2024年12月21日土曜日

東叡山 寛永寺 青龍院

天台宗 東叡山 寛永寺の子院青龍院は、正保元年(1644)に創建。亮盛は延暦寺行学坊住職で、瀧山寺学頭となり、寛永寺青龍院を兼務した。瀧山寺東照宮別当か。昭和二十年(1945)に寛永寺に合併。(日本歴史地名大系)(SHINDEN)

小津家文書29-771 「請取申一札之事 一金六拾両也 今般其方共御国恩相辨上納願候ニ付願之通書面之金子請取申候、以上 上野青龍院屯所砲兵方㊞ 辰五月 田端屋次郎右衛門代定兵衛殿 小津屋清左衛門代仁兵衛殿」

慶応四年(1868)辰五月、差出人は、津藩御用達の田中次郎左衛門の大伝馬町壱丁目田端屋次郎右衛門太物店支配人定兵衛と紀州御用達の小津清左衛門同町紙店支配人仁兵衛である。定兵衛は、文久二年(1862)十二月、木綿問屋田端屋次郎左衛門支配人、仁兵衛は、慶応二年(1866)十月に紙・繰綿・糸問屋小津屋清左衛門支配人となっている(諸問屋名前帳)。受取人は上野の東叡山に集まった天野八郎率いる彰義隊の砲兵隊である。五月十五日に大村益次郎率いる新政府軍の攻撃を受けほぼ全滅した。戦闘の際生じた火災で、寛永寺は根本中堂など主要な伽藍を焼失、壊滅的な打撃を受けた。明治三年(1870)、医学校と病院予定地として上野の山を視察した蘭医アントニウス・ボードウィンが、公園として残すよう日本政府に働きかけ、明治六年(1873)に日本初の公園に指定された。 

小津家文書18-242 「□□□ 出品願書㊞ ㊞一本館東京府第二千五百五十三号箱 一同半切大判類 壱箱 産地駿河国原価之義相場高抵□候間出品之節書出可申候、産地右本年内国勧業博覧会へ前書之通出品仕度奉願候也 東京 第一大区 拾四小区 大傳馬町壱丁目壱番地 小津清左衛門出店主 出品人土屋彦平㊞  拾年二月廿四日 東京府知事 楠本正隆殿 ㊞ ㊞第壱万四千百廿七号 書面自費出品之儀ハ合号付箋之通差許候事 明治十年四月十九日 東京府知事楠本正隆㊞」     

小津家文書29-755 「昨十年内国勧業博覧会江原価金三円五拾銭之出品仕候処、開場通券料各出品人江原価ニ応ジ分賦被成下候趣□□者後年会場出品資本云々御除達次第も御座候所、此上御手数相掛候而も奉恐入候間御下ヶ被成下度、然ル上者右御分與金区内公立学校学費ニ献金仕度奉存候、此段御聞届被下度候也 第一大区 十四小区 大傳馬町壱丁目壱番地 小津清左衛門出店主 土屋彦平 明治十一年二月 右区 戸長 吉川尹哲殿」

明治十年(1877)八月二十一日~十一月三十日、第一回内国勧業博覧会は、政府内務省により上野公園で開催され、小津は、出品した原価に応じ開場通券料を政府から支給された金額を明治十一年(1878)二月、公立学校学費に献金するため東京府戸長の吉川尹哲宛た願出で、差出人は本店支配人の土屋彦平である。 

小津家文書29-720 「㊞ ㊞ 第六万九千九百弐号 第三回内国勧業博覧会売残品処分ニ付本会開設ノ主旨御賛成金壱円義捐相成正ニ領収候也 明治廿四年二月七日 勧業義済会㊞ 賛成員 大市彦蔵殿 追申本会方法書第四条第拾七条ノ処分方ハ追テ報告致スヘシ此証書に本会の印章あるも取扱人の印章及ひ月日なきものは無効とす 府 区 町 番地 県 郡 村義捐金取扱人 福廣新八殿㊞㊞」同様に「第六万九千九百三号 釜田栄蔵殿」「第六万九千九百四号 土屋彦平殿」「第六万九千九百五号 田中国吉殿」

明治二十三年(1890)四月一日~七月三十一日、第三回内国勧業博覧会は、政府内務省により上野公園で開催され、明治二十四年(1891)二月七日、出品した売残品処分金から御賛成金壱円を差出した、勧業義済会 義捐金取扱人 福廣新八の領収証である。四人は本店支配人及び元支配人である。 (小津史料館 小西良明)

SHINDEN 寛永寺関連旧跡

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