心光院は、浄土宗増上寺別院である。別院とは増上寺の隠居寺という意味である。明徳四年(1393)、江戸の「貝塚」(現在の千代田区麹町付近)の地に酉誉聖聰上人が増上寺を開山し、山内に学寮として庵を結んだことからと伝わります。慶長三年(1598)、増上寺は徳川家の菩提寺に定められ、現在地である芝への移転に心光院も随行しました。元禄八年(1695)、徳川二代将軍秀忠公(台徳院殿)菩提のため、増上寺の別院・念仏道場となりました。院内には秀忠公寵愛の白馬を供養した布引観音堂がありました。また江戸庶民にも知られた「お竹大日如来」の流し板が当院に奉納されており、お竹の奇特に感銘をうけた桂昌院(五代将軍綱吉公生母)より、袋と箱が寄進されました。(参照、心光院HP)
「或る時、芝の増上寺の隠居御坊、たまたまたくはつして、佐久間氏が厨外に来り、鉢を乞ふ、その時、走り流しの隅に掛けたりし布袋より、光明を放せしとぞ、上人奇異の思ひを成し、此流しを佐久間氏に乞ひ請、持帰りて、心光院の表門の天井板とす、其後度々変換有りて、今は其古板一枚、心光院の宝物となれり、お竹の像(於竹如来像)も此寺に安置す」(神林尚子著「お竹大日」伝承の生成)
「本堂の中央阿弥陀様の左側のところにお竹如来の木像が安置され、その右に有名な「流し板」が桂昌院が奉納された金襽の冨久佐に包まれ、三つ葵の徳川家の定紋を打った蒔絵の箱に納められてあった。箱は震災で焼けてその後複製したものの由である。お武さんの錦絵も四枚飾ってあった。又 鏑木清方氏が昭和十八年(1943)の文展に出品された「阿竹大日如来」の当時の絵ハガキも飾ってあった。」「又老師(住職)のお話では、良い雇人が授る様にと参詣に見えられる方もあると善徳寺さんと同様のお話をして居られました。」(齋藤岩蔵著「お竹大日如来」昭和四十年(1965))
桂昌院は、寛永四年(1627)生、宝永二年(1705)六月二十二日卒です、於竹さんは、寛永十五年(1638)三月二十一日卒、於竹さんは生前から施しで知られていますから、寛文六年(1666)の正善院に「お竹大日堂」を江戸町人たちが建立した後に「流し板」の金襽の冨久佐、蒔絵の箱が奉納されたのではないでしょうか。
「昭和三十五年(1960)頃、「於竹大日堂」は、俳優・大坂四郎氏の母が、秋田から子連れで上京し、立派に子を育て上げた礼として祠堂を寄進したもの」(神林尚子著「お竹大日」伝承の生成)
(小津史料館 小西良明)
浄土宗 心光院 https://shinkoin.com/
大本山 増上寺 https://www.zojoji.or.jp/
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