2024年12月12日木曜日

伊勢神宮 太々神楽

伊勢神宮(いせじんぐう)は、正式名称は「神宮」(じんぐう)である。他の神宮と区別するために、「伊勢」の地名を冠し伊勢神宮と通称される。「伊勢の神宮」、または親しみを込めて「お伊勢さん」「大神宮さん」とも称される。古来、最高の特別格の宮とされ、現在は神社本庁の本宗(ほんそう。全ての神社の上に立つ神社)であり、「日本国民の総氏神」とされる(伊勢神宮 - Wikipedia)。

年中諸用控(画像左端) 「一金百匹ヅヽ 伊勢大神宮様 正五九 未年ゟ□合年極月十九日出追而□□ゟ御□勢州へ為替□之候□差扣事 〆右四口小遣帳」 江戸本店は、正月、五月、九月、金百疋づつ。江戸店の奉公人は松坂に登ると神宮へ参詣する(長柱日記)。

万内所之帳 「伊勢大神宮 伍大力菩薩 万内所之帳 小津□□□」「天和三年みつのとの亥ノ卯月十六日ニ出口信濃殿ニて太々神楽上ヶ申候覚 一黄金三拾五両 神楽代 一黄金壱枚 但シ七両弐分 御師殿へ礼 一小判壱両 御内方へ遣 一銀子弐枚 惣内之衆へ 一銀弐十匁 手代市兵衛へ 一銀弐匁 内宮浅間へノあんないニとらせ 一金弐両 神楽ノまきせんにハ十貫文 一金子四両三分ト四匁六分 是ハかこちん山田へ上下と内宮へのかこ、あさまへのかこ万小使也 右合テ五拾壱両三分ト壱貫百七十九文 右太々之入目也 人数上下四拾人之余 かこのり物かきハのけて 外ニ黒川善太夫へ金子壱両遣 初尾 同 銭や徳兵衛 金子壱分遣 同断 右惣合伍拾三両ト壱貫百七十九文」(三重県史 小津家文書)

天和三年(1683)癸亥四月十六日、出口信濃殿により行われた太々神楽の費用である。このときは、寛文六年(1666)に江戸から松坂に帰郷した創業者小津清左衛門長弘である。

小津清左衛門長弘は、後継者に弟長兵衛とするが、万治三年(1660)に江戸店で奉公中に病死、そのあと弟七郎右衛門を養子に江戸店で奉公するが、延宝二年(1674)病気の為伊勢山田の療養先で死去。その次に弟小津孫太夫長生の長男亀太郎を養子とするが、天和二年(1682)三月に八歳で早世、四人目に小津三十郎家の家督を継いでいた弟小津孫大夫に、貞享元年(1684)、家督を譲る、孫大夫は小津清左衛門長生と改名、このとき小津三十郎家を離縁したため、孫太夫が開業した太物店小津小右衛門は、小津清左衛門長生の店となり、森嶋家に任している。

明治三十六年(1903)十月、小津清左衛門長幸、参宮鉄道取締役に就任、明治三十六年十一月退任、明治三十九年(1906)、参宮鉄道取締役に就任、明治四十年(1907)十月、鉄道国有法により国有化のため参宮鉄道廃止(私設鉄道経営者・技術者一覧今城光英論文)。

(小津史料館 小西良明)

伊勢神宮 https://www.isejingu.or.jp/

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