祐天寺は、浄土宗の寺院である。享保三年(1718)の春ごろから増上寺三十六世住持の祐天の体調が悪化したため、弟子の祐海は祐天が常念仏を行える廟所を探す。しかし同年七月十五5日に祐天が亡くなる。祐天が廟所を目黒の地に建立することを望んでいたこともあり、祐海は同じ目黒にある善久院を金百両で購入し、住職となる。損傷の激しい善久院に祐天の廟所と常念仏堂を建立再興した。享保八年(1723)一月十三日、祐天寺の寺号が正式に許可される。祐天を開山とし、祐海は第二世となる。(祐天寺 - Wikipedia)
祐天寺 論文には、伊勢国松坂を中心とした祐天信仰『佛教文化学会紀要』(令和4年12月)があります。
白子組海難碑 「文政二年十一月 勢州白子広寿丸芳蔵船乗組中国所名前(十四名) 南無阿弥陀仏 天下和順 日月清明 祐天寺祐東(花押) 夫れ仏の大非は偏へに苦者にあり常没の衆生を愍念し玉ふこと水に溺るゝ人を急ぎ救玉ふごとくなりとこゝに広寿丸といへる船文政二卯年十一月四日勢州白子を乗いでしに遠江灘てふ所にて同月十八日俄に難風吹起り翌十九日になりぬれども猶はげしくすさまじさなどいふべくもあらねば乗合十四人のもの行衛も知れずなりにきまさに姿婆苦海沈没のありさまかなしむべし是により施主の人々いたく哀み石をきざみ当寺に建て永く菩提を弔ひ深く阿みだ仏の悲願を仰ぐ豈弘誓の船救わざらんや 我今瞻比福廻生安楽土と云爾願以此功徳 平等施一切 同発菩提心 往生安楽国 文政四辛巳天 七月造立之」
文政四年(1821)七月、白子組太物問屋仲間海難供養碑を建立。文政二年(1819)十一月に勢州白子湊の広寿丸芳蔵船乗組中の十四名の海難事故の供養碑で三回忌に建立されました。白子組は、伊豆蔵屋吉右衛門、大黒屋三郎兵衛、柏原孫左衛門、恵比寿屋八郎左衛門、大黒屋吉右衛門、枡屋九右衛門、嶋屋半兵衛、越後屋八郎兵衛、白木屋彦太郎、大丸屋正右衛門、蔦屋市郎左衛門、槌屋幸助の十二軒、呉服店を本店とする太物仲間です。大伝馬町組は、両国の回向院で供養碑を建立しています。
百萬遍講中永代石碑 「南無阿弥陀佛 祐天(花押) 明顕山祐天寺九䇛西誉祐東(花押) 江戸金吹町 発願主鍵屋善助 文政四辛巳歳正月十五日造 日本元禄中、我開山大僧正祐天尊者徳行高輝 以光明名号専摂化十万、一時師在三縁山 憲廟曰、師也所書阿彌陀宝号験有七難遄銷之利、未知果然邪、師欽白、実爾経有之、佛告彌勒、其有得聞彼佛名号、乃至一念此人為得大利、是彌陀弘願之力人間信受之功水月感応之徳、豈敢貧道之術乎、今江戸金吹街有鍵屋善助者、性履信修善、嘗奉事師之手筆名号猶謁真影也、或病悩困厄事或臨終錯乱者自利利它、皆修百萬念佛会至誠悃禱寫、則獲安楽如影響矣、善助覩此霊異信仰愈益進、則為報恩摸此名号刻于巨石、以謀不朽同得善利者随喜助費此碑速成建之師之塔前、亦復不可思議無上功徳也乎哉 文政辛巳春三月十五日、現住沙門祐東識之」碑文には、小津清左衛門、大橋太郎次郎ほか七百名の銘がある。
文政四年(1821)正月十五日の建立、当主 小津清左衛門長澄、本店(小津清左衛門)支配人 林兵衛、向店(大橋太郎次郎)支配人 松兵衛の時である。太物店は、文政二年(1819)十一月に小津権右衛門から伊勢屋権右衛門に屋号を変更しており、分家小津権右衛門祐助からは寄進していない。(小津史料館 小西良明)
明顕山 祐天寺 http://www.yutenji.or.jp/
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