2025年1月22日水曜日

出羽三山 出羽三山神社

出羽三山は真言宗であったが、江戸時代の初期、羽黒山の宥誉別当が徳川将軍家の庇護を受けるために、将軍家に保護されていた比叡山延暦寺にあやかり、羽黒山・月山は天台宗に改宗した。その際宥誉は天海上人の弟子となり、師の名を一字もらい天宥と改名した。天台宗への改宗に湯殿山は反発し、湯殿山派のみ真言宗となった。以降、三山にそれぞれ別当寺が建てられ、それぞれが以下のように、仏教の寺院と一体のものとなった。

羽黒山出羽神社 - 伊氐波神の本地仏を正観世音菩薩とし、一山を寂光寺と称して天台宗の寺院(輪王寺の末寺)であった。羽黒山全山は、江戸期には山の至る所に寺院や宿坊が存在した。羽黒山に羽黒山五重塔が、鳥居前に手向宿坊街が残っているのはその名残である。月山神社 - 本地仏を阿弥陀如来とし、岩根沢(現・西川町)に天台宗日月寺という別当寺が建てられた。湯殿山神社 - 本地仏を大日如来とし、別当寺として本道寺(現・口之宮湯殿山神社)、大日坊、注連寺、大日寺(現大日寺跡湯殿山神社)という真言宗の4寺が建立され、うち本道寺が正別当とされた。

出羽三山は、山形県村山地方・庄内地方に広がる月山・羽黒山・湯殿山の総称である。修験道を中心とした山岳信仰の場として現在も多くの修験者、参拝者を集めている。出羽三山は、近代以降に使われるようになった用語である。かつては「羽州三山」、「奥三山」、「羽黒三山(天台宗系)」、「湯殿三山(真言宗系)」と呼ばれていた。三山それぞれの山頂に神社があり、これらを総称して出羽三山神社という。(出羽三山 - Wikipedia)

長谷川木綿古帳差引帳 「覚 一羽黒山玄良坊、庚甲坊右両人ゟ昨年中被願出聞済ニ相成居候奉納金之内未寅年分金拾両奉納可致之処当丑年分と差繰奉納致呉候様被願出候ニ付一統相談之上聞済、則寅年分金十両此度奉納致候、尤当丑年分金五両未寅年等奉納致可候事 左ニ 一金拾両也 未寅年分出方余時町金ゟ右之通奉納致遣候、則請取書壱通取置申候、以上 行事 川喜田久太夫、伊藤利助 天保十二丑年三月」

天保十二年(1841)三月、大傳馬町太物仲間の記録で、羽黒山の玄良坊、庚甲坊の願出に、行事当番、川喜田久太夫、伊藤利助の両店が対応し、町金(太物仲間金)から奉納金を出金。

山上の宝物殿に玄良坊筆「於竹大日如来堂修復 寄附者姓名録」(嘉永二年(1849)季歳次己酉孟夏穀旦於竹大日如来別当玄良防弘道謹記)に馬込勘解由、小津清左衛門と連名で金襽水引壱張を寄進している。赤地金襽水引壱張 地紋蜀紅形 大伝馬町壱丁目馬込勘解由 同所小津清左衛門 但しこの水引は現存して居ない。(齋藤岩蔵著「お竹大日如来」)

赤地金襽水引壱張は、回向院でおこなれた於竹大日如来出開帳のときで、小津清左衛門長柱日記に、水引代金十四両程の費用が記録されている。      

小津家文書11-29 「預申金子之事 ㊞ 一金三百両也 右者左衛門尉勝手向就用借用被申候処実正ニ御座候、返済之儀者月壱割之利足相加、当十二月限庄内為登金を以元利無相違可致返済候、為後日証文仍如件 酒井左衛門尉内勘定組頭 佐藤仲助㊞ 勘定組頭 木部謙蔵㊞ 郡代 疋田弘右衛門㊞ 慶応四辰年二月 小津清左衛門殿 前書之通相違無之候、以上 家老 松平権十郎㊞」

庄内藩新徴組は、江戸市中取締の御見廻り役にあった。江戸薩摩藩邸の焼討事件は、慶應三年(1867)十二月二十三日に薩摩藩が 春日神社前にある庄内藩の屯所として使われていた寄席の「吹貫」に鉄砲が撃ち込まれ、その亭主と使用人のニ名が死亡した。その為、翌日二十四日、将軍の留守を守る淀藩主の老中稲葉正邦が、庄内藩江戸藩邸の留守居役松平親懐(権十郎)に「薩摩藩邸に賊徒の引渡しを求めた上で、従わなければ討ち入って召し捕らえよ」との命を下す。翌々日二十五日に江戸の三田にある薩摩藩の江戸藩邸が江戸市中取締の庄内藩新徴組らによって襲撃され、放火により焼失した(江戸薩摩藩邸の焼討事件 - Wikipedia)。 事件の二カ月後、慶応四年(1868)二月、出羽庄内藩に貸した金三百両である。五月には、徳川慶喜の警護などを目的とした彰義隊に金六拾両を差出している。(小津家文書29-771「請取申一札之事」)    (小津史料館 小西良明)

出羽三山神社 http://www.dewasanzan.jp/

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