2021年1月23日土曜日

小津屋の規則

 (商体規定集 十七ヶ条) 巳三月(天保四年)

小津屋の規則は、戌六月(元禄七年)の「定」(七ヶ条)が最初で度々改められています。天保三年には、文政七申秋に再改十七ヶ条に去亥ノ秋新法一ヶ条(一金銀出入者其年御目代預リ之事)が改めらています。

前文に善吉様御儀、年来無御故障被成御勤候ニ付、今般首尾能御退役被蒙仰、跡御支配役御順当久蔵様被為仰付候段、善吉は天保三年八月小津屋印形改、久蔵は、天保五年十月店預り人になっています。このことから巳三月は、天保四年とわかりました。

1.一金銀出入者其年御目代預リ之事、御目代は、支配人を退役後、別家(老分)となったものから半年の任期で江戸店に勤め御店を監視する、御隠居様と呼ばれた存在です。任期終了後、松坂本家店に戻り、支配人と一緒に小津清左衛門に半期の勘定(決算)を報告します。現在の監査役の立場に似ています。

2.一御支配人、支配人は、現在の社長で、小津清左衛門は、全株式を持ったオーナーで松坂から指示を出していました。小津屋の土地家屋鋪も小津清左衛門の所持で家賃収入を得ています。他店にお金を貸す場合は、利息等は小津屋の収入となることもあります。昭和四年正月に小津清左衛門は、合資会社小津商店と設立し、別家、現業社員に株式を譲り社員経営の会社となりました。

3.一三帳場之事

4.一荷合之事

5.一若衆昼夜共他出之節帰店之定では、帰店昼七ツ限、夜分ならハ、箱提灯為持、四ツ限急度帰店とあります。昼七ツ時は、午後四時で、四ツは、午後十時までに従業員は、店に帰る事を定めています。夜でかけは、吉原は決まった店があり、つけで遊んだようです、また子供衆は、近所に寺子屋があったので勉強をしていたと思われます。明治頃には、支配人や目代は、御店に住み込んでいません、近隣に社宅または自宅から出社しています。この時、支配人は独身、目代は単身赴任です。

6.一五節句ニ季通リ之事

7.一売場月両度廻リ方之事

8.一紙綿仲間行事役之事、紙問屋、繰綿問屋が主な商いでした。

9.一在勤之内金銀借用一切不相成事

10.一五節句御店休日隔番他出之事では、五節句(1月7日、3月3日、5月5日、7月7日、9月9日)は、御店の休日で、当番の者が店に残ることを定めています。休日諸参詣とあります。五節句の式日は、政府から明治六年に廃止されています。この時は、曜日がありませんのでその他の休日は、個別の病気や年季奉公明けの実家への帰りなどです。

11.一時貸小貸一切不相成事

12.一月両度御店会談念可被入事

13.一人請金受一切口入事堅無用之事

14.一若衆登リ節衣類之事では、年季奉公は、請状之事(雇用契約書)で、七年や八年契約などがあり契約が終わった時(19~22歳)、はじめて実家に帰ることができます。初登り(はじめての里帰り)はゆかたと定められています。衣服や路銀(旅費)は、御店から支給されます。二度目からは木綿、合羽など流行のものを自由に選んでいいが身分相応の衣類と定めています。

15.一見勢帳当座帳帰りもの消印之事

16.一御店在勤中衣類之事では、一ツ紋羽織ハ支配人限リ、差次(支配人代理)よりハ紋附羽織不相成候、紋付羽織は支配人のみで差次以下は、着用しないことを定めています。この頃、紋付羽織が流行っており他の店では、奉公人が着用しているが当店は支配人だけと定めています。また奉公人は、夏物のかすりや薩摩嶋も着用を禁止しています。

17.一酒之事では、御得意様と酒を飲む場合は、自分は禁酒と進められても断るように定めています。酒は諸悪の元にて自然に心乱れ、不忠不義になるので在勤中禁酒するように、しかし近頃、若衆には大酒呑みがいると聞こえるので今後必ず慎むようにと定めています。

御店御家風規矩破れ去ル年金六、栄助、忠七抔之類、不忠不孝人外可申歟、規則を破った者の名も記載されています。

金六は、松坂本町、長谷川吉右衛門養父喜助伜で小津屋に奉公し、文政五年六月、小津屋清左衛門店支配人を退役し、小津重の養子となり小津小右衛門家へ入ります。小津小右衛門家は、土浦店で醤油醸造を行っています。文政十一年五月に、江戸店在勤中の不埒が発覚し、不縁の話がでますが、土浦店の手代や別家(小津茂右衛門ら)の嘆願で保留となります。しかし、土浦店醤油醸造も失敗することとなり天保三年六月、不心得のため小津三郎兵衛跡式を相続前に離縁されています。小津小右衛門家は、小津三十郎宗心を祖とする店ですが、小津清左衛門の縁戚であるため面倒を見ています。小津重は、この時、小津庄八(森嶋家、小津清左衛門の祖)の後家で女戸主となっており、実弟の故小津三郎兵衛(小津小右衛門家へ養子)の家も面倒を見ていました。土浦店の整理には小津清左衛門が面倒を見ています。この頃、土浦の醤油醸造は、松坂の丹波屋(長谷川次郎兵衛)も挫折しています。成功した店は、大國屋勘兵衛(国分勘兵衛)で、現在に至っています。

翻刻は、中央区文化財調査報告書第三集 中央区旧家所蔵文書に掲載されています。(小西)