2020年11月11日水曜日

江戸町年寄 樽与左衛門

 江戸町年寄樽与左衛門 樽屋 拝領屋敷本町二丁目 初代は徳川家康の家臣水野康忠

 十二代樽与左衛門(延享三年~文化十一年十二月二十九日、享年六十九歳)は、養子播磨出身岩崎善右衛門で、寛政二年、樽の名字帯刀を許され、天明五年十二月に十一代与左衛門が隠居したため町年寄になり家督を相続します。

文化三年十一月二十五日、御用金徴収のため大傳馬町木綿問屋らを呼出し出金を強要しています。小津清左衛門は御用上納金三千五百両を、文化三年十二月金千両、文化四年五月金千両、九月金千五百両と三回に分けて納めています。(小津史料館展示)

文化十一年十二月二十九日、樽与左衛門は、貸付金引負で自殺をします。その後町奉行の吟味が行われましたが、内密にされ樽屋は守られました。樽与左衛門は、紀州徳川家など御用金を貸付ており返済してもらえず自殺したようです、その後幕府が取立ています。

小津清左衛門は、町名主馬込勘解由にも貸付ており、勘解由は、宇都宮藩に貸付ています。

小津清左衛門も紀州藩御用金を両替商升源に金三千両を貸し付けています。(小津史料館展示)、御用商人である小津清左衛門は紀州藩の御用金の運用采配は自由にまかされていました。

町年寄は、本町一丁目奈良屋市右衛門、本町三丁目喜多村彦右衛門、樽屋の三人が世襲しています。喜多村家でも貸付金引負で町年寄を退役など謹慎処分を受けています。(小西)

2020年11月6日金曜日

伊勢商人の由緒書

 幕府や紀州藩の御用商人は、由緒書を提出しています。

松坂の小津清左衛門家は、五代長康が享保十四年松坂の大年寄役、六代長郷が、宝暦三年十一月、大年寄格式、宝暦四年正月、紀州藩御紋提灯を預り苗字帯刀を許されています。このころに紀州藩に提出したと思われます。由緒書では、先祖は、山城国守護代三好長基の子三好隼人祐長年となっており兄が摂津国守護代三好長慶となります。しかし史実では確認することはできません。七代長保が江戸本町四丁目大橋屋を譲り受ける証文に三好太郎次郎殿とあり始めて三好を使っています。大橋屋は伊勢御師の大橋又太夫の店でその土地は小津清左衛門所有の土地だったため家賃をもらっていた関係から名跡、店、従業員をそのまま引き継ぎ、大橋屋太郎次郎とした店で向店と呼ばれていました。その後三好家に関するものは、三好家の家紋を屋根瓦の一部に使っています。三好長基の菩提寺、堺の顕本寺に寄進やお参りにいった記録は見つかっていません。十代、十一代清左衛門は紀州藩地士八十五人扶持。

松坂の本居宣長家は、先祖は、蒲生氏郷の家臣本居武秀で一緒に会津に移り九戸政実の乱で討死にしています。しかしその息子は松坂でうまれ小津を名乗り商人を始めています。宣長は、寛政四年に紀州藩御針医格五人扶持になっています。そのときに由緒書を調べたようです。父、義兄まで商人でしたので小津を名乗っています。後十人扶持。息子春庭は失明したため弟子の大平を夫婦で養子に迎え、和歌山で紀州藩医師、侍講などを務めています。

射和の竹川彦左衛門家は、先祖は、小谷城主浅井亮政の子浅井友政で、兄弟浅井久政でその子は浅井長政になります。織田信長の戦いで敗れた久政、長政親子は天正元年に自害しています。友政は、天正元年に商人となり、天正四年に竹川を名乗るのようになっています。七代彦左衛門正秀は江戸幕府御為替組に加入しています。このころ由緒書を提出していると思われます。射和は鳥羽藩ですので鳥羽藩諸士格となっていますので鳥羽藩にも提出しています。竹川家は両替店を本店に絹物店、太物店、醤油店、酒店、荒物店など多岐に江戸、京都、大坂に出店しています。十六代彦左衛門の養子は、竹川から浅井に改姓し、浅井公政を名乗ります。(小西)