2020年4月3日金曜日

小津屋清左衛門1.長弘、長生、長康

小津屋清左衛門 承応二年(1653年)八月九日開業、大傳馬町一丁目
 創業者、小津清左衛門長弘(1625~1710)は、寛永二十年(1643年)、大傳馬町名主佐久間善八の紙店に斉藤清左衛門として勤めます。
 承応二年(1653年)八月九日、井上仁左衛門紙店を金百三十両で譲り受け独立、小津屋清左衛門紙店を開業します。元手金は、小津三十郎宗心(1617~1705)の紹介で小津三郎右衛門道休(1612~88)から金二百両を借り、家印ウロコキュウと小津屋の屋号の使用を許され、店名を小津屋清左衛門とし、斎藤から小津清左衛門と改名します。この時の店は、佐久間善八屋敷表口三間、奥行二間で、佐久間善八の店子となり店賃を毎月支払ます。奉公人には、弟長兵衛(1633~60)、弟七郎右衛門(1644~74)が働きますが若くして亡くなります。結婚して郷里、松坂西町二丁目に戻ります。
 延宝五年(1677年)正月、東隣の薬種店大坂屋八右衛門の空き店表口二間を金十五両で譲り受け店を拡張します。
「定」戌六月 写し
延宝六年(1678年)正月、子供がいなかったため弟小津孫太夫の長男亀太郎(1675~82)を二十歳で家督を相続することで養子にしますが早世してしまいます。
 貞享元年(1684年)五月、相続候補がなくなり、小津三十郎宗心の跡取りとなっていた弟小津孫太夫は離縁し、小津清左衛門家の家督を相続、小津清左衛門長生と改名。
 貞享三年(1686年)、長弘は隠居し、玄久と名乗り、元禄七年(1694年)六月、掟書「定」七ヶ条を定めます。小津史料館に展示しています。
 小津清左衛門長生(1638~1710)は、貞享三年(1686年)八月、松坂西町二丁目から松坂本町に住居を移します。次男長之助(1655~1731)を分家させ、元禄十一年(1698年)四月に開業した木綿店伊勢屋を任せます。三男新五郎(1681~1741)に、小津清兵衛道生三女玉を迎え結婚、宝永七年(1710年)、小津清左衛門家の家督を譲ります。三女千代(?-1736)は、小津七郎兵衛浄喜と結婚し森嶋家を存続させます。四女常(?-1713)は、小津三十郎家の常州土浦、醤油問屋小津小右衛門に嫁ぎます。宝永三年(1706)九月、佐久間善八屋敷表五間を金二千八百両で佐久間善八から譲り受け、家持となります。
 小津七郎兵衛浄喜、元禄十四年(1701年)、支配人七郎兵衛は、退役し仕分金九百六十一両三歩十匁二分五厘をもらい別家となります、享保十九年(1734年)に本家の命により千代と結婚し、森嶋氏を継ぎ小津姓となります。勢州山田八日市場村、寺田喜右衛門二男。
 小津清左衛門長康(1681~1741)は、玉(1692~1762)と結婚したので、江戸店持の小津清兵衛家、小津三四右衛門家、小津次郎右衛門家などと親戚となります。正徳三年(1713年)、掟書「定」十二ヶ条を定め、「江戸店開基之図」を記します。享保十四年(1729年)、大年寄役を仰せつけられます。長女円(1709~40)は、小津清右衛門正啓と結婚し森嶋家を守り、二女谷(1713~31)は小津次郎左衛門信業へ嫁ぎ、三女由良(1716~35)は小津次郎兵衛へ嫁ぎ、長男新五郎(1720~55)は家督を相続し清左衛門長郷と改名します。
 享保十六年(1731年)秋、養泉寺に地蔵堂建立。享保十八年(1733年)六月、江戸深川称名院へ墓地を寄附。
 元文四年(1739年)、勢州山田萗恩寺を買求めて修理を加え移築、養泉寺の末寺、長松寺とし、昌山玄久居士を開基とし、信仰の三尊の菩薩を本尊となし若くして亡くなった三人の娘の菩提を回向します。元文五年(1740年)、紀州高野山大師堂、上総の鹿野山に永代祈祷料を納め、江戸店の隆昌を祈祷。
 妻玉は、宝暦五~六年(1755~6年)、長男長郷菩提のため城州山崎安養院へ常念仏喜捨金二百両、宝暦六年(1756年)、紀州高野山金堂へ大香炉を寄進します。宝暦十一年(1761年)九月、「本店掟書」を定めています。
 小津新兵衛保教(1672~1733)、正徳六年(1716年)正月、支配人新兵衛は、退役し仕分金五百両と小津の屋号をもらい別家として松坂中町に住み、紀州湯浅村出身の干鰯問屋湯浅屋に出資し、後共同経営者となっています。勢州須賀村、中西喜右衛門二男。著名人は小津新兵衛家には、西荘文庫で知られる蔵書家、紀行家、小津久足、東大教授でシェイクスピア研究の小津次郎、その分家小津新七家には、映画監督の小津安二郎がいます。(小西)

2020年4月2日木曜日

庄内藩 慶応四年(1868年)

慶応四辰年二月
「預申入金子之事」は小津史料館に展示しています。
小津清左衛門長柱(1811~76)が、慶応四年(1868年)二月に酒井左衛門尉、庄内藩十一代藩主酒井忠篤(1853~1915)に上納金三百両の証文。差出人勘定組頭佐藤忠助、木部謙蔵、郡代疋田弘右衛門、奥書は家老松平権十郎、松平親懐(1838~1914)。

翻刻
預申金子之事
一金三百両也
左衛門尉勝手向就要用借用被申候処
実正ニ御座候、返済之儀月壱割之利足
相加、当十二月限庄内為登金を以元利
無相違可致返済候、為後日証文仍如件
            酒井左衛門尉内
              勘定組頭
  慶応四辰年二月      佐藤仲助㊞
              勘定組頭
               木部謙蔵㊞
              郡代
               疋田弘右衛門㊞
      小津清左衛門殿
前書之通相違無之候、以上
             家老
              松平権十郎㊞

清左衛門長柱は、紀州藩御為替組御用、大年寄を勤め戦の準備をしますが松坂では戦は起こらず、慶応三年(1867年)四月、大年寄役が廃止されます。慶応四年(1868年)四月に、代勤前川善三郎が京都に於いて太政官会計御用掛りを拝命、明治元年(1868年)九月に、代勤前川仁兵衛が東京に於いて会計附属商法司を拝命、明治二年(1869年)、紀州藩改革によって地士食禄八十五人扶持が廃止されます。
 江戸では、慶応四年(1868年)三~四月、幕府は新政府に江戸城を明け渡します。(無血開城)、七月に江戸を東京に改称し、九月に明治元年となり、天皇は京都を出発し東京に行幸しました。
 庄内藩は、慶応三年(1867年)、藩政改革などで藩論を佐幕派で統一します。十二月、「酒井なければお江戸はたたぬ、おまわりさんには泣く子も黙る」と呼ばれた江戸市中警備の庄内藩新徴組は江戸三田の薩摩藩邸の焼討事件を起こします。慶応四年(1868年)五月、奥羽越列藩同盟を結び、新政府軍と戦いますが、九月に降伏し開城します。十二月、酒井忠篤は改易になり、明治二年(1869年)九月には罪を許されます。家老の松平権十郎は、大内藩(庄内藩から改称)の大参事となり、藩内に洋学所を開設しています。(小西)

2020年4月1日水曜日

廻船問屋 角屋(松本)七郎次郎と松本陀堂

菱垣廻船問屋は、大坂で寛永元年(1624年)、泉屋平右衛門がはじめ、寛永四年(1627年)、毛馬屋、富田屋、大津屋、顕屋、塩屋が開業しています。
 江戸では、御伝馬役馬込の配下だった、寛永二年(1625年)赤塚屋、寛永三年(1626年)升屋、寛永七年(1630年)久保寺ら伊勢国出身者が木綿問屋を開業しています。
 勢州松坂では、角屋七郎次郎忠栄(松本)(1574~1644)が、廻船問屋を開業します。長男忠祐(1608~91)は、松坂湊町に住み廻船問屋を継ぎます。
 二男栄吉、角屋七郎兵衛栄吉(1610~72)、朱印船貿易を行いますが、寛永十年(1633年)鎖国令のため安南国会安(ベトナムホイアン)に永住します。安南の「柳条布(りゅうじょうふ)」が輸入できなくなり、その柄をまねた松坂木綿が、後に松坂嶋と呼ばれ江戸で流行します。
 三男栄信、角屋九郎兵衛栄信、堺に移り、廻船問屋、鰯屋を開業します。
 本家角屋七郎次郎忠祐(1608~91)は、子供がなく養子有久は本家を継ぎ、 養子久林は別家松本六郎次郎久林、初代となり松坂中町に居住し木綿・茶・薬種を扱い江戸店も開業します。
 二代目松本六郎次郎賓秋(松本陀堂)(1673~1751)は、久林の二男で跡を継ぎますが、外科医、本草学者で、徳川吉宗(1684~1751)の改革、享保二年(1717年)、幕府は日本中の本草学者を江戸に集めて医薬の興隆をはかっており、大陸原産の高麗人参不足の解決が問題となっていました。松本陀堂は、享保五年(1720年)に和気で和人参を発見し「熊野直根」と名付けます。長男大慎も外科医となったため、松坂町奉行同心久世定右衛門兼由長男友八が養子となり跡を継ぎます。
 三代目松本陀堂守善(?~1804)、兼由長男友八、江戸店を閉店し、松坂で薬種業を営む
 四代目松本陀堂敬信、兼由三男義一、小津清左衛門から借用。
 久世定右衛門鉄次郎、兼由二男弥一郎
 
 小津清左衛門長澄(1785~1863)は、津藩典医筒井朴庵順一二男で、享和元年(1801年)、伯母慈源の養子となり、文化四年(1807年)十月、家督を相続し清左衛門と改名します。和歌を本居春庭(1763~1828)に学び、茶道を、裏千家認得斉(1770~1826)、玄々斎(1810~77)に学んでいます。
 長澄は、文化十年(1813年)六月、「一札之事」松本陀堂に金三十両を貸しています。差出人は、松本陀堂、久世弥一郎、服部三郎右衛門の三人。
 また、同年七月、下り傘問屋御鑑札、株札を取得します。
 菱垣廻船問屋は、江戸十組の荷を運んでいます、紙は大坂から、木綿・茶は白子や松坂大口湊から運ばれています。江戸には霊岸島で荷を降ろし、艀船で日本橋まで運ばれています。
 
 江戸十組薬種店、鰯屋は、勢州松坂、松本家と関係があるようです。(小西)