2020年3月16日月曜日

於竹大日如来 後編

小津史料館展示棚
小津史料館は、於竹大日如来を紹介しています。
展示は、「於竹大日如来の由来」、嘉永二年(1849年)三月二十五日より六十日間、両国回向院に於いて行われた出開帳時に売られた錦絵四枚(複製)「於竹大日如来の由来」国麿筆、「於竹大日如来だい所どうぐさんけいのづ」国芳筆、「無題(狂歌 下女如来障子にうつる法のかげ)」国芳筆、「於竹大日如来由来」国芳筆、閉帳後に摺られた「於竹大日如来開帳奉納品物集」(松阪市所蔵)(複製)、桂昌院の流し板の紹介、於竹大日如来木像の紹介戊辰(1868年)の五月、小津太物店の口演、平成二十八年の新聞記事やテレビニュースなどパネルで紹介しています。
松阪市史料叢書第五集「小津清左衛門長柱日記(五)」松阪市教育委員会発行、小津清左衛門長柱(1811~76)松坂居住の日記には、嘉永二年(1849年)三月廿九日、大納言様御逝去ニ付今日ゟ普請鳴物停止ニ候事、三月廿八日大納言様御逝去ニ付慎ゆるめ振左之通(以下略)、四月二日、大納言様御逝去ニ付、一位様、菊千代様江御機嫌窺、常服ニて御城代幷月番奉行衆玄関罷出可申候事 同六日、此度江戸表於回向(院)羽州お竹大日如来尊開帳之由久臓ゟ申来、同八日、来ル廿八日夕出羽お竹大日如来尊御当着ニて殊之外賑々敷由有之候様申越、右者馬込氏又手前店由緒書有之由、佐久間家ニ付先年之節茂馬込様方ゟ被仰御熟談之上水引出来之由、拾四両程掛り御座候由八郎兵衛申居候、尤久臓方へ可然様相談之上可致様申遣ス、右之事申出候、同十一日、回向院ニて春相撲、去三十日千秋万歳相済候由、右ニ付木村庄太郎より勝負附被呉候事。
須藤由蔵(1793~?)の藤岡屋日記には、開帳三月廿五日初日之処右開帳の場所ニて勧進相撲興業有之候処小金御鹿狩、猶又雨天打続きて延引致し五日取残し候ニ付相撲小屋取払難く候ニ付開帳四月五日初日と相極メ、三月二十八日千住より江戸着也、道筋ハ千住より浅草通り、観音広小路より下谷通り、御成街道、内神田通り、今川橋、本町曲り、傳馬町通り、両国橋、回向院着也、(省略)四月五日開帳初日之処、同月四日ニ紀伊殿逝去ニ付、七日之間鳴物停止之御触出候故、同月十日御停止明ニ付、同月十一日ニ開帳相始メ申候(以下略)
 両日記から四回目の出開帳は、二回の延期の後、始められました。
羽黒山叢書第一
「羽黒叢書第一於竹大日如来 羽黒山修験本宗大本山荒沢寺正善院」は平成二十八年(2016年)九月二十五日~十月三十日に行われた居開帳時に発行。
表紙の絵は於竹大日堂に納められている於竹大日昇天図板絵額・国芳筆、奉納者は大傳馬町二丁目丁子屋平兵衛で「於竹大日如来開帳奉納品物集」にも描かれています。丁子屋平兵衛(岡田平兵衛)は書肆文渓堂で南総里見八犬伝など板元で知られています。天保十三年(1842年)十月、無許可販売で御咎めを受け所構にて小伝馬町より大伝馬町二丁目へ引越しています。 

於竹大日如来縁起(碑文) 
於竹大日如来縁起
於竹大日如来は寛永十七年(一六四〇)(十八歳の時)山形県庄内よりでて、当時の江戸大伝馬町馬込家の召使となる。 その行いは何事にも誠実親切で 一粒の米 一きれの野菜も決して粗末にせず貧困者に施した。 そのため於竹さんのいる勝手元からはいつも後光がさしていたという。 出羽の国の行者乗蓮と玄良坊が馬込家をおとづれ「於竹さんは羽黒山のおつげによると大日如来の化身である」とつげた。 主人は驚き勝手仕事をやめさせ 持仏堂を造り その後念仏三昧の道に入る。 これが江戸市中に拡がり 於竹さんを拝もうと来る人数知れずと言う。
 於竹さんの詠んだ歌に
  手と足はいそがしけれど南無阿弥陀仏 口と心のひまにまかせて
延宝八年(一六八〇)五月この世を去る 行年五十八
 五代将軍綱吉公の母堂桂昌院の歌に
  ありがたや光と共に行く末は 花のうてなに於竹大日
於竹さんが愛用し貧困者が市をなしたと言う有名な於竹井戸はこの地にあった。
  昭和四十六年(一九七一)五月吉祥
     史蹟 於竹大日如来保存会
注・碑文に「馬込家」とあるのは、佐久間家と馬込家を同一とする説によったものである。

佐久間家は三河国出身、馬込家は遠江国出身で、天正十八年(1590年)八月朔日に徳川家康の御供で江戸入りし宝田村に住居し御伝馬役を務とめ、慶長十一年(1606年)大傳馬町成立と同時に移転、佐久間家は大傳馬町一丁目の名主に馬込家は大傳馬町二丁目の名主となりそれぞれ御伝馬役を兼務しています。菩提寺は、佐久間家は心光院、馬込家は善徳寺。(小西)

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