真言宗智山派 大本山 高尾山 薬王院 有喜寺は、開山本尊を薬師如来、中興本尊を飯縄権現(いづなごんげん)とする。山岳信仰を基とする飯縄権現を守護神として奉ったことから、飯縄信仰の霊山であるとともに修験道の道場である。(高尾山薬王院 - Wikipedia)
年中諸用控 「一青銅弐百文ヅヽ 高尾山薬王院 正五九 尤も御札御持参之節遣し可事」 正月、五月、九月に奉納。 (小津史料館 小西良明)
高尾山 薬王院 https://takaosan.or.jp/
真言宗智山派 大本山 高尾山 薬王院 有喜寺は、開山本尊を薬師如来、中興本尊を飯縄権現(いづなごんげん)とする。山岳信仰を基とする飯縄権現を守護神として奉ったことから、飯縄信仰の霊山であるとともに修験道の道場である。(高尾山薬王院 - Wikipedia)
年中諸用控 「一青銅弐百文ヅヽ 高尾山薬王院 正五九 尤も御札御持参之節遣し可事」 正月、五月、九月に奉納。 (小津史料館 小西良明)
高尾山 薬王院 https://takaosan.or.jp/
慶長十九年(1614)、天海によって巌殿寺として再興が行われ、光明寺が学頭、満行院が別当となって天台宗となり、寛永寺の支配下に組み込まれた。近世は山内に五ヶ院(中之坊、実相院、金剛院、満福院、円乗院)の寺院が置かれ、大坊・般若坊ら御師が活動して榛名講の普及に参道の各坊の御師が大きな役割を果たした。江戸の商人たちで構成された「江戸太々神楽講中」は鞍掛岩に祀られていた鞍掛不動尊の石像を再建した(榛名神社 - Wikipedia)。
年中諸用控「一鳥目弐百銅 改四百銅 春名山 小山金壱両入 八月御札御持参之節可遣事 追々諸具高直ニ付元治元ゟ右弐百銅増四百銅差上候事」元治元年から奉納金を倍の四百銅に増額。八月に榛名山の御師が御札を持参した時に渡した。
小津家文書5-191 (包紙)「証文壱通 新井藤兵衛」
小津家文書4-153 「借用申金子証文之事 一金百(㊞)両也 但文字金也 右者金子前書願之通御舟前取扱御聞済被下、無拠分為貸付与御借用申処実正(㊞)也、尤御返納之儀者荷物相送リ、来七月迄ニ不残荷払仕積リ仕切為相登候而、来戌ノ十月中指引勘定仕急度御返納可仕候、若万一指引之砌相滞候ハヽ家屋舗書入候上者少茂無相違可仕候、猶亦此度格別以思召ヲ御厚借仕候間、右加判之者引受少茂御損茂相掛ヶ申間敷候 一御取扱之船前古残金為御奉公与追々取立御上納可仕候間、右証文幷古通帳御預リ置申候、為後日之加判借用証文依而如件 野洲烏山 借用人新井藤兵衛㊞ 親類同萬吉㊞ 常州高部村堀口吉三郎㊞ 文政八乙酉十二月 江戸大傳馬町小津清左衛門殿 御取扱久兵衛殿」
小津家文書4-151 「乍恐以書付奉願上候 一此度御店様御仕法被仰出候趣、烏山御取扱之(虫損)不残相休候趣委細承知仕候、右ニ付奉願上候 一貴殿御取扱之舟前之内年来無拠分□□、右之者只今相休候而者何れニも残金多分御座候間、私引請ニ仕末々残金取立御店様江御奉公与存、追々取引ヲ以取立御上納仕候、依而是ニ船前為金与金百両也御預ヶ被下候ハヽ難有仕合ニ奉存候、猶亦前金之義只今迄□半減ニ貸付、残金少茂無之様取扱、御店様江少茂 御損茂相掛申間敷候、尤荷物只今迄通リ川岸出し仕才料出立、其後江戸表入津之上註文書御覧之上荷高順し紙代金御渡可被下候様奉願上候 一右御舟前金御預置申候上者、急度慥成請人相立加判可仕候、猶亦古残金之義、右礼御奉公ニ相成丈出情仕追々取立御上納可仕候、且私義何卒御店様奉公人与思召、此末何事ニ不寄被仰付次第一言も相背申間敷候間、行末御取立之程偏ニ奉願上候、右ニ付家内諸掛リ之義只今ヨリ格別ニ少略仕御奉公可仕候、右之趣御聞済被仰付被下候ハヽ家内一統末々申合取続千万難有仕合ニ奉存候、御聞済之程偏ニ奉願上候、仍而如件 願人新井藤兵衛㊞ 文政八(1825)十二月 小津御店衆中様 御取扱久兵衛様」栃木烏山紙代金を前金にしてほしい新井藤兵衛の小津本店支配人久兵衛宛の願書である。
小津家文書1-27-1 (封筒)「浅井柳二郎、山本惣兵衛、萬屋惣兵衛証書在中」「割済借用金証」明治二十四年十月五日、上州舘林町 浅井柳次郎が東京大傳馬町壱丁目 小津清左衛門宛無利子借入金を五ヶ年、明治二十九年十二月三十日迄返済の借用金証文。封筒の山本惣兵衛は高崎田町の近江屋山本宗兵衛、(不明)萬屋惣兵衛と一緒に入れていた。
小津家文書1-27-2 (印紙壱銭貼付㊞)「預金証 一金弐百四拾三円五拾八銭三厘也 但通用金也 右之金員正ニ受(㊞)取御預申所実正也 御返金之義者本年七月三十日限此証引換御渡可申候、為後日預金証仍テ如件 高崎 山本宗兵衛㊞ 明治十二年四月十四日 小津清左衛門殿 萬兵衛殿」明治十二年(1879)四月十四日、小津清左衛門本店綿方の萬兵衛が高崎田町の近江屋山本宗兵衛に貸した預金証。
小津家文書1-27-3 (印紙壱銭貼付㊞)「借用証 一金弐百円也 但シ無利足 右者今般綿代金正ニ借(㊞)用申所実正也、此返済方本年第十二月三十一日限金百円也、跡残テ金百円也明治十三年第七月三十一日限無相違皆済可仕候、為後日借用証依如件 高崎田町近江屋宗兵衛㊞ 明治十二年第十月十八日 小津清左衛門殿 萬兵衛殿」明治十二年(1879)十月十八日、同上とおなじく綿代金の借用証、小津清左衛門紙店は創業時から繰綿問屋を行っていたようで、木綿店でも繰綿を扱っていた。
(小津史料館 小西良明)
妙義神社には、別当(神社を管理する寺)として上野寛永寺の末寺である白雲山高顕院石塔寺があった。現在の妙義神社の総門は、明治の初めに廃寺となった石塔寺の仁王門である。神社の総門となった現在も、左右に仁王像が祀られている(妙義神社 - Wikipedia)。
年中諸用控 「一鳥目弐百銅 妙儀山 年頭御札御持参候節遣ス 荒木清□」
万内所之帳 「戌正月十七日 一金子百五拾両 手代伊兵衛預ヶ置 但シ上州下仁田と申所へ商ニ使申候事右之金ニ毎年金子拾五両ツヽ上せ申筈也 右之金子百四拾両ニして手形有、仕合次第ニ急度相済シ申筈ニ而候」
元禄七年(1694)正月十七日、江戸本店手代伊兵衛が下仁田に紙か繰綿の買付け金百五十両である。 (小津史料館 小西良明)
妙義神社 http://myougi.or.jp/
天台宗 東叡山 寛永寺の子院青龍院は、正保元年(1644)に創建。亮盛は延暦寺行学坊住職で、瀧山寺学頭となり、寛永寺青龍院を兼務した。瀧山寺東照宮別当か。昭和二十年(1945)に寛永寺に合併。(日本歴史地名大系)(SHINDEN)
小津家文書29-771 「請取申一札之事 一金六拾両也 今般其方共御国恩相辨上納願候ニ付願之通書面之金子請取申候、以上 上野青龍院屯所砲兵方㊞ 辰五月 田端屋次郎右衛門代定兵衛殿 小津屋清左衛門代仁兵衛殿」
慶応四年(1868)辰五月、差出人は、津藩御用達の田中次郎左衛門の大伝馬町壱丁目田端屋次郎右衛門太物店支配人定兵衛と紀州御用達の小津清左衛門同町紙店支配人仁兵衛である。定兵衛は、文久二年(1862)十二月、木綿問屋田端屋次郎左衛門支配人、仁兵衛は、慶応二年(1866)十月に紙・繰綿・糸問屋小津屋清左衛門支配人となっている(諸問屋名前帳)。受取人は上野の東叡山に集まった天野八郎率いる彰義隊の砲兵隊である。五月十五日に大村益次郎率いる新政府軍の攻撃を受けほぼ全滅した。戦闘の際生じた火災で、寛永寺は根本中堂など主要な伽藍を焼失、壊滅的な打撃を受けた。明治三年(1870)、医学校と病院予定地として上野の山を視察した蘭医アントニウス・ボードウィンが、公園として残すよう日本政府に働きかけ、明治六年(1873)に日本初の公園に指定された。
小津家文書18-242 「□□□ 出品願書㊞ ㊞一本館東京府第二千五百五十三号箱 一同半切大判類 壱箱 産地駿河国原価之義相場高抵□候間出品之節書出可申候、産地右本年内国勧業博覧会へ前書之通出品仕度奉願候也 東京 第一大区 拾四小区 大傳馬町壱丁目壱番地 小津清左衛門出店主 出品人土屋彦平㊞ 拾年二月廿四日 東京府知事 楠本正隆殿 ㊞ ㊞第壱万四千百廿七号 書面自費出品之儀ハ合号付箋之通差許候事 明治十年四月十九日 東京府知事楠本正隆㊞」
小津家文書29-755 「昨十年内国勧業博覧会江原価金三円五拾銭之出品仕候処、開場通券料各出品人江原価ニ応ジ分賦被成下候趣□□者後年会場出品資本云々御除達次第も御座候所、此上御手数相掛候而も奉恐入候間御下ヶ被成下度、然ル上者右御分與金区内公立学校学費ニ献金仕度奉存候、此段御聞届被下度候也 第一大区 十四小区 大傳馬町壱丁目壱番地 小津清左衛門出店主 土屋彦平 明治十一年二月 右区 戸長 吉川尹哲殿」
明治十年(1877)八月二十一日~十一月三十日、第一回内国勧業博覧会は、政府内務省により上野公園で開催され、小津は、出品した原価に応じ開場通券料を政府から支給された金額を明治十一年(1878)二月、公立学校学費に献金するため東京府戸長の吉川尹哲宛た願出で、差出人は本店支配人の土屋彦平である。
小津家文書29-720 「㊞ ㊞ 第六万九千九百弐号 第三回内国勧業博覧会売残品処分ニ付本会開設ノ主旨御賛成金壱円義捐相成正ニ領収候也 明治廿四年二月七日 勧業義済会㊞ 賛成員 大市彦蔵殿 追申本会方法書第四条第拾七条ノ処分方ハ追テ報告致スヘシ此証書に本会の印章あるも取扱人の印章及ひ月日なきものは無効とす 府 区 町 番地 県 郡 村義捐金取扱人 福廣新八殿㊞㊞」同様に「第六万九千九百三号 釜田栄蔵殿」「第六万九千九百四号 土屋彦平殿」「第六万九千九百五号 田中国吉殿」
明治二十三年(1890)四月一日~七月三十一日、第三回内国勧業博覧会は、政府内務省により上野公園で開催され、明治二十四年(1891)二月七日、出品した売残品処分金から御賛成金壱円を差出した、勧業義済会 義捐金取扱人 福廣新八の領収証である。四人は本店支配人及び元支配人である。 (小津史料館 小西良明)
SHINDEN 寛永寺関連旧跡
東叡山 寛永寺の子院護国院は寛永寺の子院で、寛永元年(1624)釈迦堂の別当寺として、現在の東京国立博物館の右手奥に開創、承応二年(1653)・延宝八年(1680)に寺地を西方へ移転し、さらに宝永六年(1709)当地へ移転したといいます。三代将軍家光から贈られたと伝えられる大黒天画像は谷中七福神の一つとなっています。(猫の足あと)
年中諸用控 「一鳥目百銅ツヽ 上野護国院 正五九向店ゟ参り」正月、五月、九月に、大橋屋太郎次郎(向店)が奉納している。 (小津史料館 小西良明)
猫の足あと 護国院
天台宗 東叡山 寛永寺 https://kaneiji.jp/
天台宗 東叡山 寛永寺の子院一乗院は、寛永十七年(1640)に創建。本堂の左にあったが元禄に移転。(東叡山寛永寺子院記)(SHINDEN)慶応四年(1868)の彰義隊の戦(上野戦争)では、焼失せず残ったようであるが其の後廃寺。
新義真言宗 薬王山 一乗院は、愛宕眞福寺の末寺として下谷上野町に寛永五年(1628)に起立。其の後廃寺。(関東温泉紀行 / 関東御朱印紀行)
年中諸用控 「一小玉山口ヅヽ 一乗院 正七 両度但し旦那様御名前ニ而包 正月年頭之節持参可致事 七月廿五日持参可致事」「一同 イロヅヽ 同院 正七 両度 但し支配人名前也」「一銀七匁五分 同院 正月不動講 尤小一ゟ集ムル 護摩料」「一金百匹 同院 十二月遣ス也 祈祷料」小玉山口、イロは符帳。正七は正月、七月。小一は屋号。
年中諸用控の一乗院は、宗派、地名の記載もないためどちらか不明です。湯島切通町の家守伊勢屋甚兵衛は真言宗下谷上野町一乗院の旦那です(小津家文書3-99「家守請状之事」)。(小津史料館 小西良明)
SHINDEN 寛永寺関連旧跡
東叡山 輪王寺は、東叡山寛永寺の本坊で、後水尾天皇第三皇子の守澄法親王が正保四年(1648)寛永寺座主三世となり、承応三年(1654)には日光山門主となって東叡山に住し、比叡、日光、東叡の三山を管領、明暦元年(1655)に後水尾上皇から輪王寺の称号を賜わり、東叡山住職を輪王寺宮と称することになったといいます。幕末の戊辰の役で諸堂焼失、明治二年(1869)輪王寺の称号が廃止されたものの、明治十六年(1883)復活し、門跡の公称が許可されています。両大師堂には、寛永寺を創建した慈眼大師(天海大僧正)と、慈恵大師(良源大僧正・元三大師・元旦三日に入寂)の両大師が祀られています。(猫の足あと)
年中諸用控 「一金百匹ヅヽ 上野大師様 護摩毎月三日」
下谷茅町二丁目には、家守和泉屋宇左衛門に任せた所有地(明治六年地租改正沽券図から見る小津清左衛門東京所有地)を持つ。 (小津史料館 小西良明)
天台宗 東叡山 寛永寺 開山堂 両大師
湯島天満宮(ゆしまてんまんぐう)は、菅原道真を含む二柱の祭神を祀る神社。通称は湯島天神(ゆしまてんじん)、旧称は湯島神社(ゆしまじんじゃ)。江戸時代には幕府の崇敬・庇護を受け、江戸・東京における天神信仰の中心となった。学問の神様として知られる菅原道真を祀っているため受験シーズンには多数の受験生が合格祈願に訪れ、普段からも学問成就や修学旅行の学生らで非常な賑わいを見せている。明治維新に伴う神仏分離までは、東叡山寛永寺が湯島天満宮の別当であり、別当寺として実務を担ったのは天満宮に近い喜見院であった(湯島天満宮 - Wikipedia)。
元文五年(1740) 七月朔日~閏七月晦日迄、湯島天神に於いて湯殿山の別当蓮台寺によっておたけ大日如来出開帳
「奥州出羽湯殿山之おたけ守り本尊大日如来之別当蓮台寺、当春中弐三度被参、御先祖佐久間おたけ大日如来此度開帳御願罷出候、御先祖被召仕候者之儀ニ御座候間、先爰許江御届申候由ニ付、則逢候而成程御尤之事御勝手次第御願可被成由挨拶致遣、依之寺社御奉行様江御願相済候由被申来、元文五年申五月中旬奥州江蓮台寺被帰、同六月廿一日開帳仏大日如来荒沢不働明王守り候而、先達而爰元役所迄御入申度旨蓮台寺願ニ付任其意当日開帳本尊二躰玄関江居え湯殿講中・蓮台寺幷羽黒山山伏方立寄挨拶之上、開帳場湯島天神江御出、七月朔日より閏七月晦日迄開帳有之候」(「江戸大伝馬町名主馬込家文書 旧記」馬込勘解由著)
小津家文書3-99 「家守請状之事 一湯島切通町西側表田舎間拾六間四尺五寸裏幅弐拾五間南裏行拾弐間北裏行拾七間三尺、貴殿御地面此甚兵衛与申者生国ゟ能存慥成者ニ付、我等請人ニ罷立為御請金壱ヶ年金子六両宛ニ相定、家守為致申所実正(㊞)ニ御座候 一御公儀様御法度之儀者不及申、町法堅為相守可申候、御触等等之儀者店子末々迄も可申聞候、火之用心之儀者自身切ニ見廻リ可申候、町内寄合等之儀者無遅々罷出可申、店子寺請状取置可申候 一右御地面家守為致候内 御公儀様御請負之儀者不及申若五人組之内ニ而御公儀様御請負等之加判等仕候儀御座候ハヽ、貴殿江相断可申候 一宗旨之儀者代々真言宗ニ而下谷上野町一乗院旦那紛無御座候 一店賃之儀者毎月晦日限急度取立相渡可申候、右店賃引負等仕歟買掛等出入出来仕候ハヽ、我等引請相済可申候博奕諸勝負等之儀者当人者不及申、店子末迄厳敷為申聞為申間敷候、右甚兵衛儀ニ付何様六ヶ敷出入出来仕候共我等引請、貴殿江少しも御苦労相掛申間敷、為後日家守請状仍而如件 下谷町弐丁目市十郎店家守請人 兵七㊞ 家守 甚兵衛㊞ 文政九戌九月廿六日 於久満殿後見小津清左衛門殿」
文政九年(1826)九月廿六日、湯島切通町の家守の契約書で伊勢屋甚兵衛と婿養子小津清左衛門長堯、後見久満は、長堯の義母、小津与治兵衛の妻である。小津与治兵衛は、小津清左衛門長澄の隠居名である。
湯島切通町、湯島天神町一丁目の所有地(明治六年地租改正沽券図から見る小津清左衛門東京所有地) (小津史料館 小西良明)
伊勢神宮(いせじんぐう)は、正式名称は「神宮」(じんぐう)である。他の神宮と区別するために、「伊勢」の地名を冠し伊勢神宮と通称される。「伊勢の神宮」、または親しみを込めて「お伊勢さん」「大神宮さん」とも称される。古来、最高の特別格の宮とされ、現在は神社本庁の本宗(ほんそう。全ての神社の上に立つ神社)であり、「日本国民の総氏神」とされる(伊勢神宮 - Wikipedia)。
年中諸用控(画像左端) 「一金百匹ヅヽ 伊勢大神宮様 正五九 未年ゟ□合年極月十九日出追而□□ゟ御□勢州へ為替□之候□差扣事 〆右四口小遣帳」 江戸本店は、正月、五月、九月、金百疋づつ。江戸店の奉公人は松坂に登ると神宮へ参詣する(長柱日記)。
万内所之帳 「伊勢大神宮 伍大力菩薩 万内所之帳 小津□□□」「天和三年みつのとの亥ノ卯月十六日ニ出口信濃殿ニて太々神楽上ヶ申候覚 一黄金三拾五両 神楽代 一黄金壱枚 但シ七両弐分 御師殿へ礼 一小判壱両 御内方へ遣 一銀子弐枚 惣内之衆へ 一銀弐十匁 手代市兵衛へ 一銀弐匁 内宮浅間へノあんないニとらせ 一金弐両 神楽ノまきせんにハ十貫文 一金子四両三分ト四匁六分 是ハかこちん山田へ上下と内宮へのかこ、あさまへのかこ万小使也 右合テ五拾壱両三分ト壱貫百七十九文 右太々之入目也 人数上下四拾人之余 かこのり物かきハのけて 外ニ黒川善太夫へ金子壱両遣 初尾 同 銭や徳兵衛 金子壱分遣 同断 右惣合伍拾三両ト壱貫百七十九文」(三重県史 小津家文書)
天和三年(1683)癸亥四月十六日、出口信濃殿により行われた太々神楽の費用である。このときは、寛文六年(1666)に江戸から松坂に帰郷した創業者小津清左衛門長弘である。
小津清左衛門長弘は、後継者に弟長兵衛とするが、万治三年(1660)に江戸店で奉公中に病死、そのあと弟七郎右衛門を養子に江戸店で奉公するが、延宝二年(1674)病気の為伊勢山田の療養先で死去。その次に弟小津孫太夫長生の長男亀太郎を養子とするが、天和二年(1682)三月に八歳で早世、四人目に小津三十郎家の家督を継いでいた弟小津孫大夫に、貞享元年(1684)、家督を譲る、孫大夫は小津清左衛門長生と改名、このとき小津三十郎家を離縁したため、孫太夫が開業した太物店小津小右衛門は、小津清左衛門長生の店となり、森嶋家に任している。
明治三十六年(1903)十月、小津清左衛門長幸、参宮鉄道取締役に就任、明治三十六年十一月退任、明治三十九年(1906)、参宮鉄道取締役に就任、明治四十年(1907)十月、鉄道国有法により国有化のため参宮鉄道廃止(私設鉄道経営者・技術者一覧今城光英論文)。
(小津史料館 小西良明)
太々講(だいだいこう) 伊勢参宮のために結成した信仰集団。旅費を積み立てておいて、籤(くじ)に当たった者が代参する。諸々の神社に神楽を奉納する講中。(太太講-コトバンク)
「お伊勢講」という仕組みである。「講」の所属者は定期的に集まってお金を出し合い、それらを合計して代表者の旅費とする。誰が代表者になるかは「くじ引き」で決められる仕組みだが、当たった者は次回からくじを引く権利が失われたり、数回に一度は講員全員が参詣する「総参り」が行われるなど、「講」の所属者全員がいつかは参詣できるように各講ごとに配慮されていたようである。くじ引きの結果、選ばれた者は「講」の代表者として伊勢へ旅立つことになる。旅の時期は、農閑期が利用される。なお、「講」の代表者は道中の安全のために二、三人程度の組で行くのが通常であった(お蔭参り - Wikipedia)。
年中諸用控 「一金百疋 太々講 ヤマ小 正月集 小遣帳 一金百疋 右同断 吉印 十月集 右同断 一金百疋 右同断 小一 右同断 右同断 一金弐百疋 右同断 辰申仲間貸ニ成 弐月十六日 一店勘定之砌目録箱壱箱為差登候砌為祝義金五拾疋差遣候勢要之節万両□□、此方ゟ差遣候右金五拾ト八円半銭ニて幷水引掛ル」ヤマ小、吉印、小一は屋号の事。
森壷仙(1743-1828)が、『いせ参御蔭之日記』の著書に小津清左衛門の本家店がむすび茶施行を行った記事がある。日記は、明和8年(1771)3月~文化12年(1815)まで。
文化12年(1815)5月4日に「本町小津清左衛門殿ヨリ大橋之上ニ寝候衆へ、むすび茶施行」とある。 これは五日も行われ、7日から21日まで連日むすび施行が続けられている。 そしてふたたび29日に復活、6月1日、2日、3日、4日と行われている。
大橋は、参宮街道に松坂大橋と呼ばれる坂内川にかかる橋で渡って左側二軒目に小津清左衛門の本家店があり、紀州藩松坂勝手方より正米問屋を弘化4年(1847)まで拝命し、江戸店に十組諸国茶問屋大橋屋もあり、むすび茶施行を行ったようです。小津清左衛門長澄(1785-1857)は、紀州藩地士、五十人扶持で、為替方(御為替組)、銀札方(銀札所、藩札発行)、大年寄(町会所)など御用を勤め、また妻とともに裏千家十代認得斎(1770-1826)に師事し、石斎と号し、本居春庭(1763-1828)に和歌を学んでいます。
蔀関月(1747-1797)画、寛政9年(1797)に刊行された『伊勢参宮名所図会』「松坂大橋 西荘の橋といへるハ是也、水上ハ同郡下仁柿村神名原神路山より出て、石津村北を東へ経て猟師平尾村の東を北へ流れて海に入る」橋の右側は、西荘(松坂西町)、左側は松坂本町、左に抜けていくと伊勢神宮。
森壷仙は、小津清左衛門の江戸本店(小津屋清左衛門)の支配人を勤めた小津新兵衛保教の孫ひでの夫で、山村次郎兵衛家当主である。また森壷仙の孫は、西荘文庫で知られる蔵書家、紀行家の小津新兵衛家当主小津久足、江戸店は干鰯問屋湯浅屋与右衛門。
(小津史料館 小西良明)
参考
大神宮叢書. 第4 神宮司庁 編『いせ参御蔭之日記』 国会図書館 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1239779/254
伊勢参宮名所図会 5巻 p28 国会図書館 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2555627
御師(おし、おんし)とは、特定の社寺に所属して、その社寺へ参詣する者や信者の為に祈祷、案内をし、参拝・宿泊などの世話をする神職のことである。特に伊勢神宮のものは「おんし」と読んだ。御師は街道沿いに集住し、御師町を形成する(御師 - Wikipedia)。
近世に入ると御師の数は最盛期には内外宮の御師合わせて800軒を超える数となり、檀家数は安永六年(1777)の『外宮師職壇方家数改帳』によると、当時の総戸数の89%に当たる約420万戸もの数を数えるに至っており、ほぼ全戸に伊勢御師との師檀関係が及んだ(お蔭参り - Wikipedia)。
年中諸用控 「一金百疋 伊勢 出口信濃 御初穂 外ニ御使江三百疋」(貼紙)「伊勢御師名代 中川喜太郎㊞ 神田柳原岩井町 旅宿 利根川屋才兵衛」「一鳥目弐百銅 遠州山名郡飯田 山本長太夫 一白米壱升 一はんし壱束 一扇子箱壱ツ 〆正月二十日」(貼紙)「明治十年前以来廃止布告ヲ被仰出□際太夫ゟ歎願申出候ニ付□助□遣シ致候処明治十三年観世大夫江入門許可ニ相成□観ない御店ニ御祝被下度趣申出店々相談之上決□□□□□申出候とも一切取合間敷候事 十三年一月十三日」出口信濃は、出口 延佳(でぐち のぶよし、元和元年4月28日(1615年) - 元禄3年1月16日(1690年))伊勢神宮神職、国学者である。山本長太夫は、伊勢大神楽の山本長太夫一座。
小津家文書11-51-2 「売渡申証文之事 一我等致所持候間口四間半ニ奥行三間半之居宅建家壱ヶ所、弐間半ニ三間之台所右弐ヶ所、三間ニ四間半三間壱尺ニ七間之土蔵弐ヶ所、蔵前庇付幷我等仕来候商売之名題、株式其外諸帳面、諸道具、建具、畳等不残今度代金四千㊞百五拾四両ニ相極メ貴殿江売渡、則右之金子唯今不残慥請㊞取申所実正也、然ル上者右建家土蔵名題商売躰株式貴殿江売渡候儀ニ付諸親類ハ不及申外ゟ異乱申者決而無之、我等所持之内外江書入等仕金子致借用候儀無御座候、勿論其外金子借用等一切無之候、若横合ゟ我等所持之内金子出入等又者何様之掛リ合等申来候共、加判之我々引請急度埒明貴殿江少茂御損御苦労相掛申間鋪、為後日親類手代加判之証文、仍如件 勢州山田一ノ木住居売主 大橋又太夫㊞ 同 西川原親類 久志本縫殿㊞ 江戸店預リ手代 七兵衛㊞ 同手代差次 善兵衛㊞ 勢州一志郡小船江村元手代後見 利兵衛㊞ 同国安藝郡三行村元手代後見 久兵衛㊞ 同国山田浦口町後見 武兵衛㊞ 天明四歳甲辰六月 三好太郎次郎殿 前書文言之通相改申所相違無之候ニ付加判仍如件 家主 利兵衛㊞」
小津家文書11-51-2「証文之事 一我等店之儀数年貴殿御店御世話を以商売致罷在候処近年不手廻りニ而元手金等差繰出来不申候処別而此節借用金等多商売躰難取続候ニ付此度我等住居罷在候建家、土蔵、畳、建具共幷商売躰之名題株敷き売渡申度候得共急ニ相届候者茂無御座儀候間、貴殿方江御買請被下候様御頼申入候得共御承引無之候、然共金子調達不致候而者甚難渋仕候ニ付再応達而御無心申候所御得心被下忝存候、依之則別紙本証文之通前書之品々不残貴殿江売渡右代金不残慥請取申所実正ニ御座候、然ル上者右建家、土蔵、畳、建具類者不申及横合ゟ違乱申者無之勿論外江書入等致金子借用仕候儀無御座候、尤御当地其外在々江売掛金之儀右帳面之通少茂相違㊞無之候間貴殿江御取立可被成候、若売渡之品々幷売掛金等帳面通相違之儀茂有之候歟、又者外ゟ異儀申者御座候ハヽ加判之者共引請急度埒明貴殿江少も御損毛相掛申間敷候、其上ニ茂及違背候ハヽ此証文幷本証文ヲ以何様ニ茂御掛り可被成候、其節一言之儀申間鋪候、為後日親類手代加判添証文入置申所仍如件 勢州山田一ノ木住居売主 大橋又太夫㊞ 同国西川原親類 久志本縫殿㊞ 江戸店預リ手代 七兵衛㊞ 同手代差次 善兵衛㊞ 勢州一志郡小船江村元手代後見 利兵衛㊞ 同国安藝郡三行村元手代後見 久兵衛㊞ 同国山田浦口町後見 武兵衛㊞ 天明四年甲辰六月 三好太郎次郎殿 前書文言之通相改申所相違無之候ニ付加判仍如件 家主 利兵衛㊞」
天明四年(1784)六月、伊勢神宮の御師大橋又太夫の江戸店本町四丁目紙・茶店を名義三好太郎次郎で小津清左衛門長澄が譲り受けた証文である。三好は祖先の姓で、太郎次郎は創業者長弘の幼少名である。店をそのまま引継ぎ、店名を大橋屋太郎次郎(向店)にしての開業である。なお、土地は、寛延元年(1748)十一月廿日、勢州白子町の廻船問屋白子次兵衛(小津家文書11-51-4「永代売渡申家屋敷之事」)から譲受、大橋又太夫とは賃貸契約であった。
本町四丁目廿一番、廿二番、廿三番に所有地(明治六年地租改正沽券図から見る小津清左衛門東京所有地)を持つ。 (小津史料館 小西良明)
合資会社大橋(オオハシ O H A S H I) https://ohashi-cha.blogspot.com/
都内最古の寺で、聖観世音菩薩を本尊とすることから、浅草観音として知られている。三代将軍徳川家光の援助により、慶安元年(1648)に五重塔、同二年(1649)に本堂が再建された。このように徳川将軍家に重んじられた浅草寺は観音霊場として多くの参詣者を集めた。貞享ニ年には、表参道に「仲見世」の前身である商店が設けられた。これは、寺が近隣住民に境内の清掃を役務として課す見返りに開業を許可したものである。江戸時代中期になると、境内西側奥の通称「奥山」と呼ばれる区域では大道芸などが行われるようになり、境内は庶民の娯楽の場となった。天保十三年(1842)から翌年にかけて、江戸三座の芝居小屋が浅草聖天町(猿若町、現・台東区浅草六丁目)に移転し、そうした傾向はさらに強まった。浅草寺は、元は天台宗に属していたが、昭和二十五年(1950)に独立して聖観音宗の本山となった。(浅草寺 - Wikipedia)。
年中諸用控「・・・ 浅草観音様」(貼紙)「□□之処ノ内 一金三拾銭 □□ニテ払帳合成分 五九」「一金百疋 浅草餘時講 セ話人玉甚 毎年四月十七日集参也」
文化十二年(1815)七月廿一日より六十日間、金龍山浅草寺境内の念仏堂に於いて羽黒山玄良坊によって於竹大日如来出開帳が行われている。
「同日より、浅草念仏堂にて、出羽国湯殿山黄金堂於竹大日如来開帳(霊宝に茶釜、前垂、たすきの紐等有り、前垂紐に紫縮緬を用ひたるもおかし)。」(武功年表)
小津家文書4-127 (包紙)「弘化三午九月年賦証文 高金三百七拾両也 浅草瓦町綿屋藤兵衛」「差入申一札之事 一金四百両也 但紙代金也 内金三拾両也是迄度々相渡ス、残而金三百七拾両也、右者去巳年七月迄貴殿方ゟ買取候紙代金ニ而当時皆済可致処金子調達兼候ニ付此度私幷親類共ヨリ御懸合仕当午九月ゟ拾六ヶ年之間五節季毎ニ金五両ツヽ可相(㊞)済段相願候処格別之御勘弁ヲ以御聞済被下、忝奉存候、然ル上ハ右約定壱ヶ度ニ而も相滞候ハヽ何様ニも御取計可被成候、其節一言之異乱申間敷候、為後日加印証文仍如件 浅草茅町弐丁目久次郎店 借主綿屋儀八㊞ 神田佐久間町三丁目加印綿屋卯兵衛㊞ 浅草瓦町與兵衛店同 綿屋藤兵衛㊞ 弘化三午年九月 小津清左衛門殿」弘化三年(1846)九月、浅草瓦町の綿屋藤兵衛と小津清左衛門本店との紙取引の年賦証文である。
小津家文書3-112 「一札之事 一金(㊞)拾(㊞)両也 右者今般我等所持之株式貴殿相譲申候処是迄之仲間入用多分ニ相懸右之内前書之金子御出金被下忝奉存候、依之為御(㊞)札差上申一札、仍而如件 浅草御蔵前瓦町綿屋与兵衛㊞ 同儀八㊞ 安政三年辰年七月 小津清左衛門殿」安政三年(1856)七月に浅草御蔵前瓦町の綿屋与兵衛所持の糸問屋株を金十両で譲り受ける証文で、この日から小津清左衛門本店は、糸問屋として活動する。
小津家文書4-163 (包紙)「浅草茶屋町町用掛り借受人松野政蔵殿」「借用申金子之事 一金弐拾(㊞㊞)両也 右者我等商業元手金差支茶屋町地主五人様江金百両拝借願人候処御聞済被下前書之金子借用仕候処実正(㊞)ニ御座候、尤返済之儀者月々金壱百両宛無相違返納可仕候、則利足相加へ都合二十二ヶ月ニ皆済可仕候、為後日借用証文仍如件 浅草茶屋町壱番借地 借主松野政蔵㊞ 同町三番借地 証人西村金蔵㊞ 明治五壬申年七月 小津御店宮村保兵衛殿 (端裏書)茶屋町政蔵」明治五年(1872)七月、浅草寺参道の仲見世に松野政蔵が商売を始める元手金の借用書である。宮村保兵衛は本店支配人。
浅草茶屋町、浅草田町に所有地(明治六年地租改正沽券図から見る小津清左衛門東京所有地)を持つ。 (小津史料館 小西良明)
金龍山 浅草寺 https://www.senso-ji.jp/