湯島天満宮(ゆしまてんまんぐう)は、菅原道真を含む二柱の祭神を祀る神社。通称は湯島天神(ゆしまてんじん)、旧称は湯島神社(ゆしまじんじゃ)。江戸時代には幕府の崇敬・庇護を受け、江戸・東京における天神信仰の中心となった。学問の神様として知られる菅原道真を祀っているため受験シーズンには多数の受験生が合格祈願に訪れ、普段からも学問成就や修学旅行の学生らで非常な賑わいを見せている。明治維新に伴う神仏分離までは、東叡山寛永寺が湯島天満宮の別当であり、別当寺として実務を担ったのは天満宮に近い喜見院であった(湯島天満宮 - Wikipedia)。
元文五年(1740) 七月朔日~閏七月晦日迄、湯島天神に於いて湯殿山の別当蓮台寺によっておたけ大日如来出開帳
「奥州出羽湯殿山之おたけ守り本尊大日如来之別当蓮台寺、当春中弐三度被参、御先祖佐久間おたけ大日如来此度開帳御願罷出候、御先祖被召仕候者之儀ニ御座候間、先爰許江御届申候由ニ付、則逢候而成程御尤之事御勝手次第御願可被成由挨拶致遣、依之寺社御奉行様江御願相済候由被申来、元文五年申五月中旬奥州江蓮台寺被帰、同六月廿一日開帳仏大日如来荒沢不働明王守り候而、先達而爰元役所迄御入申度旨蓮台寺願ニ付任其意当日開帳本尊二躰玄関江居え湯殿講中・蓮台寺幷羽黒山山伏方立寄挨拶之上、開帳場湯島天神江御出、七月朔日より閏七月晦日迄開帳有之候」(「江戸大伝馬町名主馬込家文書 旧記」馬込勘解由著)
小津家文書3-99 「家守請状之事 一湯島切通町西側表田舎間拾六間四尺五寸裏幅弐拾五間南裏行拾弐間北裏行拾七間三尺、貴殿御地面此甚兵衛与申者生国ゟ能存慥成者ニ付、我等請人ニ罷立為御請金壱ヶ年金子六両宛ニ相定、家守為致申所実正(㊞)ニ御座候 一御公儀様御法度之儀者不及申、町法堅為相守可申候、御触等等之儀者店子末々迄も可申聞候、火之用心之儀者自身切ニ見廻リ可申候、町内寄合等之儀者無遅々罷出可申、店子寺請状取置可申候 一右御地面家守為致候内 御公儀様御請負之儀者不及申若五人組之内ニ而御公儀様御請負等之加判等仕候儀御座候ハヽ、貴殿江相断可申候 一宗旨之儀者代々真言宗ニ而下谷上野町一乗院旦那紛無御座候 一店賃之儀者毎月晦日限急度取立相渡可申候、右店賃引負等仕歟買掛等出入出来仕候ハヽ、我等引請相済可申候博奕諸勝負等之儀者当人者不及申、店子末迄厳敷為申聞為申間敷候、右甚兵衛儀ニ付何様六ヶ敷出入出来仕候共我等引請、貴殿江少しも御苦労相掛申間敷、為後日家守請状仍而如件 下谷町弐丁目市十郎店家守請人 兵七㊞ 家守 甚兵衛㊞ 文政九戌九月廿六日 於久満殿後見小津清左衛門殿」
文政九年(1826)九月廿六日、湯島切通町の家守の契約書で伊勢屋甚兵衛と婿養子小津清左衛門長堯、後見久満は、長堯の義母、小津与治兵衛の妻である。小津与治兵衛は、小津清左衛門長澄の隠居名である。
湯島切通町、湯島天神町一丁目の所有地(明治六年地租改正沽券図から見る小津清左衛門東京所有地) (小津史料館 小西良明)
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