2020年6月4日木曜日

小津清左衛門3、慈源、長澄

 小津慈源(1759~1843)、津八町、医師筒井孝伯長女由賀、小津清左衛門長保(1753~94)と結婚、喜賀と改名、天明元年(1781~81)長女新治、天明二年(1782~82)二女、天明五年(1785~94)三女八十、寛政四年(1792~1863)四女登美(久満)、寛政五年(1793~99)長男太郎次郎(長年)、登美以外いずれも早世。夫の死後、慈源と改名し、長男長年は二歳で家督相続、後継人になるも早世したため、女戸主となる。
 寛政十二年(1800)、北勢神戸駅、小津喜右衛門の周旋を以て亀山領大岡寺村萬福院琴平太神御遷座、当家の鎮守神となし家内安全商業繁栄の祈願をなす。
 松坂、養泉寺に筆写した正法眼蔵を奉納する。
享和元年(1801)、実家筒井家から孫三郎(兄朴庵の二男)を養子にし、新五郎と改名する。
享和三年(1803)、慈源、江戸本町四丁目沽券状に豊次郎事清左衛門と名乗る。
文化二年(1805)、操綿問屋行事役を務め、大坂の操綿問屋の申し入れには、大黒屋惣兵衛と名乗る。
文化三年(1806)、四女登美と養子新五郎と結婚させる。
文化四年(1807)、江戸店々の法規を定め、新五郎家督相続し清左衛門長澄となる。
小津清左衛門家は、この頃男子に恵まれず、跡取りに困惑する時代です。
分家小津権右衛門家は、小津三十郎家より夫婦で養子に迎えたり、森嶋家は、別家(元江戸店支配人)を養子に迎えています。
 小津清左衛門長澄(1785~1863)、津藩医師筒井朴庵二男孫三郎、享和元年(1801)、伯母慈源の養子となり、新五郎と改名する。
文化三年(1806)、清左衛門長保四女登美(久満)と結婚し、文化四年(1807)、家督相続し清左衛門に改名する。五十人扶持を仰せつかる。
茶道を妻久満と共に裏千家十代認得斉に師事する。また十一代玄々斎にも学ぶ。本居春庭(1763~1828)に和歌を学ぶ。
文化十年(1813)、十組下り傘問屋株取得、文化十三年(1816)、十組真綿問屋株休業。文政三年(1820)、長男熊之助(1812~20)早世。文政四年(1821)、服部芳太郎女登志(1804~46)を養女に迎え、殿村佐五平嫡子佐市方へ嫁ぐ。文政五年(1822)、本居春庭長男源之助(1804~52)を養子に迎え、御為替組見習を拝命するが、同年不縁する。不縁後、小津久足(1804~58)の後見で本居宣長の家名を継ぎ本居有郷(本居宣長の孫)となる。
文政六年(1823)、和歌山藩銀札役所御用拝命、熨斗目肩衣着用御免、独礼格地士拝命。
文政九年(1826)、養子長堯(1806~60)に家督を譲り、隠居し與次兵衛と改名する。
天保五年(1834)、長堯家内不和合にて不縁とし、和歌山藩御用を再勤する。
母の実家筒井家より、貫之助(長柱)(1811~76)を養子に迎え、天保七年(1836)、長女鹿(志賀)(1809~54)の後夫になり、天保十一年(1840)、家督を譲る。
 長澄も跡取りに困惑している。長男が早世したため、長女鹿(志賀)に婿取を計画するが、最初の夫候補、本居春庭長男熊之助とは相性が悪かったのか不縁し、名古屋の関戸家から長堯を夫に迎えるが家内不和合で不縁、筒井家から長柱を後夫に迎えるが、志賀との間には子はなく、長堯との子二女八百と結婚させ跡取りにしている。(小西)
清左衛門家と本居家の関係 

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