小津清左衛門長堯(1806~60)、尾州名古屋巾下町、関戸鉄太郎三男寅五郎、長澄の養子となり、和歌山藩御為替組見習拝命し、光三郎と改名、文政八年(1825)、志賀(1809~54)と結婚、文政九年(1826)、五十人扶持、独礼格地士、家督を相続し清左衛門と改名する、文政十年(1827)、江戸店太物店伊勢屋権右衛門から伊勢屋清左衛門に改称、天保五年(1834)、小津清左衛門家と離縁し、関戸家別家初代松下寅五郎信近となる。
小津清左衛門長柱(1811~76)、津の医師筒井孝伯弟貫之助、長堯離縁後、長澄の養子となり、天保七年(1836)、志賀と結婚し後夫となる。志賀は、長堯との子八百を連子、また長堯の妾の子鈴松を養子にし、大坂今橋町、神田七左衛門方へ養子に出す、天保十一年(1840)、家督を相続し、清左衛門に改名し、八十五人扶持、独礼格地士を拝命、徳和村、斎藤弥助妹重との子多賀を実家筒井家に預ける。嘉永六年(1853)、甥の謙之助を入家、筒井家より多賀を引き取る、嘉永七年(1854)、妻志賀死去、安政三年(1856)、謙之助を養子にし八百と結婚、勢之助と改名、安政五年(1858)、大年寄役拝命、勢之助は御為替組見習となり、太郎次郎と改名、長谷川六郎次元経二男益吉を養子に迎え、多賀と結婚し、分家小津権右衛門家を再興する。慶応三年(1867)、大年寄役廃止、明治元年(1868)、太政官会計御用掛、会計附属商法司、明治二年(1869)、八十五人扶持食禄廃止、通商司為替方総頭取、東京通商会社総頭取、東京為替会社総頭取、明治四年(1861)、家督を譲り隠居、與次兵衛と改名。
清左衛門長柱は、長澄長女志賀が長堯と離婚後、連子で結婚し、妻死後に義子八百に婿養子を迎え清左衛門の家督をつがせている。また斉藤重との子多賀は、長谷川家より養子をもらい、分家を再興している。また、長柱日記が残されています。(小西)
松阪市、小津清左衛門長柱日記
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