2025年3月28日金曜日

深川本誓寺地中 江月院

 深川本誓寺地中 江月院は、浄土宗 本誓寺の子院。

小津家文書5-202 「奉公人請状之事 一此捨吉与申者生国ゟ能存慥成者ニ付、我等請人ニ罷立当午年ゟ丑年迄中年八ヶ年季給金弐両ニ相定、貴殿江手代奉公ニ差出シ申処実正(㊞)也 一御公儀様御法度之儀者不及申御家之御作法為相守可申候、若取逃欠落等致候ハヽ早速当人尋出シ取逃之品相改、我等引請相弁可申候、且諸勝負事堅為致申間敷候事 一宗旨之儀者代々浄土宗深川本誓寺地中江月院旦那ニ紛無御座候、若御法度之宗門抔与申者御座候ハヽ、右寺僧何方迄茂罷出申訳可致候事 一金銀御預ヶ被成国江買物等ニ被遣候節、又者御当地ニ而も取引ニ被遣候節、勘定相違引負等致候ハヽ、我等引請相済シ(㊞)貴殿江少も御損御苦労掛申間敷候事 一此捨吉儀ニ付、惣而何様之六ヶ敷儀出来候共我等引請埒明、貴殿江少も御苦労掛申間敷候、且年季明御縁御座候而御召仕被下候内者、何ヶ年ニ而茂此請状ヲ以我等請人ニ罷立申処相違無(㊞)御座候、為後日請状仍而如件 大傳馬町弐丁目三番地 差配人 善右衛門店 請人 由兵衛㊞ 人主 喜兵衛㊞ 明治三午年三月 小津清左衛門殿」(端裏書)「改源八捨吉」

明治三年(1870)三月、奉公人請状之事は、小津清左衛門本店に勤務する捨吉の契約書である。明治三年から明治十年迄八ヶ年季給金弐両の契約である。元服して源八と改名している。

小津家文書8-265 「引取証 三重縣下伊勢国安藝郡三宅村 生田関治郎 伜 源八 右源八儀我等宿請仕貴殿方江雇人ニ願置候処今般依テ願永暇被下奉有難存候、則下拙迄引取申候、然ル上者当人儀ニ付如何様之事故出来候其我等引請貴殿江一切御迷惑相掛不申候、為後日引取一札依而如件 大傳馬町二丁目三十二番地 扇田豊治郎㊞ 明治十年丑十一月廿八日 小津清左衛門殿 御支配人中」

明治十年(1877)十一月廿八日、引取証は、証券界紙に書かれた源八退職願である。

小津家文書5-200 「奉願上候 今般源八儀依願御暇被下難有仕合ニ奉存候、然ル処源八所持之品物衣類夜着等迄御下渡シ被仰付冥加至極之至ニ奉存候、御礼奉申上候、已上 扇田豊治郎㊞ 明治十年丑十一月廿九日 ㊞ 小津御店 御支配人様」

明治十年(1877)十一月廿九日、源八退職願が認められた礼状である。

生田源八は、三重県鈴鹿市三宅町の出身で鈴鹿の寺から江月院に寺請している。明治三年三月の奉公人請状で同じ江月院は、源八、文松、佐兵衛の三人。(小津史料館 小西良明)

猫の足あと 江月院

2025年3月27日木曜日

深川浄心寺地中 唱行院

 法輪山 唱行院は、日蓮宗 法苑山 浄心寺 塔中の寺院。元禄8年(1659年)大経院日教が京橋で創建。(浄心寺 (江東区) - Wikipedia)

小津家文書5-199 「奉公人請状之事 一此捨次郎与申者生国ゟ能存慥成者ニ付、我等請人ニ罷立子年ゟ申年迄中年八ヶ年季給金弐両ニ相定、貴殿江手代奉公ニ差出申処実(㊞)正也 一御公儀様御法度之儀者不及申御家之御作法為相守可申候、若取逃欠落等致候ハヽ早速当人尋出し取逃之品相改、私引請急度相弁可申候、且諸勝負事堅為致申間敷候事 一宗旨之儀者代々日蓮宗寺者深川浄心寺地唱行院旦那ニ紛無御座候、若御法度之宗門抔与申者御座候ハヽ、右寺僧一同何方迄茂罷出申訳可致候事 一金銀御預ヶ被成国江買物等ニ被遣候節、又者御当地ニ而茂取引ニ被遣候節、勘定相違引負等致候ハヽ、私引請相済シ貴殿江少も御損御(㊞)苦労掛申間敷候事 一此捨次郎儀ニ付、惣而何様之六ヶ敷儀出来候共我等引請埒明、貴殿江少も御苦労掛申間敷候、且年季明御縁御座候而御召仕被下候ハヽ、何ヶ年ニ而も此請状ヲ以我等請人ニ罷立申処相違無御座候、為(㊞)後日請状仍而如件 深川佐賀町惣七店 請人 忠蔵㊞ 人主定兵衛㊞ 慶応元丑年八月 小津清左衛門殿」(端裏書)「周蔵 捨次郎」

慶応元年(1865)八月、奉公人請状 捨次郎は、元治元年(1864)~明治五年(1872)迄八ヶ年季給金弐両で小津清左衛門本店で働く契約である。元服して周蔵と改名、明治十七年(1884)、栄造跡支配人に就任した清水周蔵である。

小津家文書7-222 「資産御届ヶ 日本橋区大傳馬町壱丁目壱番地平民小津清左衛門出店主 清水周蔵 一平素之品行正郎 一家族無雇人四拾名 一所有不動産 一府下地処五拾三ヶ所 一同土蔵拾三ヶ所 一営業資本金拾万円也 一売買紙綿商 日本橋区大傳馬町壱丁目壱番地所有住居 〆 右各次之廉々相違無之候ニ付依而差配人連署調印仕直段数御届候也 右 清水周蔵 差配人 奥田直八 明治二十年十一月十一日 日本橋区長 伊藤正信殿」

明治二十年(1887)十一月十一日、日本橋区長 伊藤正信宛に提出した資産御届ヶの覚である、小津清左衛門本店の支店長は清水周蔵、差配人奥田直八。従業員は40名、東京の地所は53カ所、土蔵13カ所、個人商店の営業資本金は10万円であった。(小津史料館 小西良明)

法輪山  唱行院 東京都江東区三好1-3-19

猫の足あと 法苑山 浄心寺

2025年3月26日水曜日

龍松山 養泉寺

 龍松山 養泉寺は、三重県松阪市中町にある曹洞宗の寺院。小津清左衛門家ゆかりの寺で地蔵堂の寄進や、養泉寺末寺崇恩寺を松阪市上川町 長松寺の移築再建などがあります。長谷寺 能満院から奉戴した法華寺仏舎利は、本堂に祀られています。菩提寺としているのは、小津清左衛門家、分家森嶋家、分家小津権右衛門家、別家小津新兵衛家、新兵衛家の分家小津新七家です。

小津家文書18-244 「宗旨請込状之事 一高田宗貴寺檀那筒井孝伯弟貫之助 今般当地小津与次兵衛方へ養子ニ罷越候条、宗旨送状被差越候ニ付則禅曹洞宗当院檀那ニ致加入候、為後証仍宗旨請込状如件 松坂養泉寺印 天保七年申十一月 正全寺 宗旨請込状 養泉寺 右十一月十六日来ル□□ □□□□□□」

天保七年(1836)十一月、宗旨請込状之事は、貫之助が小津清左衛門家に入家するため宗旨替えとなり、今後正全寺の過去帳(宗門帳)から除かれ、養泉寺の過去帳(宗門帳)に記載されます。関連文書は正全寺に掲載。

「佛舎利奉戴縁起記 佛舎利奉戴法要記念 ・・・今回小津家に伝わり、代々丁重に供養されてまいりましたお釈迦様の遺骨である佛舎利を尊い因縁によって、養泉寺へ奉戴することになりました。この佛舎利は、奈良市法華寺町、真言律宗 法華寺(門跡氷室御所)ゆかりの佛舎利であり、「真言律宗 法華滅罪寺略縁起」によれば、法華寺は、光明皇后御願に成る日本総国分尼寺として創られた・・・現在の七年前十五代目清左エ門長倍氏(昭和三十八年他界)夫人博子氏(昭和五十七年他界)より佛舎利が代々継承されていることをお聞き致し、小津家と養泉寺との深い々佛縁を、更に強固なものにして戴くため、再三再四お願いを致してようやく御遺族全員のお許しを得て、奉戴実現の運びとなりましたこと養泉寺住職として喜跳に堪えません。・・・龍松山 養泉寺」(昭和六十三年五月十五日、抜粋)(小津史料館 小西良明)

八百万の神 龍松山 養泉寺

2025年3月22日土曜日

順光山 正全寺

 順光山 正全寺は、三重県津市安濃町粟加にある真宗高田派の寺院。

小津家文書24-513 「一札 私弟同姓 貫之助 今般願済之上其御地江聟養子ニ差進申候 一宗旨之儀者高田宗安濃郡粟加村正全寺ニ御座候、別紙寺送リ取添遣候 一貫之助 養子ニ指進申候上者向後御国法御取噯可被成候、勿論異議無御座候、為後日一札如件 津 筒井孝伯㊞ 天保七年申九月 小津與次兵衛殿」

天保七年(1836)九月、津の町医師筒井孝伯から小津與次兵衛に宛てた一札である。弟貫之助を小津清左衛門家の養子にする内容である。小津與次兵衛は、隠居名で小津清左衛門長澄のことである。貫之助は、小津清左衛門長柱である。別紙寺送リ取添は、宗旨送状の事である。

小津家文書18-245-1 「宗旨送状之事 一高田宗 筒井孝伯弟 二十六歳 貫之助 右是者代々当寺檀那ニ候処此度松坂小津与次兵衛方江養子ニ参候ニ付、当方宗旨相除送遣候自今以後貴寺旦那ニ御加入被成、為後証宗旨送リ一札如件 当国安濃郡粟加村 正全寺印 天保七年申九月 当国松坂 養泉寺 上包 粟加 宗旨送リ一札 正全寺」

天保七年(1836)九月、筒井孝伯家の菩提寺 真宗高田派正全寺から小津清左衛門家の菩提寺 曹洞宗養泉寺宛の宗旨送状である。

筒井孝伯家は代々蘭方医師である、菩提寺は正全寺、光沢寺で二ヶ寺とも真宗高田派寺院。津藩の藩医筒井朴庵の門弟は正全寺に石碑髭塚が建立されている。小津清左衛門家とは、七代小津清左衛門長保の妻慈源から縁戚が続き、九代小津清左衛門長澄、十一代小津清左衛門長柱は筒井家から入家した養子である。また筒井家縁戚の西井道仙義子は十二代小津清左衛門長篤である。分家森嶋文益は、筒井孝伯に入門し松坂本町で医院開業を行っている。(小津史料館 小西良明)

2025年3月21日金曜日

松生山 心海寺

 松生山 心海寺は、鈴鹿市若松中一丁目にある真宗高田派の寺院。開創時期は不詳ですが、天台宗から永正年間(1515年頃)真宗高田派に転じて現在に至っています。漂流した大黒屋光太夫の神昌丸の乗組員磯吉の菩提寺です。磯吉は光太夫と一緒にロシアから帰国し江戸に居住し、寛政十年(1798)十二月、若松村に一ヶ月余り帰郷しています。

長谷川太物店古帳 差引帳 「覚 勢州白子船、去ル寅極月中難破破船致、依之白子積問屋中相談難出来甚難渋ニ付船々為取建金子五百両借用致度旨白子兵太夫殿、倉田太左衛門殿、河合仁平次殿下向被致、坂倉小右衛門殿付添願被御座出ニ左候得共此荷物殊ニ先格無之事故相続出来不申旨申達候処再然相預候ニ付数日及参会積方勝手ニも相成無拠儀故仲間一統熟談致金子千両也用立遣証文取置申候向後右躰預入有之候共決而取上申間鋪候、為後日記置者也、則証文之写 借用申金子之事 合金千両也 但し文字小判也 右之金子此度舟之為取立借用申処実正也、返済之儀者来ル辰年ゟ両季ニ金五拾両宛壱ヶ年ニ都合金百両也来ル丑年迄十年賦無遅滞相済シ可申候、右船々何等之儀有之候共連印之者共急度返済可致候、万一相滞候ハヽ御町内御荷物積支配仕来候、積株相渡シ可申候間於当所右積株御取立可被成候其節一言違礼申間敷候、為後日依而如件 倉田太左衛門印 河合仁平次印 白子兵太夫印 天明三年卯四月 石川庄兵衛殿 長谷川源右衛門殿 長谷川次郎兵衛殿 長谷川市左衛門殿 大和屋九郎左衛門殿 綿屋宗兵衛殿 伊勢屋三右衛門殿 大黒屋三右衛門殿 長谷川六郎次殿 長谷川武右衛門殿 嶋屋六兵衛殿 田端屋次郎左衛門殿 田中次郎左衛門殿 加嶋屋次郎左衛門殿 大和屋三郎兵衛殿 小津権右衛門殿 藪屋四郎兵衛殿 布袋屋善右衛門殿 川喜田平四郎殿 川喜田久太夫殿 永田伊兵衛殿 長谷川次郎吉殿 前書之金子返済之儀毛頭相違無御座候、若相滞候ハヽ我等罷出急度埒明可申候、為後証仍而奥書如件 坂倉小右衛門印 天明三年卯四月 前書奥印坂倉小右衛門名前ニ有之候、然所右之株式我等引請候、依之前書之通毛頭相違無御座、為後証奥書如件 坂倉甚五右衛門印 天明四年辰十月」

去ル寅極月中難破破船は、天明二年(1782)十二月中、大黒屋光太夫船神昌丸の難破した積荷代金について白子積問屋白子兵太夫、倉田太左衛門、河合仁平次の三名から大伝馬町壱丁目太物問屋仲間二十二軒に宛てた覚である。このとき、小津清左衛門分家小津権右衛門が経営していた。

長谷川太物店古帳 差引帳 「覚 一大黒屋光太夫船、天明二壬寅極月荷物積在白子湊出帆仕候所其後帰国へ参り欤以今行方相知不申積合中一同難渋いたし候勿論船頭水主中未タ死生分明ニ候得共仲間相談之上左之通 覚 一金六両 石塔料経堂金 一金四両 乗組中香典 〆金拾両 右之通白子兵太夫殿下向ニ付預遣候、以上 行事頭 長谷川治郎兵衛 長谷川市左衛門 天明四年辰十月六日」

天明四年(1784)十月六日、大黒屋光太夫船神昌丸の行方が分からず三回忌を行っている。太物問屋仲間から江戸に来た時に白子兵太夫に石塔料経堂金、香典を頼んでいる覚である。石塔は、鈴鹿市若松東一丁目の共同墓地に大黒屋光太夫らの供養碑「釈久味霊 南無阿弥陁仏 俗名 光太夫 維時 天明四甲辰年 江戸大伝馬町一丁目 太物店行司頭 施主 長谷川次郎兵衛 長谷川市左衛門」が建立される。 

回向院 勢州白子参州平坂溺死者供養塔「天明壬寅十二月十三日大黒屋光太夫之船名神昌丸出帆於勢州白子津所乗者船頭光太夫水主磯吉等凡十五人時海上風波巳暴漂流於東海数日而不知其所湊泊□年至於俄羅斯国而人以為溺死巳而七年矣為之建塔為後寛政癸丑五月光太夫磯吉告其国王而得帰吾 本邦矣其余或没船中或死彼土或淹彼国云々」

太物問屋大伝馬町組は、海難事故による供養は両国の回向院で施餓鬼供養や供養碑を建立、また海上安全祈願は佃の住吉神社で行うことになっていた。神昌丸の積荷には小津清左衛門江戸店宛の越前のとりのこ奉書が積まれていた(内田吉左衛門家文書)。(小津史料館 小西良明)

2025年3月20日木曜日

宝田恵比寿神社

 宝田恵比寿神社は、太田道灌時代に宝田村に鎮守された宝田神社で、天正十八年(1590)八月、馬込勘解由は江戸に入り徳川家康より宝田村の肝煎りを仰せ付けられ、江戸城拡張により慶長十一年(1606)、大伝馬町創立と共に移り傳馬役兼帯名主 馬込勘解由、同 佐久間善八、傳馬役 赤塚善右衛門、同 舛木七左衛門、同 冨山四郎左衛門、神社もこのとき移転しています。

小津家文書11-51-8 「永代売渡シ申家屋鋪之事 一大傳馬町壱丁目北側西角ゟ弐軒目、表京間拾間裏行町並地尻横幅京間拾間五尺壱寸之我等家屋敷、代金㊞三千両ニ永代売渡シ、名主五人組家屋鋪売主立合、右之金子慥ニ請㊞取申所実正也、此家屋敷ニ付 御公儀様ゟ御構無御座候、其上借金之方へ書入不申候、横合ゟハ不及申、子々孫々ニ至迄違乱申者無御座候、此家屋敷ニ付、何様之出入御座共此加判之我々罷出、貴殿家屋敷ニ紛無之由、急度埒明ヶ可申候、為後日名主五人組加判致永代売券状仍如件 家屋鋪売主 善八㊞ 五人組 又兵衛㊞ 同 伊兵衛㊞ 名主 勘解由㊞ 元禄十七年申三月廿九日 小津清左衛門殿 ㊞㊞㊞ 地主惣三郎殿 小津三四右衛門殿 芝原三郎兵衛殿

(継目)右四人持合屋鋪之内三四右衛門所持分、表京間弐間半裏行町並裏幅弐間半壱尺余之処、竹内四郎兵衛方江代金六百両ニ売渡申所実正也、依之向後私代リ四郎兵衛与四人一所之持合屋鋪ニ罷成候、右古券状ニ拙者宛名御座候ニ付向後不相用候、依之名主五人組継印仍如件 家屋鋪売主 三四右衛門㊞ 五人組 藤九郎㊞ 同 庄兵衛㊞ 名主 馬込勘解由㊞ 元文二年巳四月十六日 小津清左衛門殿 地主惣三郎殿 芝原三郎兵衛殿」

元禄十七年(1704)三月廿九日、佐久間善八が大伝馬町壱丁目の名主を退役し、所有三ヶ所の内一ヶ所を借りている太物仲間四人に売却した証文である。譲り受けたのは松坂の小津清左衛門、相可の地主惣三郎、松坂の小津三四右衛門、津の芝原三郎兵衛である。

元文二年(1737)四月十六日、太物仲間四人持合所有地の内小津三四右衛門が仲間三人に売却する継証文である。小津三四右衛門は、元文五年(1740)まで営業を続けている。立合の名主馬込勘解由はこのときは、苗字が許されている。

大伝馬町壱丁目南側・堀留町壱丁目屋敷図

小津家文書11-7 「証文之事 一貴殿所持堀留町壱丁目西角ゟ五軒目表京間九間裏行町並六間四尺五寸地尻ニ大下水を隔、間口三間奥行四間之添地、但此坪拾弐坪ニ而壱ヶ所此度我等方江別紙本証文之通、永代買求加判之者立合、代金不残相渡申候、然ル処右地面之儀者四方出口無之袋地ニ相成候得共、我等懇望致買求申候、尤是迄堀留町壱丁目惣坪数内ニ有之候間、町入用幷七分積金家守給金其外共出銀被致到来、町役被相勤候通、以来迚茂右拾弐坪丈ヶ之町入用割合出銀致、尤沽券状書改候迄者貴殿方江相渡可申候、右者此度新規沽券状金子引替御渡可被成之処、差支之儀有之候間、別紙之通仮証文を以買請申候、向後万一表地面外江売渡ニ相成、地主相替リ候節者、此証文を証拠ニ致シ、其節之町役人中江調印相頼、沽券状改可申候、為後日証文入置申候、仍如件 升屋七左衛門㊞ 右店支配人 常八㊞ 天保九戌年十月 小津清左衛門殿 店支配人 常七殿」

天保九年(1838)十月、升屋七左衛門支配人常八から小津清左衛門常七宛の証文である。内容は、堀留町一丁目の小津清左衛門地所と升屋七左衛門地所が背中合わせのため一部の土地を升屋七右衛門に譲渡する証文です。升屋七左衛門は、久須木七左衛門の事で、伊勢国から宝田村に移り住んだ人で大伝馬町創立と同時に無沽券で土地を拝領しています。寛永三年(1626)に木綿問屋升屋七左衛門を開業しています。(小津史料館 小西良明)

宝田恵比寿神社べったら市保存会 宝田神社 恵比寿神 御縁起と大伝馬の由来

2025年3月19日水曜日

新高野山 大安楽寺

 大安楽寺(だいあんらくじ)は、東京都中央区日本橋小伝馬町にある高野山真言宗の仏教寺院である。山号は新高野山。本尊は十一面観世音菩薩。江戸三十三観音札所第五番札所。

1872年(明治5年)、この地に燐火が燃えるのを見た五大山不動院の住職であった大僧正の山科俊海は処刑場で亡くなった者たちを慰霊せんと勧進し、1875年(明治8年)に大倉喜八郎、安田善次郎らの寄進を受け創建されたのが大安楽寺である。寺名の大安楽寺の「大」は大倉、「安」は安田の名に由来する。翌1883年(明治16年)には高野山より弘法大師の像を遷座し、新高野山の山号を称した。(大安楽寺 - Wikipedia)

齋藤岩蔵著「お竹大日如来」(昭和四十年)「多賀権蔵氏は、東京都中央区日本橋本町三丁目十番地で町会長、連合町会長の職にある有力者で、半えり問屋。熱心なるお竹如来の信者であります。昭和二十五年、お竹さんの女中姿の木像を彫刻させ、ヱビス神社に合祠していた。毎年十月十九日ベッタラ市のヱビス講祭には多勢の参詣人があってとても盛大であったが、ヱビス神社が古くなって、当時改築中であった為一時佛像を大安楽寺に仮安置してある。

東京日本橋小伝馬町、十思小学校向(小伝馬町停留所下車)住職 山中弘之氏、五月十九日のお竹さんの命日には大安楽寺に数十人の信者が集る由であります。しかしヱビス神社とお竹様とでは神仏混淆の嫌があるので、このまま大安楽寺に安置されることになるかも知れないといっておられました。

昭和三十九年夏 お守りは開運、家内安全、多福延命、於竹大日如来護符、そして裏面には、慈善は国の栄え質素は我家の宝と書いてあります。」

現在も大安楽寺には、お竹さんの女中姿の木像が祀られており、毎年法要が五月に行われています。小津史料館に於竹さん展示コーナーがあります。昭和四十六年(1971年)五月、於竹大日如来保存会は、小津本館ビルの一角に「史蹟、於竹大日如来井戸跡」を建立しています。(小津史料館 小西良明)

猫の足あと 新高野山 大安楽寺

2025年3月14日金曜日

当智山 本誓寺

 浄土宗本誓寺は当智山重願院と号します。小田原本誓寺六世の文賀が、幕府より文禄四年(1595)、八重洲河岸に寺地を拝顔して創建、太田康資(太田道灌の四代の孫)娘英勝院が開基となったといいます。慶長十一年(1606)馬喰町上町へ、天和ニ年(1682)当地(深川大工町)に移転、元禄十二年(1699)には徳川綱吉から寺領三十石の御朱印状を拝領、江戸時代の浄土宗触頭の一つであったといいます。明治六年(1873)には江戸崎大念寺より檀林号が移り、昭和元年(1926)まで檀林格であったといいます(猫の足あと)。

年中諸用控 「一銀子壱匁目之処へ四百銅遣ス 本誓寺 正七 頭□□也 両度□□旦那様名前ニ包」

 (小津史料館 小西良明)

猫の足あと 当智山本誓寺

2025年3月13日木曜日

高輪 庚申堂

 高輪 庚申堂は、「四天王寺」豪範僧都の作と伝えられる青面金剛像を祀っていたとされる。庚申堂は、神仏分離後に「猿田彦神社」に改称され、現在は高輪神社の本殿に合祀。(御朱印神社メモ 高輪神社)

年中諸用控 「一鳥目百銅 高輪 庚申堂 庚申月ニ御札参ル也」

港区の文化財、高輪神社の境内に庚申塔がある。(小津史料館 小西良明)

東京都神社庁 高輪神社

御朱印神社メモ 高輪神社

猫のあしあと 高輪神社

2025年3月12日水曜日

青峯山 正福寺

 青峯山 正福寺(しょうふくじ)は、三重県鳥羽市松尾町にある、高野山真言宗の仏教寺院。山号は青峯山(あおのみねさん)で、同名の山(海抜336メートル)の頂上付近にある。別名は嵯峨御所。海上守護の霊峰として漁業関係者の篤い信仰を集める。

「青峰に参ると風雨の難を免れる」という青峰信仰が広がり、江戸時代中期には廻船業の隆盛により正福寺も栄えた。特に文化・文政期(1804年 - 1831年)に最盛期を迎え、尾張や大坂、伊勢、津から鳥羽港や的矢港へ入港した廻船・問屋によって支えられた。奉納の世話は地元の鳥羽・的矢・河崎・千賀(せんが)・堅子の住民が行っていた。(正福寺 (鳥羽市) - Wikipedia)

正福寺に奉納された扁額『東京大傳馬町 田中次郎左衛門 同新店 長井九郎左衛門 長井宗兵衛 長井三郎兵衛 小津清左衛門 川喜田久太夫 川喜田平四郎 岡本六兵衛 丸山藤助 伊藤次郎左衛門 久須木七右衛門 同新店 勢州 辻林兵衛 森井佐兵衛 中条猪蔵 川口平助 世話人 勢州松坂 川口平助』

扁額は、江戸大傳馬町壱丁目太物問屋と松坂町木綿買次問屋が奉納した。大傳馬町太物店は、田中次郎左衛門 田端屋本店、同 田端屋新店、長井九郎左衛門 大和屋、長井宗兵衛 綿屋 長井三郎兵衛 大和屋 小津清左衛門 伊勢屋 川喜田久太夫 川喜田屋 同 川喜田屋平四郎 岡本六兵衛 嶋屋 丸山藤助 丸屋 伊藤次郎左衛門 伊藤屋利助 久須木七右衛門 升屋本店 同新店 升屋佐太郎の十三軒、木綿買次問屋は、辻林兵衛 森井佐兵衛 中条猪蔵 川口平助の四軒である。
正福寺に鳥羽市指定文化財となっている石灯籠は御影石製の高さ7mの常夜灯であり、「天保八丁酉年五月 海上安全」の銘文が刻まれているが、大伝馬町の太物問屋升屋佐太郎は天保二年(1831)五月に開業しており、石灯籠と同時期に扁額は奉納されたと思われます。

小津家文書9-290-3 「請取申御為替金之事 合金百両也 右此度鰹節其御店へ差送リ申候荷物、船付ヲ以為内金凡代呂物半通御渡し被成候筈致儀諚置候ニ付、此度小津慈源殿取次ヲ以殿様就御用江戸表へ御差下シ被為成候御年貢金之内、書面之金高下為替組勢州松坂ニおゐて奉請取候処実正ニ御座候、右代リ金江戸大傳馬町壱丁目小津慈源殿代伊八殿改ヲ以、御中屋敷御勘定所へ御請取金蔵江御上納被遊候筈ニ候条、伊八殿御差図次第、此手形ヲ以金子御引替御渡シ可被下候、御大切之御金ニ付加判人荷物相改積入候上ハ、船付之通樽数貫目毛頭相違無御座候、万一相違之儀有之候ハヽ、加判人方へ質物取置申候間相弁可申候、為後日之御為替証文仍而如件 長嶋浦 大和屋彦右衛門㊞ 同彦助(花押) 文化元子八月 江戸本町四丁目 大橋太郎次郎殿」
文化元年(1804)八月、小津慈源は、小津清左衛門長保妻で、この時は女戸主である。鰹節の為替手形の証文の事である。大橋屋太郎次郎は、江戸十組の紙・茶問屋のほか鰹節問屋も商っていた。小津清左衛門の向店である。大傳馬町壱丁目小津慈源殿代伊八殿の伊八は、本店支配人である。

小津家文書11-1 「請取申御為替金之事 合金百両也 右者此度鰹節其御店江差送リ申候荷物船付ヲ以為内金凡代呂物半通御渡し被成候筈致儀述置候ニ付此度小津慈源殿取次ヲ以殿様就御用江戸表江御差下被為成候御年貢金之内書面之金高下リ為替取組勢州松阪ニおいて奉請取候処実正ニ御座候、右代リ金江戸大傳馬町壱丁目小津慈源殿代伊八殿改ヲ以御中屋敷御勘定所へ御請取御金蔵江御上納被遊候筈ニ候条、伊八殿御差図次第此手形ヲ以金子御引替御渡し可被下候御大切之御金ニ付加判人荷物相改積入候上ハ船付之通樽数貫目毛頭相違無御座候、万一相違之義有之候ハヽ加判人方へ質物取置申候間相弁可申候、為後日之御為替証文仍而如件 熊野長嶋浦 大和屋彦右衛門㊞ 同彦助印 文化弐年丑五月 江戸本町四丁目 大橋太郎治郎殿」
文化二年(1805)五月、上記と同様である。定期的に鰹節を江戸に送っていたことがわかる。差出人はいずれも熊野長嶋浦 大和屋彦右衛門、彦助で、宛先は鰹節問屋大橋屋太郎次郎である。(小津史料館 小西良明)

伊勢西国三十三所観音巡礼公式サイト 札番 番外 青峯山 正福寺  

2025年3月7日金曜日

岡寺山 継松寺

 岡寺山 継松寺(けいしょうじ)は、三重県松阪市中町にある高野山真言宗の仏教寺院。山号は岡寺山であり、通称・岡寺と呼ばれている。本尊は如意輪観世音菩薩。江戸中期の住職・快雄は、韓天寿による法帖の模刻に協力しており、天寿と親交のあった池大雅が伊勢来遊の折には、同寺へ逗留し書画を残した。江戸後期には、天寿の足跡を訪ねた貫名海屋が一時滞在している。(継松寺 - Wikipedia)

勢国見聞集 「天地之裏ウチ。変更ジテ無常ナリ。唯善ト与悪歴々ト明々ナリ。共ニ為シ二因果ヲ若ク響與ト声トノ或ハ一時熟シテ或ハ三世成ス其ノ悪ヲ。母レ興ス其ノ果ヲ会迎タマウルモ其善ヲ母レ廃スル其ノ報ヲ。維レ誠ナリ。爰ニ作リ金炉以テ留ムルハ梵台ニ幾人。焚香幾スルハ人。攘灾香フツ炉乎ヲ哉ヤ。善因ナル乎哉。安永六年丁酉正月吉辰 勢州飯高郡松 阪岡寺山 継松寺八世快雄敬イテ誌ス 施主 小津長保」嘉永四年(1851)

安永六年(1777)正月、小津清左衛門長保は、継松寺に奉献した銅香炉で、この銘文は韓天寿によるものである。韓天寿は、継松寺の隣に住む中川清右衛門家六代中川長四郎天寿のことで、松下烏石に文徴明風の書を学ぶ書家である。韓天寿はこのとき五十歳頃、長保は二十四歳である。(小津史料館 小西良明)

岡寺山 継松寺 https://www.okadera.com/

2025年3月6日木曜日

報國山 安養院

 報國山 安養院は、知恩院末寺の浄土宗の寺院。

小津家文書24-489 (包紙)「常念仏証文 山崎 安養院」

小津家文書24-488 「常念仏喜捨金証文 一金弐㊞百両也 右者為雲含道慧居士菩提為永代常念仏糧貞円善女喜捨之所慥ニ受納永々無断絶浄行相続可仕候、為後証仍如件 城州山崎 知恩院末寺 安養院㊞ 性海(花押) 勢州松坂 小津清左衛門殿」

宝暦五六年(1755・1756)頃、道慧居士は、六代小津清左衛門長郷、宝暦五年(1755)八月十五日卒、享年三十六歳、貞円善女は、長郷の母玉は、後家で貞圓と名乗っており、この時は六十三四歳である。宛先の小津清左衛門は、長郷の次男安次郎、後長保でこの時は、二歳で家督を継いでいる。常念仏喜捨金証文は、金二百両と大金であった。(小津史料館 小西良明)

どこねっと京都 安養院

2025年3月5日水曜日

星河山 石上寺

 石上寺(せきじょうじ)は、埼玉県熊谷市鎌倉町にある真言宗智山派の寺院である。山号は星河山。本尊は千手観音。(石上寺 (熊谷市) - Wikipedia)

年中諸用控 「一武州熊ヶ谷石上寺荒神札参之節 正五九月 百銅宛」

小津家文書7-233-1 「約定証 印紙壱銭㊞ 一金九百円也 但此引当地綿花磨印九拾個ナシ利子日割金百円ニ付金三銭三厘定メ 右抵当品ヲ以金額正ニ借㊞用仕候処確実㊞也、返済期限者向三十日間ト相定メ時々商況ニ依テ御売捌被成下護品売上代金ヲ以テ漸次返納可仕候、万一期限経過候欤、或ハ売却不足金相生候時者本人ハ勿論証人ノ我等連帯之義務ヲ㊞以テ相償聊貴殿江御迷惑相掛ヶ申間敷候、為後日依テ約定証如件 埼玉縣下武州北埼玉郡長野村七十番地 共盛社 吉野専太郎㊞ 同縣同国同郡忍町大字佐間九拾六番地 証人 根岸清兵衛㊞ 明治廿三年一月十三日 小津清左衛門殿」

明治二十三年(1890)一月十三日、小津清左衛門本店宛の綿花の約定書である。差出人は共盛社 吉野専太郎である。

小津家文書7-233-4 「借用金確証 印紙壱銭㊞ 一金四百㊞円也 右抵当 埼白印正味九貫目入四拾個也 但シ利子日割金壱百円ニ付三㊞銭三厘定メ右抵当品ヲ以金額正ニ借用仕候処確実也 返済期限ハ向三十日㊞間ト相定メ時下商況ニ依リ御売捌被成下候、品売上ヶ代金ヲ以漸次返納可仕候、万一期限経過候欤或ハ売却金不足相生之候時ハ本人勿論証人之我等連帯之義務ヲ以相償聊貴殿江御迷惑相掛ヶ申間敷候、為後日依テ借用約定之証如件 埼玉縣武州北埼玉郡忍町大字佐間九拾六番地 根岸清兵衛㊞ 同町大字成田弐拾三番地 □井清之助 明治廿三年四月十㊞六日 小津清左衛門殿」

明治二十三年(1890)四月十六日、小津清左衛門本店宛の借用金確証である。差出人は、上記の証人 根岸清兵衛である。埼白印は、綿花の商品名である。(小津史料館 小西良明)

猫のあしあと 石上寺

2025年3月1日土曜日

稱光山 華徳院

 華徳院(けとくいん)は、東京都杉並区にある天台宗の寺院。九世紀、慈覚大師円仁によって開山された。元々は下野国佐野(現・栃木県佐野市)にあり、理正院という名称だった。その後、武蔵国霞ヶ関(現・東京都千代田区霞が関)に移り、慶長年間(1596年~1615年)に浅草蔵前天王町(現・台東区浅草橋)に移転した。延享年間(1744年~1747年)に華徳院に改称した。越後安田藩(村松藩)藩主の堀直時の戒名に由来するという。なお、華徳院改称とともに本尊を閻魔大王にしている。かつては太宗寺や善養寺とともに「江戸三閻魔」として知られ、縁日には多くの人で賑わったという。(華徳院 (杉並区) - Wikipedia)

年中諸用控 「一小玉伊ロ位 御蔵前 ゑんま堂 右同断(年頭計) 止メ」

(小津史料館 小西良明)

古今御朱印研究所 華徳院 https://goshuin.net/edo3emma-ketokuin/