2020年7月23日木曜日

小津新兵衛歴代

初代
小津新兵衛保教(寛文十二年生~享保十八年五月十九日、享年六十二歳)
父は須賀村の中西喜右衛門浄慶、二男理樹。妻は松坂の中里善三郎女とめ。
正徳六年、小津屋清左衛門支配人退役、仕分金五百両と小津の屋号をもらい別家として松坂中町に住む。
江戸北新堀の干鰯問屋湯浅屋与右衛門に出資、共同経営者の谷輪与左衛門離脱後に共同経営者となる。店を北新堀から小網町に移す。

湯浅屋は紀州湯浅村出身の岩崎茂右衛門と弟嘉右衛門、同村出身の谷輪与左衛門が、共同経営で始めた干鰯問屋で当初は相州浦賀で経営していた。宝永五六年頃に北新堀で経営。

二代
小津新兵衛当教(享保四年生~天明五年八月十九日、享年六十七歳)
父は中西喜右衛門、二男長之助。妻は保教長女ぎん、後妻は保教三女るい。
宝暦五年、小津清左衛門所持の深川黒江町・材木町店借。
宝暦十年、江戸大火のため小網町店、深川干鰯売場焼失。
宝暦十一年頃、松坂中町から百足町に転居、借家住まいとなる。
宝暦十二年頃、江戸店小網町に戻し再興する。
天明四年、家督を長男に譲り、隠居し道機と改名する。

三代
小津新兵衛理香(宝暦八年生~文化五年九月十九日、享年五十一歳)
父は当教、母はるい、長男新蔵。妻は船江村、森三郎右衛門女りせ。後妻はなほ。
天明四年、家督を相続し、新兵衛と改名する。
寛政二年、坂内川氾濫の土手の普請を行い、松坂で「土手新」と呼ばれるようになる。

紀州藩七人扶持。

四代
小津新右衛門友能(明和三年生~文政十二年十一月二十九日、享年六十三歳)
父は飯野郡下村、杉山喜蔵、二男徳次郎。妻は西町、山村次郎兵衛壺仙三女ひな。後妻は松坂、坂田佐七女せゐ。
十歳で湯浅屋に勤め、太助と改名する。
文化五年、理香死去後、家督を相続し、与右衛門と改名する。徒好。
文化十一年、理香長男に家督を譲り、隠居し、新右衛門と改名する。

五代
小津新兵衛理修(享和元年生~文政五年八月二日、享年二十三歳)
父は理香、母はりせ。長男亀蔵。妻は度会郡川崎、堀田権三郎三女うの。
文化十一年、家督を相続し、新兵衛と改名する。
眼疾を煩う。

六代
小津与右衛門久足(文化元年八月十二日生~安政五年十一月十三日、享年五十五歳)
父は友能、母はひな。三男安吉。
本居春庭に師事し国学・和歌を学ぶ
文政五年、理修死去後、家督を相続し、与右衛門と改名する。
文政十一年、春庭死去後、小津清左衛門家から離縁された春庭の長男有郷を後見人となり本居家を相続させる。
天保八年、家督を譲り隠居し、桂窓と改名する。

七代
小津新兵衛克孝(文化七年生~慶応三年十月二十一日、享年五十八歳)
父は津片瀬、川井甚四郎、男忠三郎。妻は理修長女ゐの。
天保八年、ゐのと結婚し家督を相続、新兵衛と改名する。
安政五年、御為替組に加入する

小津与右衛門
父は克孝、母はゐの。長男。妻はきん。

八代
小津与右衛門静光(?~明治三十七年三月十三日)
父は度会郡山田、志毛井発蔵。妻は克孝死去後、再婚のきん。

小津新兵衛は、小津屋清左衛門の支配人を務めたあと別家となるが、清左衛門家から江戸店を支援している。分家に新七家があるが、湯浅屋の支配人家系を跡取りにした場合与右衛門と名乗っている。山村次郎兵衛壺仙は、森壺仙のことで「宝暦咄し」「いせ参御蔭之日記」の著者である。「いせ参御蔭之日記」には小津清左衛門本家店でおにぎりとお茶の施行をしていたことが書かれている。その血筋をひく久足は「西荘(セイソウ)文庫」を残し「みちのく日記」など紀行文も数多くある。(小西)

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