2020年4月1日水曜日

廻船問屋 角屋(松本)七郎次郎と松本陀堂

菱垣廻船問屋は、大坂で寛永元年(1624年)、泉屋平右衛門がはじめ、寛永四年(1627年)、毛馬屋、富田屋、大津屋、顕屋、塩屋が開業しています。
 江戸では、御伝馬役馬込の配下だった、寛永二年(1625年)赤塚屋、寛永三年(1626年)升屋、寛永七年(1630年)久保寺ら伊勢国出身者が木綿問屋を開業しています。
 勢州松坂では、角屋七郎次郎忠栄(松本)(1574~1644)が、廻船問屋を開業します。長男忠祐(1608~91)は、松坂湊町に住み廻船問屋を継ぎます。
 二男栄吉、角屋七郎兵衛栄吉(1610~72)、朱印船貿易を行いますが、寛永十年(1633年)鎖国令のため安南国会安(ベトナムホイアン)に永住します。安南の「柳条布(りゅうじょうふ)」が輸入できなくなり、その柄をまねた松坂木綿が、後に松坂嶋と呼ばれ江戸で流行します。
 三男栄信、角屋九郎兵衛栄信、堺に移り、廻船問屋、鰯屋を開業します。
 本家角屋七郎次郎忠祐(1608~91)は、子供がなく養子有久は本家を継ぎ、 養子久林は別家松本六郎次郎久林、初代となり松坂中町に居住し木綿・茶・薬種を扱い江戸店も開業します。
 二代目松本六郎次郎賓秋(松本陀堂)(1673~1751)は、久林の二男で跡を継ぎますが、外科医、本草学者で、徳川吉宗(1684~1751)の改革、享保二年(1717年)、幕府は日本中の本草学者を江戸に集めて医薬の興隆をはかっており、大陸原産の高麗人参不足の解決が問題となっていました。松本陀堂は、享保五年(1720年)に和気で和人参を発見し「熊野直根」と名付けます。長男大慎も外科医となったため、松坂町奉行同心久世定右衛門兼由長男友八が養子となり跡を継ぎます。
 三代目松本陀堂守善(?~1804)、兼由長男友八、江戸店を閉店し、松坂で薬種業を営む
 四代目松本陀堂敬信、兼由三男義一、小津清左衛門から借用。
 久世定右衛門鉄次郎、兼由二男弥一郎
 
 小津清左衛門長澄(1785~1863)は、津藩典医筒井朴庵順一二男で、享和元年(1801年)、伯母慈源の養子となり、文化四年(1807年)十月、家督を相続し清左衛門と改名します。和歌を本居春庭(1763~1828)に学び、茶道を、裏千家認得斉(1770~1826)、玄々斎(1810~77)に学んでいます。
 長澄は、文化十年(1813年)六月、「一札之事」松本陀堂に金三十両を貸しています。差出人は、松本陀堂、久世弥一郎、服部三郎右衛門の三人。
 また、同年七月、下り傘問屋御鑑札、株札を取得します。
 菱垣廻船問屋は、江戸十組の荷を運んでいます、紙は大坂から、木綿・茶は白子や松坂大口湊から運ばれています。江戸には霊岸島で荷を降ろし、艀船で日本橋まで運ばれています。
 
 江戸十組薬種店、鰯屋は、勢州松坂、松本家と関係があるようです。(小西)

0 件のコメント:

コメントを投稿