~1710)は、寛永二十年(1643年)紙店に奉公し、承応二年(1653年)に井上仁左衛門から紙店を譲り請け小津屋を創業、延宝五年(1677年)に薬種店大坂屋八右衛門の空き店を譲り請け拡張しています。
馬込勘解由喜與(?~1715)は、寛文六年(1666年)に佐久間善八等と羽黒山正善院黄金堂境内に於竹大日堂を建立し於竹の像を安置、延宝八年(1680年)五月十九日に浅草善徳寺に石碑を建立。石碑に性岸妙智信女とあり。喜與の祖父は三河国大給藩初代藩主松平縫殿頭、妻は馬込勘解由宗円女香。後妻は佐久間善八女。
 黄金堂 文化遺産オンライン https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/143898
 善徳寺 猫の足あと https://tesshow.jp/kita/temple_akabanew_zentoku.html
馬込勘解由雅珍(?~1742)は、元文五年(1740年)春に別当蓮台寺に参り、七月朔日~閏七月晦日迄 湯島天神に於いて蓮台寺によって大日如来出開帳が行われました。このとき仏大日如来 荒沢不働明王、本尊二躰玄関へ居えていました。
馬込勘解由忠興(1733~98)の時、安永六年(1777年)七月朔日より六十日間、芝愛宕の円福寺に於いて玄良坊によって二回目の大日如来出開帳が行われました。
馬込勘解由是承(1754~1820)の時、文化十二年(1815年)七月廿一日より六十日間、浅草金龍山境内念仏堂に於いて湯殿山黄金堂玄良坊によって三回目の大日如来出開帳が行われました。
馬込勘解由惟長(1814~84)の時、嘉永二年(1849年)三月廿五日より六十日間、両国回向院に於いて湯殿山黄金堂玄良坊によって四回目の大日如来出開帳、本尊於竹大日如来木像座像、不動明王木像を脇に安置し行われました。
史蹟、於竹大日如来井戸跡
昭和四十六年(1971年)五月、於竹大日如来保存会は、小津本館ビルの一角に「史蹟、於竹大日如来井戸跡」を建立。
 小津330年史 お竹大日如来のゆかりhttps://www.ozuwashi.net/330/027.html
平成二十八年(2016年)九月二十五日~十月三十日迄 羽黒山正善院に於いて黄金堂出羽三山大権現御開帳、於竹大日堂於竹大日如来居開帳が行なわれました。
お竹さんについては、湯殿山の麓生れや没年など異説があり、小津木綿店で、関東大震災で焼失するまでは毎月十九日の命日にお竹大日如来の木像(約三尺という)を開帳し、お祀りするのが例となっていました。現在は延宝八年(1680年)五月十九日を命日とし、毎年五月十九日に大安楽寺にて法要が行われています。(小西)
 大安楽寺 猫の足あと https://tesshow.jp/chuo/temple_kodenma_daianraku.html
 国際日本文化研究センター 『於竹大日如来縁起絵巻』  
 http://www.nichibun.ac.jp/graphicversion/dbase/otake/index.html

2020年3月9日月曜日

佐久間善八屋敷(現小津本館ビル)

道中伝馬役佐久間善八は、宝田村から慶長十一年(1606年)大傳馬町一丁目成立と同時に移転し名主となり、伝馬役と名主を代々勤めます。しかし、元禄十五年(1702年)、宝永三年(1706年)に屋敷を売却し退役します。元禄十五年は、表拾間を木綿仲間四人に譲り、宝永三年は小津清左衛門一人が譲り受けています。
 木綿仲間四人は、小津清左衛門、地主宗三郎、小津三四右衛門、芝原三郎兵衛の伊勢商人です。小津三四右衛門店は、小津三郎右衛門店と手代だった別家の小津屋十右衛門の店を合併した店で、当時は本居宣長の祖父の店でした。
元禄十五年三月の木綿問屋仲間四人が購入した沽券状と屋敷図を小津史料館に展示しています。画像は、雁皮紙に描かれた屋敷図(上半分)です。沽券金三千両、家賃収入は、十二ヶ月合金弐百五拾両弐分銀拾壱匁四分で、店賃と土蔵は地代と個別に書かれています。利回り三千両割る家賃で0.93%強ですから単純計算すると12年で回収できることになります。実際は火事や修繕などで物入りが多くかかりました。(小西)

東都大傳馬街繁栄之図

東都大傳馬街繁栄之図 
 大伝馬町一丁目の長屋は、北側、南側、表口六拾間奥行二十間程で道幅も二十間程でした。北側角から表十五間は、小津清左衛門の家持で小津屋(本店)と伊勢屋(太物店)の二店がありました。現在の小津本館ビルと同じ敷地面積です。

クリアファイルと江戸古地図セット 定価: 550円(本体500円+税)
小津史料館オリジナル商品です。小津和紙店舗で販売しています。
・東都大傳馬街繁栄之図 歌川広重筆 丸久板 天保~弘化
  小津屋清左衛門と伊勢屋清左衛門が描かれています。
・新板大江戸持〇長者鑑 正源堂板 弘化三年
  行事傳馬町小津清左衛門、前頭本町大橋太郎次郎(向店)の名があります。
・俚俗江戸切絵図 喜多川周之図 有光書房版
  原図は、日本橋北尾張屋版です。小津茶・紙、小津木綿とあります。
・日本橋探訪 名所・史跡案内 2017年
  俚俗江戸切絵図を現代版にし史蹟を中心に小津和紙で制作しました。

クリアファイルA4判、「東都大傳馬街繁栄之図/新板大江戸持〇長者鑑」
江戸古地図(機械抄き和紙)A3判、「俚俗江戸切絵図/日本橋探訪 名所・史跡案内」

2020年3月7日土曜日

伊勢商人と江戸店

『伊勢商人と江戸店』大喜多甫文著 2017 価格:2,200円(本体2,000円+税)
在庫限りです。小津和紙店舗でのみ販売しています。
小津清左衛門家、村田孫兵衛家、小津三四右衛門家、長谷川家、川喜田家、冨山家、国分家、三井家、竹内家、津、松坂、射和の伊勢商人を知ることができます。
第一章 伊勢商人の江戸進出
第二章 伊勢商人活躍の要因
第三章 伊勢商人の経営理念
第四章 江戸店について
第五章 伊勢商人の盛衰
第六章 幕末・維新期の伊勢商人
第七章 松坂御為替組と松坂銀札
第八章 松坂商人の文化的活動


2020年3月6日金曜日

和紙 ー和紙ってなに?ー

『和紙 ー和紙ってなに?ー』小津和紙編纂室 編 定価: 990円(本体900円+税)
小学生から大人向け、英語対訳もあります。手漉き和紙のことがわかります。
小津和紙店舗の他、全国の書店様でもご注文・ご購入いただけます。
ネット御註文は、朝日出版下記サイトをご覧ください。https://www.asahipress.com/bookdetail_norm/9784255011608/
和紙 ー和紙ってなに?ー