2021年4月2日金曜日

伊勢商人、土浦醤油屋仲間

 常州土浦に伊勢商人が元禄以前から商売をしています。

小津三十郎家 勢州松坂本町小津清左衛門家右隣 土浦中城町 小津屋小右衛門

初代、伊勢松坂の江戸店大伝馬町太物店小津屋三郎右衛門(本居宣長の祖祖父の店)の最初の支配人小津三十郎宗心が独立して土浦中城町に太物店(木綿店)を出したようです。二代、三十郎の店の最初の支配人小津孫大夫、妻は、三十郎の妻と姉妹で、小津三十郎の跡を相続し、延宝三年に大伝馬町に太物店小津屋小右衛門を開業します。しかし、貞享三年、兄小津清左衛門長弘の家督を相続するため離縁し小津清左衛門長生となります。三代、小津三十郎家は、二代目支配人小津小右衛門専久が家督を継ぎます。妻は、小津孫大夫の四女常で、夫婦とも土浦で亡くなっています。四代、その子小津小右衛門泰広は、享保十二年、土浦大川通田地(川口町)に屋敷を建築します、その頃に醤油屋小津屋小右衛門を始めたようです。宝暦十一年に土浦で初めての醤油屋仲間に大黒屋勘兵衛(大國屋)らと一緒に参加しています。文化六年に小津清左衛門から金八百五十両を借用、文化十五年に土浦の南川口屋鋪を森嶋家の小津庄八に譲渡しています。文政十二年頃に醤油醸造業は廃業しています。森嶋家は小津清左衛門家の本家にあたります。

小津茂右衛門家 勢州松坂本町 土浦中城町 小津屋茂右衛門

初代、小津屋小右衛門専久の孫、小津藻右衛門現光で、大伝馬町の小津屋小右衛門を相続し、土浦中城町に醤油屋小津屋茂右衛門を開業しています。菩提寺は土浦の済岸寺です。二代、現光の長男、小津茂右衛門宗貞は、明和二年、土浦醤油屋仲間に加入しています。小津屋茂右衛門は、小津屋小右衛門の別家となっています。三代、小津茂右衛門智貞は、大傳馬町小津屋三四右衛門定利(本居宣長父の店)に奉公の後養子になった松坂博労町信證浄悦の長男。四代、智貞長男が小津茂右衛門教遊となります。五代、小津茂右衛門常栄は、養子で当家実子輿七、大伝馬町の木綿店長谷川次郎兵衛に奉公その後養子となり土浦で亡くなっています。六代、小津茂右衛門養貞は、養子で土浦の白井要右衛門男佐助。七代、小津茂右衛門慶友も養子で常州柴崎の片岡勝平男宇八。文化十一年、丹波屋(長谷川次郎兵衛)が、醤油屋仲間に茂右衛門分として支払っています。製造、茂右衛門で丹波屋が販売を行っていたため援助したと考えられます。実質は丹波屋長谷川次郎兵衛(松坂)が経営したと思われます。八代、小津茂右衛門浄香は養子久米村の太田長右衛門七男忠七。長谷川次郎兵衛の大伝馬町向店長谷川屋次郎吉に奉公しています。九代、小津茂右衛門清入は、養子濱田徳入二男です。この頃に松坂に住居を移したようです。

長谷川次郎兵衛家 勢州松坂魚町 土浦中城町カ 丹波屋

七代、長谷川次郎兵衛元美、文化十一年に小津茂右衛門分丹波屋兵蔵、文化十二年丹波屋平兵衛、文化十三年丹波屋吉蔵、文政二年丹波屋惣三郎、文政三年丹波屋忠三郎代弥七、文政三年まで小津茂右衛門分として醤油屋仲間に併記されています。八代、元美長男、長谷川次郎兵衛元貞の時、文政六年に柳屋弥七とあります。丹波屋は支配人の名と思われ柳屋も同様に支配人か別家のようです。文政八年に丹波屋は土浦店を休店しています。江戸大伝馬町に五店舗があり。松坂では小津清左衛門、三井則右衛門、三井宗十郎、長井嘉左衛門らと紀州藩御用を勤めており、藩札にも名前が記載されています。

国分勘兵衛家 勢州射和村(志摩鳥羽藩領) 土浦田宿町 大國屋勘兵衛

四代、国分勘兵衛元隣(宗山)は、冨山家の江戸本店大黒屋に奉公し、享保元年、江戸日本橋に呉服店大國屋を開業、正徳二年、土浦田宿に醤油醸造所を建設、享保十一年、大國屋勘兵衛、醤油初出荷。五代、元隣三男、国分勘兵衛元繁のとき、宝暦六年、呉服店を廃業、宝暦十一年に土浦醤油屋仲間に参加しています。八代、国分勘兵衛信親、養子竹川彦太郎政信三男は、製茶事業を始め、明治十一年、醤油醸造業を廃業し、食料品販売問屋に転業しています。明治十二年に大久保武右衛門に醤油醸造業を譲っています。

参考図書

土浦市史資料「中城町御用日記」2013、土浦市史編集資料第4篇「醤油屋仲間證文帳」1968、「松阪市史 第十二巻」、小津家文書ほか(小西)

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