2026年1月9日金曜日

日本興信所通信 昭和四年一月十七日 第六千三百十八号(抜粋)

 三重縣実業界の巨頭 小津清左衛門氏の経営せる 東京三店の新陣容

創業三百年連綿として家富み栄へ三重縣多額納税者として同地富豪の一班に加はるのみならず其経営する東京三店の年商のみに於ても一千万円内外と称される盛況を見て現下の実業界に覇を唱へる三重縣松坂町小津清左衛門氏は時代の趨勢に鑑み今回東京三店の事業を開放して一族郎党の名に仍る新組織の下に三店各様夫々事業継承の手続を運ばれた、而して先づ其第一は東京の本店と呼ばれた市内日本橋区大傳馬町一ノ一番地所在の和洋紙及び綿花問屋鱗久印が

△合資会社小津商店▽

と更まり之れが組織の内容は無限責任社員として金一万五千円出資の佐野助三郎氏を首め同金一万五千円宛出資河合重太郎、小里久吉(小黒)、西山勝次郎及び金八千円同別府健三郎の五氏と其他の有限社員には金二万円出資米澤千吉、五千円奥山賢蔵、三千円山岡兄市(兄郎)、其他金二千円宛の伊藤貞一、坂野顕太郎の諸氏等に仍る総員十名此資本金十万円の組織と為し本月四日設立同九日其登記を完了せるが尚前記佐野氏を以て代表者と定められた、次いで同所二番地所在の木綿問屋金久印は其名を

△合資会社小津木綿商店▽

と改称し同日資本金五万円を以て代表者三浦芳造氏外五名に仍る組織とされ此出資の内訳は左の如き割当てを見た 金二万五千円無限三浦芳造、金二万円同兼子文次郎、金一千四百円有限篠田秀三、金一千二百円同中村友賢、金一千二百円同西村眞次郎、金一千二百円同水上浪蔵

併して最後は其向店と称され従来和洋紙及び製茶問屋金吉印の名に於て盛業を続けて来た日本橋区本町四ノ二三番地所在の大橋園であるが夫れは加藤寅次郎氏を代表者に之又同四日

△合資会社大橋商店▽

資本総額金十万円此出資人員十三名の組織として同月八日之れが登記の完了となったが其出資の内容は有限責任社員として森清五郎氏が金七千五百円を出資せる外他は何れも無現責任の肩書に仍て代表者加藤寅次郎氏の金一万円を首め以下金七千五百円宛の長谷川銈太郎、澄野猪太郎、鈴木雄之助、佐野正六、荒井松次郎、渥美半次郎、小林彦一郎、浦田金松及青勝三郎の九氏と金九千円出資の森田五兵衛並に金六千円の大西浅次郎の両氏等とされた、斯くて以上の要塞に仍て見る時は何れも各店古参の功労店員のみの固めにして其何れの部にも大御所小津清左衛門氏の名を留めず表面聊か奇異の感に打たれるが然し小津家には小津家伝統の家憲があり殊に実業界の逸材と評される当代清左衛門氏には深く時勢を観るの明と之れに処するのは卓識を有される事は勿論にして未だ其変更理由に就ての声明も聞くに至らないが同店従来の秩然たる業容或は主従関係に店員相互間に於ける礼節の正しい而かも温情味の豊かなる鮎其他から推して考へると蓋し今次の組織更へは一面労資の協調を意味するの他方に後進の途を開き共存共栄の実を学ぐると同時に益々向後の発展を期する事を眼目として熟慮断行されたものゝ如く察せられるのである、元来同店は其昔オランダ船が初めて我長崎港に来航せる時代の創始にして江戸進出は夫れより遙か後世の事に属し紙と綿を生命とせるが其後業容の進展に伴れて木綿部の開設となり更らに向店の茶舗大橋園の買収継承から愈々三店鼎座の兼営となつたもので爾来各店各様の特色を発揮し何れも負けず劣らずの業勢を持続せるが然し明治初年の頃に於ける地方飢饉の影響から木綿部の商情に変調を来せる以来同部は漸次緊縮方針に出で応戦好況の景気台頭から再び旧態に復し他の姉妹店と共に轡を並べて駿足を伸せるのであった、斯くて戦後の恐慌を押切り更らに十二年九月に於ける震火罹災の難局を経て今日に及べるが併し此間十二年の震災では三店共鳥有に帰し其損害は総括して凡そ二百万円以上三百万円の多額に上るものと目されたから其後の復興上に多大の努力を払はれた事は勿論として此処数年間各員一致の奮闘に仍て首尾よく震前破竹の業勢を盛返し方今其復興振りとしても他に此肩するものなき誠に申分なき業態を示すに至ったのである、然して尚震災時に於ける店主の逸話としては並々ならぬものがあるが夫れは紙面の都合上何れ三重縣本部に於ける奥向の内容と共に他日報道の事として一体以上の三店は総じて其荷風が質実で地味であると同様に取引振りが地味で派手〱しくなく極めて手堅く権威ある裡にも豊かな情味があって他の只利を趨ふて儲かる事なら多少の没義道も構はぬなどの遺口とは雲泥の差があり又累代従弟(徒弟)薫育を楽しんだ家風はよく店員を優遇し其退店の時は手厚い手当や積立を支給する例になってゐるから同店の出身者で中流以上の富豪は少なくないとの事であるし又退店して後も多く顧問なり相談役として永く店との関係を断たぬので従って同店の人件費は可成りの額に上るものと称されてゐるが之れを近来流行の一将功成って万骨枯る式に高級幹部を容赦なく削って新聞広告に仍る飛込店員を採用し夫れで経費節約の要諦を得たと心得てゐるが如き他店の例に比ぶれば是亦月とスッポンの距離があるものと云わねばならぬ、以上一言に評すれば其得意先に対しては昔の権威其侭が当代に保たれてゐるし店内では主従の関係が昔の関係其侭に美しく行はれ即ち何れの方面にも奥床しい鳥渡現代離れのした観がある、之れが抑も内店内の平和となり家業繁昌の因を為せる外得意の信頼となり結局今日の大を成すに至れる所以であるが又今回出資社員として列んだ諸氏は何れも斯ふした深い関係の人々で既に幾十回の実戦を経て来た所謂経倫家と称さるゝものゝ集りにして今之等前後の事情から考へて見るも以上三店は表面の名こそ異なれ其内容は素よりの姉妹店で小津家と共に密接不可離の関係なる事は勿論恐らく其主権は小津家の依然掌握する処のものであらふから先づ向後共之れ迄での様に確つかりした営業が持続されるであらう思はれるものである。

小津商店(昭和四年頃に撮影)

合資会社小津商店は、昭和四年(1929)一月五日に設立(「小津三百三十年のあゆみ」p103)、代表社員佐野助三郎は、松坂町で生まれ、明治二十八年(1895)四月、十二歳で小津商店に入店、河合重太郎の跡支配人を勤め、退役後はしばらく目代(小津商店監査役)を勤めた別家でしたが、四十六歳の時に初代無限責任代表社員となり、昭和二十年(1945)八月、六十二歳で亡くなるまで代表を勤めました。ほかに本栄合資会社代表社員、日本和紙問屋商業組合理事長、株式会社鱗商店社長も兼任していました。

昭和五十三年(1978)一月に株式会社小津商店(資本金一億五千万円)と組織変更を行い、従業員経営となって97年目を迎えました。 (小津史料館 小西良明)

2026年1月8日木曜日

当智山 本誓寺及び子院称名院

 浄土宗本誓寺は、伊勢商人の菩提寺です。東京都江東区清澄3丁目4-23

浄土宗本誓寺(令和八年一月五日「一粒万倍日」に撮影)

本誓寺は、本尊阿弥陀如来、江戸時代は、浄土宗江戸四ヶ寺触頭、明治時代は、浄土宗関東十八檀林です。子院は、称名院、江月院、常照院などがあり、子院は宿坊だったようです。

小津史料館には、貞享四年(1687)卯十二月、寺請状之事があり、差出人に深河称名院、清左衛門、宛先は家主庄左衛門、五人組伊兵衛、同又兵衛となっています。(小津史料館展示 小津家文書20-323)

清左衛門は、小津清左衛門長生で、江戸深川の称名院の旦那(檀家)であることを、家主庄左衛門(大伝馬町一丁目佐久間善八の家守と思われ、佐久間庄左衛門という絹店がありました)宛に提出した控です。

享保十八癸丑(1733)六月十三日、一札(貴院旦那小津清左衛門殿卯塔地望ニ付)(小津史料25-557)があり、包紙には、江戸深川称名院墓地寄附請書(小津家文書25-558)

小津清左衛門は、長生三男の清左衛門長康で、本誓寺の子院常照院から墓地を購入し称名院に寄附しています。長康は、享保十六年(1731)、松坂の菩提寺曹洞宗養泉寺に地蔵堂を建立しています。元文四年(1739)に伊勢山田の崇恩寺を松坂に移築し養泉寺末寺としています。翌元文五年(1740)には、紀州高野山(金剛峰寺)太子堂、上総鹿野山(神野寺)に永代祈祷を納め江戸店の隆昌を祈禱しています。

明治廿二年(1889)四月廿六日、領受証幷謝辞(特別之御慈善ヲ以本文ノ金額御扶助被成下)、差出人称名院住職・鷲山辨教、宛先小津御三店(小津家文書29-768)

明治六年(1873)、本誓寺は浄土宗総本山知恩院より、江戸崎大念寺の跡、関東十八檀林の一つになります。明治十九年(1886)、福田行誡上人は増上寺を退き、深川本誓寺に隠棲したが、浄土宗一宗をとりまとめる重役を果たすことを請われ、翌明治二十年(1887)に知恩院住職となり、新たに制定された「浄土宗制」によって初代浄土宗管長となった(知恩院 福田行誡上人)。このとき子院称名院は本格的に宿坊になっていたようです。小津三店は、小津清左衛門商店、大橋商店、小津太物店で、当主は小津清左衛門長幸でした。

大正十五年(1926)、本誓寺は深川大工町の称名院(旧寮舎)を合併。(猫の足あと 本誓寺)

昭和四年(1929)六月九日、小津家墓地費用 深川本誓寺(小津史料)

昭和四年(1929)一月五日、小津清左衛門長謹は、三店をそれぞれ、別家、支配人らに店を譲ります。合資会社小津商店は代表社員佐野助三郎、合資会社大橋商店は代表社員加藤寅次郎、合資会社小津木綿商店は代表社員三浦吉造、従業員経営となります(MBO)。

本誓寺墓所には、小津家先祖累代之霊位 南無阿弥陀佛 小津三店先亡諸霊位の基が、一基あり、毎年盆に施主株式会社小津商店、幹部出席、本堂で福田住職により施餓鬼供養を執り行っています。      (小津史料館 小西良明)