護国山 崇恩寺は、山田宮後西河原町から山田越坂寺町に移転、巡見寺四十一ヶ寺の一つ。
元文四年(1739)、小津清左衛門長康は、山田神官 久志本式部より同所越坂 護国崇恩寺を買求めて修理を加え移築、羽州の僧 梅圓を住職にさだめ、昌山玄久居士(創業者小津清左衛門長弘)を開基とし、玄久居士御信仰の三尊の菩薩を本尊となし長康の三人の娘 法円大姉(長女、享年三十二歳)、妙壽大姉(二女、享年十九歳)、妙勢大姉(三女、享年二十歳)の菩提を回向す、曹洞宗 龍松山 養泉寺末寺とする。
宝暦十二年(1762)十一月、小津清左衛門長保は、不許葷酒入山石碑を建立する。碑文「大檀松坂小津長保喜捨浄財建此碑仰祈家門榮盛姐室吉祥宝暦十二年歳次壬冬十一月護国山崇恩寺山田識」。
明治二年(1869)、小津清左衛門長柱は、龍松山 養泉寺本堂隣に移し、塔頭「崇恩寺」とする。
初代・原舟月作『蟠龍図』大伝馬町、諫鼓鶏山車の「太鼓面」2点が本堂の格天井に貼り付けられている。諫鼓鶏山車は、神田明神に保管されている。
昭和二十年(1945)、高田村寺 長松寺は焼夷弾で全焼、昭和二十一年(1946)、養泉寺住職の懇願により小津清左衛門長謹は、養泉寺内崇恩寺を移し、高田村寺 長松寺として再興した。
昭和五十年(1975)、養泉寺内にあった不許葷酒入山石碑は、長松寺の入り口に移転する。
神田明神の諫鼓鶏山車は、神田祭・神幸祭は一番目である。本居豊頴(とよかい)は、本居宣長の養子本居大平の孫であり、平野神社、神田神社の宮司を務めた後、東宮侍講、御歌所寄人になっている。(本居豊穎 - Wikipedia)
本居豊頴が宮司の時に諫鼓鶏山車の太鼓面を拝受したか。また豊頴は、明治二十五年(1892)十一月、神田神社由緒略記を編集。 (小津史料館 小西良明)
神田神社々務所 神田神社由緒略記(国立国会図書館)
松阪市観光協会 長松寺
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