善徳寺は、獅子吼山専稱院と号します。善徳寺は、十蓮社楽誉聡林上人が開山となり、享徳ニ年(1453)江戸城西坪根沢に起立、その後平河町、大船町、馬喰町への移転を経て、明暦三年(1657)浅草新寺町(松が谷1-13)へ移転したといいます。関東大震災後の大正十四年九月二十二日、当地へ移転しています。「御入国翌年平川口へ移り、又三年を過大船町へ移り、慶長十三年馬喰町追廻へ移り、明暦三年七月朔日浅草へ引移り申候。」(猫の足あと)。
本堂には、本尊阿弥陀如来の前にしゃもじ型の於竹如来像が安置されている。脇に於竹大日如来立木像、於竹大日如来の軸があり、良い雇人が授る様にと云う参詣がある。
「於竹大日女如来畧縁起(おたけだいにちによらいりやくゑんぎ) 柳下亭種員敬誌」絵師・玉蘭斎貞秀、本文・柳下亭種員、版元・藤岡屋廣次郎で、大判三枚、嘉永二年(1849)の於竹大日如来出開帳により制作。松・竹・梅を現している。
玉蘭斎貞秀は、歌川貞秀(うたがわ さだひで、文化四年(1807)- 明治十二年(1879)?)。江戸時代後期から明治時代にかけての浮世絵師。横浜絵や、鳥瞰図、合巻の挿絵を描いたことで知られる。本名は橋本兼次郎。名は兼。始めは五雲亭、後に玉蘭、玉蘭斎、玉蘭主人、一玉斎、玉翁などと号す(歌川貞秀 - Wikipedia)。
柳下亭種員(りゅうかてい たねかず、 文化四年(1807年) - 安政五年八月二十一日 (1858年))とは 戯作者。 江戸 の生まれ。 板倉氏。 通称は坂本屋金七。 麓園とも号した。 酒屋 、 本屋 、 小物屋 などの職を転々とした後、 柳亭種彦 の門人となって長編の 合巻 を執筆している(柳下亭種員 - Wikipedia)。
藤岡屋慶次郎(ふじおかや けいじろう、生没年不詳)は江戸時代から明治時代にかけての東京の地本問屋。松栄堂、松林堂、藤慶と号す。水野氏。天保期には下谷池之端仲町で、嘉永期には通油町南側中程源七店地借、同町武右衛門地借にいた(藤岡屋慶次郎 - Wikipedia)。
小津家文書11-51-7 「永代売渡シ申家屋鋪之事 一大傳馬町壱丁目北側西角ゟ弐軒目、表京間拾間裏行町並地尻横幅京間拾間五尺壱寸之我等家屋敷、代金三千両ニ永代売渡シ、名主五人組家屋鋪売主立合、右之金子慥ニ請取申所実正也、此家屋敷ニ付 御公儀様ゟ御構無御座候、其上借金之方へ書入不申候、横合ゟハ不及申、子々孫々ニ至迄違乱申者無御座候、此家屋敷ニ付、何様之出入御座候共此加判之我々罷出、貴殿家屋敷ニ紛無之由、急度埒明ヶ可申候、為後日名主五人組加判致永代売券状仍如件 家屋鋪売主善八 五人組又兵衛 同伊兵衛 名主勘解由 元禄十七年申三月廿九日 小津清左衛門殿 地主惣三郎殿 小津三四右衛門殿 芝原三郎兵衛殿」
元禄十七年(1704)三月二十九日、大伝馬町壱丁目の御傳馬役兼帯名主佐久間善八退役により、家屋敷を譲渡する沽券状である。譲り受けたのは、店子の四人、松坂の小津清左衛門長生、伊勢相可の地主惣三郎、松坂の小津三四右衛門定治、津の芝原三郎兵衛である。名主勘解由は、佐久間善八跡を引き継ぐ馬込勘解由雅珍で、佐久間と同様御傳馬役兼帯名主で大伝馬町ニ丁目や四ツ谷伝馬町などの名主である。善徳寺は佐久間家・馬込家の菩提寺で、また佐久間家の奉公人お竹さんの墓がある。
大伝馬町一丁目一番、二番に所有地(明治六年地租改正沽券図から見る小津清左衛門東京所有地)を持つ。 (小津史料館 小西良明)
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