2021年11月4日木曜日

四日市銀行三輪家と小津銀行小津家

明治二年十二月、東京為替会社設立 三井八郎右衛門、三井三郎助、三井次郎右衛門、三井元之助、小野善助、島田八郎右衛門、田中次郎左衛門、小津清左衛門(出資金三万円、代勤大市彦蔵)、下村正右衛門総頭取

明治二十八年十一月、株式会社 四日市銀行設立 三輪猶作頭取

明治三十二年一月、小津銀行設立 小津清左衛門長幸行主 支配人大市彦蔵

昭和二年、小津銀行、四日市銀行に吸収合併

三輪猶作 嘉永三年六月十五日生 四日市銀行頭取、衆議議員 四日市濱田住

 大正六年九月十七日卒 享年六十七歳

 参照 三輪猶作 (初版) - 『人事興信録』データベース (nagoya-u.ac.jp)

三輪綏 明治十年四月生 三輪猶作養子、岡本安利(藤堂家家臣岡本五郎左衛門)二男

 四日市銀行常務取締役 大正六年、家督相続、妻はま、三輪猶作養女

 参照 三輪綏 (第8版) - 『人事興信録』データベース (nagoya-u.ac.jp)

三輪いつ 明治三十八年六月生 三輪綏長女、小津清左衛門長幸四男へ嫁ぐ

三輪達之助 四日市濱田、妻茂登、小津益吉(小津清左衛門長柱養子)長女

三輪安之助 明治十六年十一月生 三輪達之助男、四日市銀行取締役 

 妻せん、岡本安利三女 三輪綏妹

 参照 三輪安之助 (第8版) - 『人事興信録』データベース (nagoya-u.ac.jp)

小津益吉 天保十三年十一月十八日生 小津清左衛門長柱養子、長谷川六郎次元経二男

 妻多賀、小津清左衛門長柱長女 小津清左衛門分家小津権右衛門家 松坂矢下小路

 明治三十三年九月二十日卒 享年五十八歳

小津茂登 文久元年七月二十三日生 小津益吉長女 三輪達之助へ嫁ぐ

小津清左衛門長幸 慶応元年四月十日生 小津清左衛門長篤長男 松坂本町住

 小津銀行設立 三重紡績監査役 参宮鉄道取締役

 明治四十一年二月十四日卒 享年四十四歳

小津清左衛門長謹 明治二十一年五月六日生 小津清左衛門長幸長男 松阪本町住

 明治四十一年、慶應義塾を退学し、家督を相続 妻民、栗山藤作四女

 小津銀行行主 東京紡績取締役 小津武林起業社長 四日市銀行取締役

 栗山藤作 (第4版) - 『人事興信録』データベース (nagoya-u.ac.jp)

 昭和二十七年十二月八日卒 享年六十五歳

 参照 小津清左衛門 (第4版) - 『人事興信録』データベース (nagoya-u.ac.jp)

小津龍之助 明治三十年一月十八日生 小津清左衛門長幸四男 

 大正十四年、三輪綏長女いつと結婚 東京大森の自宅で死去 

 大正十五年三月九日卒 享年二十九歳

為替会社が、bankの最初の訳語といわれ、預金業務や紙幣発行などを行っていたが、東京為替会社は不振のため解散。新たに第一国立銀行が設立されるが、この時小津は出資をおこなっていない。六代小清左衛門長郷は、宝暦五年三月、紀州藩御為替組に加入しており代々為替業務、九代小津清左衛門長澄は、文政六年二月、銀札会所御用拝命を受け藩札発行を行う、十一代小津清左衛門長柱は、天保十一年十月、八十五人扶持、御蔵米三拾俵、独礼格地士を拝命している。

四日市濱田の三輪家と松阪本町の小津家がそれぞれ銀行を設立し、縁戚となり、小津清左衛門は紡績事業の不振で小津銀行合併で救済されている。昭和二年、小津武林起業は閉鎖となり工場の跡地は東洋紡績の所有となっている。(小西)

2021年4月2日金曜日

伊勢商人、土浦醤油屋仲間

 常州土浦に伊勢商人が元禄以前から商売をしています。

小津三十郎家 勢州松坂本町小津清左衛門家右隣 土浦中城町 小津屋小右衛門

初代、伊勢松坂の江戸店大伝馬町太物店小津屋三郎右衛門(本居宣長の祖祖父の店)の最初の支配人小津三十郎宗心が独立して土浦中城町に太物店(木綿店)を出したようです。二代、三十郎の店の最初の支配人小津孫大夫、妻は、三十郎の妻と姉妹で、小津三十郎の跡を相続し、延宝三年に大伝馬町に太物店小津屋小右衛門を開業します。しかし、貞享三年、兄小津清左衛門長弘の家督を相続するため離縁し小津清左衛門長生となります。三代、小津三十郎家は、二代目支配人小津小右衛門専久が家督を継ぎます。妻は、小津孫大夫の四女常で、夫婦とも土浦で亡くなっています。四代、その子小津小右衛門泰広は、享保十二年、土浦大川通田地(川口町)に屋敷を建築します、その頃に醤油屋小津屋小右衛門を始めたようです。宝暦十一年に土浦で初めての醤油屋仲間に大黒屋勘兵衛(大國屋)らと一緒に参加しています。文化六年に小津清左衛門から金八百五十両を借用、文化十五年に土浦の南川口屋鋪を森嶋家の小津庄八に譲渡しています。文政十二年頃に醤油醸造業は廃業しています。森嶋家は小津清左衛門家の本家にあたります。

小津茂右衛門家 勢州松坂本町 土浦中城町 小津屋茂右衛門

初代、小津屋小右衛門専久の孫、小津藻右衛門現光で、大伝馬町の小津屋小右衛門を相続し、土浦中城町に醤油屋小津屋茂右衛門を開業しています。菩提寺は土浦の済岸寺です。二代、現光の長男、小津茂右衛門宗貞は、明和二年、土浦醤油屋仲間に加入しています。小津屋茂右衛門は、小津屋小右衛門の別家となっています。三代、小津茂右衛門智貞は、大傳馬町小津屋三四右衛門定利(本居宣長父の店)に奉公の後養子になった松坂博労町信證浄悦の長男。四代、智貞長男が小津茂右衛門教遊となります。五代、小津茂右衛門常栄は、養子で当家実子輿七、大伝馬町の木綿店長谷川次郎兵衛に奉公その後養子となり土浦で亡くなっています。六代、小津茂右衛門養貞は、養子で土浦の白井要右衛門男佐助。七代、小津茂右衛門慶友も養子で常州柴崎の片岡勝平男宇八。文化十一年、丹波屋(長谷川次郎兵衛)が、醤油屋仲間に茂右衛門分として支払っています。製造、茂右衛門で丹波屋が販売を行っていたため援助したと考えられます。実質は丹波屋長谷川次郎兵衛(松坂)が経営したと思われます。八代、小津茂右衛門浄香は養子久米村の太田長右衛門七男忠七。長谷川次郎兵衛の大伝馬町向店長谷川屋次郎吉に奉公しています。九代、小津茂右衛門清入は、養子濱田徳入二男です。この頃に松坂に住居を移したようです。

長谷川次郎兵衛家 勢州松坂魚町 土浦中城町カ 丹波屋

七代、長谷川次郎兵衛元美、文化十一年に小津茂右衛門分丹波屋兵蔵、文化十二年丹波屋平兵衛、文化十三年丹波屋吉蔵、文政二年丹波屋惣三郎、文政三年丹波屋忠三郎代弥七、文政三年まで小津茂右衛門分として醤油屋仲間に併記されています。八代、元美長男、長谷川次郎兵衛元貞の時、文政六年に柳屋弥七とあります。丹波屋は支配人の名と思われ柳屋も同様に支配人か別家のようです。文政八年に丹波屋は土浦店を休店しています。江戸大伝馬町に五店舗があり。松坂では小津清左衛門、三井則右衛門、三井宗十郎、長井嘉左衛門らと紀州藩御用を勤めており、藩札にも名前が記載されています。

国分勘兵衛家 勢州射和村(志摩鳥羽藩領) 土浦田宿町 大國屋勘兵衛

四代、国分勘兵衛元隣(宗山)は、冨山家の江戸本店大黒屋に奉公し、享保元年、江戸日本橋に呉服店大國屋を開業、正徳二年、土浦田宿に醤油醸造所を建設、享保十一年、大國屋勘兵衛、醤油初出荷。五代、元隣三男、国分勘兵衛元繁のとき、宝暦六年、呉服店を廃業、宝暦十一年に土浦醤油屋仲間に参加しています。八代、国分勘兵衛信親、養子竹川彦太郎政信三男は、製茶事業を始め、明治十一年、醤油醸造業を廃業し、食料品販売問屋に転業しています。明治十二年に大久保武右衛門に醤油醸造業を譲っています。

参考図書

土浦市史資料「中城町御用日記」2013、土浦市史編集資料第4篇「醤油屋仲間證文帳」1968、「松阪市史 第十二巻」、小津家文書ほか(小西)

2021年1月23日土曜日

小津屋の規則

 (商体規定集 十七ヶ条) 巳三月(天保四年)

小津屋の規則は、戌六月(元禄七年)の「定」(七ヶ条)が最初で度々改められています。天保三年には、文政七申秋に再改十七ヶ条に去亥ノ秋新法一ヶ条(一金銀出入者其年御目代預リ之事)が改めらています。

前文に善吉様御儀、年来無御故障被成御勤候ニ付、今般首尾能御退役被蒙仰、跡御支配役御順当久蔵様被為仰付候段、善吉は天保三年八月小津屋印形改、久蔵は、天保五年十月店預り人になっています。このことから巳三月は、天保四年とわかりました。

1.一金銀出入者其年御目代預リ之事、御目代は、支配人を退役後、別家(老分)となったものから半年の任期で江戸店に勤め御店を監視する、御隠居様と呼ばれた存在です。任期終了後、松坂本家店に戻り、支配人と一緒に小津清左衛門に半期の勘定(決算)を報告します。現在の監査役の立場に似ています。

2.一御支配人、支配人は、現在の社長で、小津清左衛門は、全株式を持ったオーナーで松坂から指示を出していました。小津屋の土地家屋鋪も小津清左衛門の所持で家賃収入を得ています。他店にお金を貸す場合は、利息等は小津屋の収入となることもあります。昭和四年正月に小津清左衛門は、合資会社小津商店と設立し、別家、現業社員に株式を譲り社員経営の会社となりました。

3.一三帳場之事

4.一荷合之事

5.一若衆昼夜共他出之節帰店之定では、帰店昼七ツ限、夜分ならハ、箱提灯為持、四ツ限急度帰店とあります。昼七ツ時は、午後四時で、四ツは、午後十時までに従業員は、店に帰る事を定めています。夜でかけは、吉原は決まった店があり、つけで遊んだようです、また子供衆は、近所に寺子屋があったので勉強をしていたと思われます。明治頃には、支配人や目代は、御店に住み込んでいません、近隣に社宅または自宅から出社しています。この時、支配人は独身、目代は単身赴任です。

6.一五節句ニ季通リ之事

7.一売場月両度廻リ方之事

8.一紙綿仲間行事役之事、紙問屋、繰綿問屋が主な商いでした。

9.一在勤之内金銀借用一切不相成事

10.一五節句御店休日隔番他出之事では、五節句(1月7日、3月3日、5月5日、7月7日、9月9日)は、御店の休日で、当番の者が店に残ることを定めています。休日諸参詣とあります。五節句の式日は、政府から明治六年に廃止されています。この時は、曜日がありませんのでその他の休日は、個別の病気や年季奉公明けの実家への帰りなどです。

11.一時貸小貸一切不相成事

12.一月両度御店会談念可被入事

13.一人請金受一切口入事堅無用之事

14.一若衆登リ節衣類之事では、年季奉公は、請状之事(雇用契約書)で、七年や八年契約などがあり契約が終わった時(19~22歳)、はじめて実家に帰ることができます。初登り(はじめての里帰り)はゆかたと定められています。衣服や路銀(旅費)は、御店から支給されます。二度目からは木綿、合羽など流行のものを自由に選んでいいが身分相応の衣類と定めています。

15.一見勢帳当座帳帰りもの消印之事

16.一御店在勤中衣類之事では、一ツ紋羽織ハ支配人限リ、差次(支配人代理)よりハ紋附羽織不相成候、紋付羽織は支配人のみで差次以下は、着用しないことを定めています。この頃、紋付羽織が流行っており他の店では、奉公人が着用しているが当店は支配人だけと定めています。また奉公人は、夏物のかすりや薩摩嶋も着用を禁止しています。

17.一酒之事では、御得意様と酒を飲む場合は、自分は禁酒と進められても断るように定めています。酒は諸悪の元にて自然に心乱れ、不忠不義になるので在勤中禁酒するように、しかし近頃、若衆には大酒呑みがいると聞こえるので今後必ず慎むようにと定めています。

御店御家風規矩破れ去ル年金六、栄助、忠七抔之類、不忠不孝人外可申歟、規則を破った者の名も記載されています。

金六は、松坂本町、長谷川吉右衛門養父喜助伜で小津屋に奉公し、文政五年六月、小津屋清左衛門店支配人を退役し、小津重の養子となり小津小右衛門家へ入ります。小津小右衛門家は、土浦店で醤油醸造を行っています。文政十一年五月に、江戸店在勤中の不埒が発覚し、不縁の話がでますが、土浦店の手代や別家(小津茂右衛門ら)の嘆願で保留となります。しかし、土浦店醤油醸造も失敗することとなり天保三年六月、不心得のため小津三郎兵衛跡式を相続前に離縁されています。小津小右衛門家は、小津三十郎宗心を祖とする店ですが、小津清左衛門の縁戚であるため面倒を見ています。小津重は、この時、小津庄八(森嶋家、小津清左衛門の祖)の後家で女戸主となっており、実弟の故小津三郎兵衛(小津小右衛門家へ養子)の家も面倒を見ていました。土浦店の整理には小津清左衛門が面倒を見ています。この頃、土浦の醤油醸造は、松坂の丹波屋(長谷川次郎兵衛)も挫折しています。成功した店は、大國屋勘兵衛(国分勘兵衛)で、現在に至っています。

翻刻は、中央区文化財調査報告書第三集 中央区旧家所蔵文書に掲載されています。(小西)