2025年2月28日金曜日

華頂山 知恩院

知恩院(ちおんいん)は、京都市東山区林下町にある浄土宗の総本山の寺院。山号は華頂山(かちょうざん)。本尊は法然上人像(御影堂)および阿弥陀如来像(阿弥陀堂)。開山は法然である。正式呼称は華頂山知恩教院大谷寺(かちょうざん ちおんきょういん おおたにでら)(知恩院 - Wikipedia)

年中諸用控 「一京都知恩院万人講 受取過帳戸拵□納 年々金弐分ツヽ本誓寺へお店七ゟ集候」本誓寺は、江戸店の菩提寺称名院の本寺で、江戸の触れ頭であった。

小津家文書21-392 「申渡 一此度願書ヲ以被申出候義幷別紙書之表逸々披見致候処御室御所御金残御拝借□御上様御役所御金御拝借□右体御大切御金何れ之加判ヲ以御拝借被致候義哉、当家江一言之沙汰も無之言語に絶し奉恐入候、殊ニ歳々身分相応之暮シ金差遣置候処右 御公家様奉始諸方莫大之金子拝借被致候所御上様へ奉恐申上難相立仍之左之通申渡候 ケ條一家名 一先祖位牌 一住居建物土蔵三ヶ所 右三ヶ條此度取放致義絶候、家内一同何れへ成共転宅致早々身分引取可申候若異変ニ存候ハヽ御奉行所へ奉訴候事 與次兵衛 天保八酉十二月 市九郎殿 祐祐殿 於沢殿」

天保八年(1837)十二月、小津清左衛門本家から分家小津権右衛門家への義絶申渡状である。與次兵衛は、小津清左衛門長澄、祐祐は、小津権右衛門祐助、於沢はその妻、市九郎は長男である。理由は、本家の相談もなく御室御所(仁和寺)、御上様御役所(紀州藩銀札方など)から莫大な借金をしたことである。

小津家文書24-496 「借財方名前 一金弐百両 銀札方 一同百両 田丸蔵米金金森取次 一同七拾両 右同断太田取次 一同百両 右同断 内弐拾両当十二月廿日納之筋 一同七拾両 弐分口御役所山口取次 一同五拾両 右同断 一同三両 右之利足当冬返納 一同三拾両 御為替金関屋取次 一同百両 三井組銀札方 一同九両 右之利足当冬納 一同五拾両 御為替金一嶋取次 一同五両 右之利足当冬納 一同八拾両 塩□甚助 一同八両 右之利足 一同四拾五両 市場半蔵 一同四両 右之利足 一同弐拾両 正圓寺祠堂金 一同拾五両 右同断 一同弐拾両 指物屋半兵衛 一同弐両 右之利足 一同弐百両 御室御所金播摩屋次兵衛取次 一同六拾両 大坂へ仕切金 一同六十両計当冬掛方 〆凡千三百四拾両 内江凡四十両 当冬□方へ寄□分□ニ□□ 奉手当ニ候事 引〆千三百両 内 十二月十五日 五拾三両 弐分口納 弐拾両余 田丸役所納 廿五六両 所々江利足 六拾両 大坂仕切金 〆凡百六拾両 右是程当節無之候而面相立不申候分 引〆千百四拾両 右惣高千三百両之内江何卒金千両拝借被成下候ハヽ其余衣類□売立候而も為相済可申上候、以上 十二月」

十二月(1837)、上記義絶理由の借財方名前、明細の写しである、紀州藩銀札方から二百両、御室御所(仁和寺)は播磨屋次兵衛取次で二百両など合計千三百両の借入である。小津権右衛門家は絶家となる。小津清左衛門長柱のとき養子を迎え東家として再興している。(小津史料館 小西良明)

浄土宗 総本山 知恩院 https://www.chion-in.or.jp/

2025年2月27日木曜日

霊鷲山 済岸寺

 済岸寺は、臨済宗建長寺派の寺院。小津小右衛門家、小津茂右衛門家の菩提寺である。

小津家文書22-416 (包紙)「南川口地面証文一 土浦店」

小津家文書22-405 「相渡申一札之事 一南川口屋鋪壱ヶ所 表口五十弐間 奥行三十間 旧地尻横十間 田地一枚有 長サ五十弐間 此地面之内貸家貸地都合三拾六軒揚高内ニて御年貢幷諸役普請懸物引去金弐拾両宛ニ年々為登可申候 右者此度勢州松坂表本家相続人御相談出来候ニ付御足労諸入用為手当書面之屋鋪以後本家御書抜被成候趣被仰付別家一同承知仕候、然上者年々揚高之内諸入用指引算用仕、合金弐拾両宛ニ無相違為相登可申候、右御相談取究候上者少茂違背仕間鋪候、為後日連印指上申所、仍而如件 (継)㊞㊞㊞㊞㊞ 小津小右衛門 常州土浦店 支配人 徳兵衛㊞ 後見 同 甚右衛門㊞ 伊勢屋庄兵衛㊞ 別家 同 茂右衛門㊞ 和泉屋茂兵衛㊞ 文化十五年寅五月 勢州松坂西町 小津庄八郎殿 前書之通相違無御座候、以上 名主 大塚甚左衛門㊞」

常州土浦は、松坂の小津三十郎宗心が、中城町に木綿を商いに来たようである。(中城町御用日記に小津三十郎あり)、その後小津清左衛門長生は、三十郎と妻が姉妹で、一時三十郎の家督を継ぎ小津孫太夫となっており、三十郎家を離縁しているが、小津小右衛門に四女常と結婚させており、小津小右衛門夫婦は、土浦で没。享保十二年(1727)十一月に地主七間町の七三郎の貸地の内三十六間に屋敷を建築して、醤油醸造業を始めている。宝暦六年(1756)には、釜屋権八から貸地を購入、宝暦十一年(1761)二月、土浦醤油屋仲間を大國屋勘兵衛ら九人で結成する。

文化十五年(1818)五月、松坂表御本家相続人は、小津清左衛門長澄で、小津庄八は、森嶋家十一代良斎で、小津小右衛門土浦店支配人徳兵衛と別家らが、土浦大川通りの南川口土地屋敷貸家貸、御年貢幷諸役普請懸物引去金弐拾両宛松坂に渡す取極め書である。(小津史料館 小西良明)

霊鷲山 済岸寺 茨城県土浦市中央2-7-3 

2025年2月26日水曜日

高野山 金剛峯寺

 金剛峯寺は、高野山真言宗の総本山。「高野"山"」という名ではあるものの、地理学上の山ではない。高野山内は「一山境内地」といわれ高野山全域が寺の境内地とされ、境内の中に発展した町であり、元来は高野山全体と金剛峯寺は同義である。平安時代の弘仁七年(816)に嵯峨天皇から空海(弘法大師)が下賜され、修禅の道場として開いた日本仏教における聖地の1つである。(高野山 - Wikipedia)

分家二代 小津與次兵衛浄安、享保十一年(1726)、妻豊(四代小津清左衛門長生孫、小津孫太夫長英長女、享保九年三月四日卒 享年二十二歳)の三回忌を営み書置を残し脱走する、紀州熊野及び高野山 金連院に入り僧となる。

五代小津清左衛門長康は、元文五年(1740)、紀州高野山 太師堂に江戸店の隆昌を永代祈祷する。

小津清左衛門長康の妻貞円は、宝暦六年(1756)、道慧(長男、六代小津清左衛門長郷 宝暦五年八月十五日卒 享年三十六歳)菩提のため紀州高野山 金堂へ大香炉を寄進する。

十一代小津清左衛門長柱は、嘉永六年(1853)一月、高野山 蓮金院へ心月院別峯道宗居士(竹川家養子吉三郎)位牌を納める。

(小津史料館 小西良明)

高野山真言宗 総本山金剛峯寺 https://www.koyasan.or.jp/

2025年2月21日金曜日

東大寺 二月堂

 華厳宗東大寺二月堂は、二月堂の名は、このお堂で修二会(しゅにえ)が旧暦の2月に行なわれることから起こっている。良弁(ろうべん)僧正の高弟実忠(じっちゅう)の草創と伝える。寛文七年(1667)の修二会中に堂内から出火、焼失し、現在の建物はその2年後に再建された。(東大寺HPより)

年中諸用控 「一金百疋ヅヽ 二月堂 見性院 一月 五月 九月」(貼紙)「△大へ・・・」

二月堂 見性院の詳細は不明ですが、長谷寺にも「△大へ」とあることから東大寺の二月堂としました。(小津史料館 小西良明)

華厳宗 大本山 東大寺 https://www.todaiji.or.jp/

2025年2月20日木曜日

豊川稲荷 東京別院

 妙厳寺は、正式の寺号は妙厳寺(みょうごんじ)。詳しくは「円福山 妙厳寺」(えんぷくざん みょうごんじ)または「豊川閣 妙厳寺」(とよかわかく みょうごんじ)と称する曹洞宗の寺院である。境内に祀られる秘仏「豊川吒枳尼真天(だきにしんてん)」の稲穂を担いだ姿などから、一般には「豊川稲荷」の名で呼ばれるようになった。豊川稲荷は神社ではないものの、境内の参道には鳥居が立っている。日本三大稲荷の1つとされる。(豊川稲荷 - Wikipedia)

豊川稲荷東京別院(とよかわいなりとうきょうべついん)は、東京都港区元赤坂にある曹洞宗の寺院である。豊川稲荷 妙厳寺(愛知県豊川市)の、唯一の直轄別院(飛び地境内)である。大岡越前守忠相が豊川稲荷から吒枳尼天(だきにてん)を勧請し、屋敷稲荷として自邸で祀ったのを由来とする。(豊川稲荷東京別院 - Wikipedia)

年中諸用控 (貼紙)「明治十九年六月廿三日ヨリ談事之上毎年 赤坂豊川寺代僧ヲ以大般若経ヲ□□也 一金七円五拾銭 奉納 〆外ニ壱円弐十銭 此□計 一御酒 大三 御花弐十三銭宛 小十六 〆□の花 見□ 一赤飯二升 奉納□ 松田や 但し本向店持参遣五円ツヽ出□□□ □明治廿四年□月七日毎□申合□□相承□□□」

(小津史料館 小西良明)

豊川稲荷 東京別院 http://www.toyokawainari-tokyo.jp/

2025年2月19日水曜日

鳥越山 長楽寺

  長楽寺は、鳥越明神社の別当寺 真言宗高野山金剛院の末寺(江戸町巡り-浅草元鳥越宮本町)。廃寺。江戸時代の地名は、浅草元鳥越長楽寺門前町で現在は、台東区鳥越二丁目四番あたりに長楽寺はあった(江戸町巡り-浅草元鳥越長楽寺門前町)。

浅草猿屋町御貸付金会所(札差御改正会所)は、現在の浅草橋三丁目内にありました。

年中諸用控 「一小玉伊ロ位 鳥越長楽寺 年頭計」小玉伊ロは符帳。

小津家文書番号なし 「上納金請取証文 高金三千五百両之内 割㊞一金千両 右是者為 御国恩冥加金三千五百両差出之御融通之内江御差加被成下、御用相済御不用之節、御下ヶ被下置候様相願、願之通被 仰付候ニ付、此度書面之通上納請取之候処如件 文化三年寅十二月 樽与左衛門㊞ 大傳馬町壱丁目 小津屋清左衛門との」

小津家文書番号なし 「上納金請取証文 高金三千五百両之内 割㊞一金千両 右是者為 御国恩冥加金三千五百両差出之御融通之内江御差加被成下、御用相済御不用之節、御下ヶ被下置候様相願、願之通被 仰付候ニ付、此度書面之通上納請取之候処如件 文化四年卯五月 樽与左衛門㊞ 大傳馬町壱丁目 小津屋清左衛門との」

小津家文書番号なし 「上納金請取証文 高金三千五百両之内 割㊞一金千五百両 右是者為 御国恩冥加金三千五百両差出之御融通之内江御差加被成下、御用相済御不用之節、御下ヶ被下置候様相願、願之通被 仰付候ニ付、此度書面之通上納請取之候処如件 文化四年卯九月 樽与左衛門㊞ 大傳馬町壱丁目 小津屋清左衛門との」

寛政元年(1789)、幕府は、寛政の改革の棄捐令の際に札差を救済するために浅草猿屋町御貸付金会所(札差御改正会所)を設立します。

同年四月、猿屋町会所に於いて樽与左衛門は樽名字帯刀を許されます。

同年九月、北町奉行所で札差に棄捐令が申渡されます。町年寄 樽屋与左衛門に運営責任者とし、事務を引請けさせ会所の竣工まで樽屋の役宅を用いること、幕府からの助成金として無利息の御下げ金が二十年賦で出されること、貸付け資金は幕府の御下げ金と御用達町人共の出資金であることなどでした。

文化三年(1806)十一月二十五日、御用金徴収のため大伝馬町木綿問屋小津清左衛門らを呼出し出金強用、小津清左衛門は、上納金三千五百両を三回に分けて上納します。その受領書が上記三点になります。

文化十一年(1814)十二月、樽与左衛門は貸付金引負で自殺したといわれてます。届け出は病気に付養子吉五郎が町年寄を相続しています。(小津史料館 小西良明)

東京都神社庁 鳥越神社

2025年2月15日土曜日

三縁山 増上寺 心光院

心光院は、浄土宗増上寺別院である。別院とは増上寺の隠居寺という意味である。明徳四年(1393)、江戸の「貝塚」(現在の千代田区麹町付近)の地に酉誉聖聰上人が増上寺を開山し、山内に学寮として庵を結んだことからと伝わります。慶長三年(1598)、増上寺は徳川家の菩提寺に定められ、現在地である芝への移転に心光院も随行しました。元禄八年(1695)、徳川二代将軍秀忠公(台徳院殿)菩提のため、増上寺の別院・念仏道場となりました。院内には秀忠公寵愛の白馬を供養した布引観音堂がありました。また江戸庶民にも知られた「お竹大日如来」の流し板が当院に奉納されており、お竹の奇特に感銘をうけた桂昌院(五代将軍綱吉公生母)より、袋と箱が寄進されました。(参照、心光院HP)

「或る時、芝の増上寺の隠居御坊、たまたまたくはつして、佐久間氏が厨外に来り、鉢を乞ふ、その時、走り流しの隅に掛けたりし布袋より、光明を放せしとぞ、上人奇異の思ひを成し、此流しを佐久間氏に乞ひ請、持帰りて、心光院の表門の天井板とす、其後度々変換有りて、今は其古板一枚、心光院の宝物となれり、お竹の像(於竹如来像)も此寺に安置す」(神林尚子著「お竹大日」伝承の生成)

「本堂の中央阿弥陀様の左側のところにお竹如来の木像が安置され、その右に有名な「流し板」が桂昌院が奉納された金襽の冨久佐に包まれ、三つ葵の徳川家の定紋を打った蒔絵の箱に納められてあった。箱は震災で焼けてその後複製したものの由である。お武さんの錦絵も四枚飾ってあった。又 鏑木清方氏が昭和十八年(1943)の文展に出品された「阿竹大日如来」の当時の絵ハガキも飾ってあった。」「又老師(住職)のお話では、良い雇人が授る様にと参詣に見えられる方もあると善徳寺さんと同様のお話をして居られました。」(齋藤岩蔵著「お竹大日如来」昭和四十年(1965))

桂昌院は、寛永四年(1627)生、宝永二年(1705)六月二十二日卒です、於竹さんは、寛永十五年(1638)三月二十一日卒、於竹さんは生前から施しで知られていますから、寛文六年(1666)の正善院に「お竹大日堂」を江戸町人たちが建立した後に「流し板」の金襽の冨久佐、蒔絵の箱が奉納されたのではないでしょうか。

「昭和三十五年(1960)頃、「於竹大日堂」は、俳優・大坂四郎氏の母が、秋田から子連れで上京し、立派に子を育て上げた礼として祠堂を寄進したもの」(神林尚子著「お竹大日」伝承の生成)

(小津史料館 小西良明)

浄土宗 心光院 https://shinkoin.com/

大本山 増上寺 https://www.zojoji.or.jp/

2025年2月14日金曜日

鶏頭山 選擇寺

  選擇寺(せんちゃくじ)は、千葉県木更津市にある浄土宗の寺院。山号は鶏頭山。本尊は阿弥陀如来。室町時代に光明寺を中興した祐崇上人により創建されたという。(選擇寺 (木更津市) - Wikipedia)

江戸両国 回向院で寛永二年(1849)三月、於竹大日如来出開帳が行われました。

選擇寺に於いて、木更津村出身で羽黒山で修行した長傳坊を先達とし、世話人、乙部孫四郎・飴屋長治郎・石井弥三郎の肝煎りで出開帳が行われています。

嘉永二年(1849)八月「於竹大日供養」選擇寺にて出開帳(http://senchakuji.ec-net.jp/rekisi-01_yurai.html#06)、お竹大日供養塔が選擇寺にあります。

小津家文書4-131 「入置申年賦証文之事 去寅年中紙代残金 一金㊞拾弐両也 右書面金相滞候ニ付度々御越被成、御催促ニ御座候得共、右折柄売先掛方多分損毛等出来仕、無拠此度親類共ヲ以種々御詫申上、前書金六ヶ年賦ニ而当巳年ゟ来ル戌年迄壱ヶ年ニ金弐両宛、但し盆暮両度御請取被下度段達而御願申入候処御承知被下忝存候、然上者如何様之義御座候共、一季たり共無相違相済可申候、若亦彼是日限及延引候節者請人方ゟ取替聊相違仕間鋪候、為後日之年賦証文加判入置申候仍而如件 上総国望陀郡木更津 借リ主 惣兵衛㊞ 同所 請人 重五郎㊞ 文政三庚辰三月 小津清左衛門殿」

文政三年(1820)三月、木更津の惣兵衛の紙代金の年賦証文である。宛先は、小津屋清左衛門本店である。

小津家文書4-129 (包紙)「一札入 木更津 河内屋嘉七 年賦」

小津家文書11-2 「年賦金証文之事 一金㊞弐拾両也 仕入紙代金也 右之金子此節皆済勘定可仕之処難渋ニ付再々年賦ニ相願候所御承知被成下千萬忝存候、依之来ル午年ゟ盆暮金弐両宛壱ヶ年合而金四両ニ相定来ル戌年迄五ヶ年限り都合金弐拾両也無相違急度皆済可致候且又御勘弁を以当用之代呂物壱ヶ年金四拾両限り御売可被下候様是又忝存候、然ル上者当用代金之儀者盆後両度皆㊞済急度可致候 右様御世話被成下候上者当用代金者勿論右年賦金若壱季成共相滞候ハ者、本金高ヲ以御懸り被成候共聊申分無御座候、為後日之年賦金証文、仍而如件 上総国望陀郡木更津 借用主 藍屋嘉七㊞ 文政四辛巳年正月 小津屋清左衛門殿 御支配人中」

文政四年(1821)正月、木更津の藍屋嘉七の年賦証文で小津屋清左衛門本店宛である。木更津の紙店に紙を販売していたことがわかる文書である。

(小津史料館 小西良明)

浄土宗 選擇寺 http://senchakuji.ec-net.jp/

2025年2月13日木曜日

豊山 長谷寺 能満院

 長谷寺 能満院は、正徳三年(1713)、もともと求聞持法の霊場として知られた長谷寺に、求聞持堂がないことを憂えた常陸国水戸の宥仲、寛海という二人の僧によって建立された。本尊は虚空蔵菩薩だが非公開で、現在 ではもっぱら、明治時代に中興第一世の海如によって建立された「日限地蔵」の御利益で知られている。(奈良国立博物館,奈良女子大学学術情報センター)

小津商店由来 「九代目清左衛門法名道薀・・・妻法名朝暾院玉室慈光禅尼は七代清左衛門法名道久の四女なり、俗名久満兄太郎次郎法名道関早世のため養子法名道薀を迎へて相続し一男一女を挙げ、後深く仏門に心を寄せ特に大和長谷寺能満院の住職 海如和上に帰依し多数の経典仏書を書写し、文久三年癸亥十二月廿七日卒す、年七十二、法名朝暾院玉室慈光禅尼といふ」

 九代目小津清左衛門長澄 天明五年(1785)八月生~安政四年(1857)四月二十一日卒 享年七十三歳、妻慈光(久満) 寛政四年(1792)二月三日生~文久三年(1863)十二月二十七日卒 享年七十二歳

法華寺佛舎利 「願以此造塔功力三宝吉祥天下太平神祇増減五穀成就無諸災患諸人恙捨悪特善冨饒快楽三途八難衆生離苦得楽小津家先祖代々親眷属庶霊倶証天上菩提子々孫々福壽増長奉事三宝孝養父母家門永久現世吉利後生浄土同倶衆生成天上覚而已塔中奉納南都法華寺御所光明皇后御護持舎利分身五色佛舎利五粒宝篋印陀羅尼一巻開眼供養修法了嘉永七年甲寅年九月十五日授テ小津慈光善姉 長谷寺比丘海如(花押)」

嘉永七年(1854)九月十五日、長谷寺能満院比丘海如和上より小津慈光善姉(久満)は、南都法華寺御所 光明皇后御護持舎利分身五色佛舎利五粒宝篋印陀羅尼一巻を奉戴した。佛舎利は、小津清左衛門家で代々継承されていたが、昭和六十三年(1988)五月に菩提寺 養泉寺に移された。(小津史料館 小西良明)

奈良国立博物館,奈良女子大学学術情報センター  長谷寺能満院

総本山 長谷寺  https://www.hasedera.or.jp/

2025年2月12日水曜日

豊山 長谷寺

長谷寺は、奈良県桜井市初瀬にある真言宗豊山派の総本山の寺院。山号は豊山。院号は神楽院。本尊は十一面観世音菩薩。開山は道明とされる。(長谷寺 - Wikipedia)

年中諸用控 「一金百疋ヅヽ△大へ 長谷寺 一切□□」(貼紙)「一月 五月 九月 △大へ□□ 小遣帳へ付ル 同断」

小津商店由来「五代目小津清左衛門法名道冲・・・大和長谷寺観世音に永代開帳料を寄進し、・・・」 小津清左衛門長康 天和元年(1681)正月二十五日生~寛保元年(1741)九月四日卒 享年六十一歳

小津商店由来「六代目清左衛門法名道慧・・・宝暦四甲戌年〈一七五四〉三月大和長谷寺観世音本堂へ大香炉を寄進せし・・・」 小津清左衛門長郷 享保十五年(1730)十二月三十日生~宝暦五年(1755)八月十五日卒 享年三十六歳 

 (小津史料館 小西良明)

総本山 長谷寺  https://www.hasedera.or.jp/

2025年2月8日土曜日

長光山 陽岳寺

陽岳寺は、臨済宗妙心寺派の寺院。寛永十四年(1637)、御船手奉行 向井忠勝の開基である。(陽岳寺 - Wikipedia) 

干鰯問屋湯浅屋與右衛門支配人小津寅之助夫妻、長男新一の菩提寺である。寅之助の父は代々支配人を務める小津新七家の猪蔵、妻は小津与右衛門の二女きぬ、二男に映画監督の小津安二郎がいます。

本家小津新兵衛家は、小津清左衛門本店支配人を務めた後、湯浅屋に出資し、その後共同経営者、単独経営になり、別名に小津与右衛門を名乗っています。小津新七家は分家になります。本家の菩提寺は、小津清左衛門と同じ曹洞宗養泉寺で、江戸店奉公人菩提寺は、関東大震災までは本誓寺の子院称名院です、震災以後は浄土宗本誓寺になりました。映画監督小津安二郎の墓は、臨済宗円覚寺派の大本山 円覚寺です。

干鰯問屋湯浅屋は、紀州湯浅村出身の岩崎茂右衛門と弟嘉右衛門、同村出身の谷輪与左衛門が共同経営で始めた干鰯問屋で当初は相州浦賀で開業し、その後江戸北新堀に移っています。初代小津新兵衛保教は、伊勢一志郡須賀村で寛文十二年(1672)に生まれ、小津清左衛門江戸店に奉公し、正徳六年(1716)一月に支配人退役し仕分金五百両と小津の屋号をもらい別家となり、松坂の中里善三郎女とめを妻にして松阪中町に居住します。湯浅屋に出資し、谷輪与左衛門離脱後岩崎家と共同経営者となり、店は、宝永五六年(1708・9)頃に小網町に移転。

二代目は、長女とみに延享四年(1747)十一月、甥の中西長之助を婿養子に迎え、小津新兵衛当教となります。

小津家文書14-63 「目録覚 一金弐百拾六両也 右者酉正月二日目録表預リ金高 内 酉正月十八日 一金拾六両者中町ゟ差上ル 差引残金弐百両也 此利金拾六両也 割㊞合金弐㊞百拾六両也 右者横瀧分元利共〆上ヶ金高今日預㊞リ帳面仕置申候、以上 小網町 同藤八㊞ 宝暦四年戌正月二日 小津清左衛門様」

宝暦四年(1754)正月二日、小網町の湯浅屋与右衛門支配人藤八から松坂の小津清左衛門長郷宛の目録覚である。中町は松坂中町で、横瀧分は横滝寺のことと思われます。

小津家文書14-64 「口上 前紙之通御預リ金目録相認差上ヶ申候、乍憚御覧被成下度奉存候、尤利金六拾三両者太物店江相渡シ申候、且又横瀧分利金拾六両ハ中町宗七方ゟ差上申筈ニ御座候、以上 同 藤八 正月六日 小津清左衛門様上」

宝暦四年(1754)正月六日、小網町の湯浅屋与右衛門支配人藤八から松坂の小津清左衛門長郷宛の口上である。目録の内利足は分家の小津屋権右衛門太物店に、横瀧分は松阪中町宗七が返済している。

小津家文書14-58 「一筆啓上仕候、先以其御表、益御機嫌能被為遊御座候段追々承知仕珍重之御儀ニ奉存上候、左様御座候得ハ店之儀年来御本家様之御影を以相続仕来難有仕合ニ奉存候、然ル所御聞及被為下候通近年関東浦々不漁打続申候而仕入方之細商人方共年々損金仕候ニ付段々仕入金相滞気之毒ニ奉存候得共是ヲ相止メ申候而者下地ゟ之仕入残金損失ニ相成申候故無是非年々追貸ニ仕入金用立来リ申候御儀ニ御座候、兼而未ノ冬ゟ去年迄古今無御座不漁ニ而元手金幷ニ諸方ゟ之預リ金も御座候所濱々江貸込必至と難儀仕候、勿論商売躰ニ而取替御座候浦々旅人方此砌見捨申候而ハ互之及不相続申候ニ付去冬中も色々与差繰工面仕候而濱方者相応ニ相続為致候様ニ相働キ申候是以御影故ニ難有奉存候、尤旧冬者近年無之寒□強事、為出申候故是ゟ者浦方も直リ可申様ニ奉存候得共御入金方江利足金大分之儀ニ御座候得共此儀ニ難渋仕、殊ニ細商人之内潰株ニ相成候砌も余程御座候へハ旁以迚も内分ニ而ハ相続相成不申候ニ付心外之至ニ奉存候得共無是非此度御入金方様江年賦之願仕候、依之紀州宅へも先日願状差□シ当地御入金方江も此間ゟ内願仕懸申候就夫権右衛門様江も右御願申上度今日書中ヲ以申上候間定而御披露も御座候而御知得可被為下与奉察上候、今様之品主様江奉入御披覧ニ候御事可奉背御機嫌ニ哉与千万気之毒奉申上通候へ共無是非如斯ニ御座候何分ニも御本家様之御情ヲ不奉請候而ハ相続難相成新兵衛店之儀ニ御座候得者、何事も御免被成下候而新兵衛初店中大勢之者とも御救ひニ思召被為下、偏ニ店相続仕候様ニ奉願上候右願ニ付半七儀紀州江向近日罷登申候間湯浅宅相片付次第其御宅江参上仕、委細之儀ハ半七口上ニ可奉申上候、此度願ニ付、新兵衛も語気ヲ打申候而、御挨拶も可奉申上兼々是又気之毒ニ奉存候、憚多奉存候得共偏ニ御憐愍と思召被為下御情ヲ被為懸被下候様ニ奉願上候、恐惶謹言 同 儀助 半七 長重郎 新七 小津清左衛門様 貴上」

宝暦四年(1754)正月廿二日、宝暦元年(1751)冬より不漁の為店は、難渋しており、湯浅村の岩崎嘉右衛門家(紀州宅、湯浅宅)へ願出、権右衛門様(小津清左衛門分家太物店持主)へ願申上度、松坂の小津清左衛門長郷宛の小網町湯浅屋与右衛門支配人儀助、半七、長重郎、新七からの書状である。

小津家文書14-60 「覚 一金三千両 右者戌亥両年分利足金七百弐拾両御合力 内 金千両ハ右之金半七下着之節返済可仕候、金弐千両ハ年六分之利足ニ而預リ申候、右者来ル子ノ極月晦日ニ利足百弐拾両相渡可申候右之通御請申候上ハ相違仕間敷候、為後日仍而如件 同 新兵衛 半七 惣七 亥六月十三日 小津清左衛門様」

宝暦五年(1755)六月十三日、小網町湯浅屋与右衛門店持主小津新兵衛当教、半七、惣七から借金三千両の小津清左衛門長郷宛の覚である。

小津家文書14-62 「湯浅屋家賃 一金五百両 元黒江町沽券状壱通 一金八百両 材木町沽券状壱通 一金弐千両 新黒江町沽券状壱通 合金三千三百両也 右利足壱ヶ年ニ千両ニ付金六拾五両宛右之通ニ御座候、已上 同彦四郎 十月廿六日 小津清左衛門様」

宝暦五年(1755)十月廿六日、小津清左衛門本店支配人彦四郎から小津清左衛門長保宛の湯浅屋家賃の報告である。このとき長保は幼年三歳であるため甚兵衛が代勤している。後見人は祖母小津貞圓である。湯浅屋は、小網町に店、陽岳寺に近い深川に干鰯売場を開く。沽券は小津清左衛門地所で利足が湯浅屋の家賃と思われます。

深川黒江町、深川熊井町(新黒江町)、深川元町(深川西森下町)などに所有地(明治六年地租改正沽券図から見る小津清左衛門東京所有地)を持つ。

(小津史料館 小西良明)  

SpotTour 【小津めぐり】「生誕地、深川を歩く」in 江東

江東区古石場センター(小津安二郎) https://www.kcf.or.jp/furuishiba/

長光山 陽岳寺 https://www.yougakuji.org/

2025年2月7日金曜日

薬研堀不動院

薬研堀不動院は、真言宗智山派 大本山 川崎大師 平間寺の東京別院。目黒不動、目白不動とともに江戸三大不動として知られている。寺紋は大本山と同様に丸に三つ柏。住職は平間寺貫首が勤める事になっている。(薬研堀不動院 - Wikipedia)

大伝馬町から薬研堀不動院に向かう途中に馬喰町がある、大伝馬町の伝馬役兼帯名主佐久間善八、同馬込勘解由、於竹さん菩提寺 善徳寺は、慶長十三年(1608)~明暦三年(1657)六月晦日まで馬喰町にあった。小津清左衛門長柱は、馬喰町に地所があり、弘化二年(1845)三月廿六日、馬喰町一丁目、二丁目の四ヶ所が類焼した。一丁目の家守は玉屋清兵衛、二丁目は山田屋甚兵衛である。

年中諸用控 「一鳥目三十文 ヤゲボリ不動尊 ヒゴマ 毎月廿八日遣ス」

小津家文書5-189 「借用申金子之事 一金三拾両也 但文字金也 右者商内元手金ニ差支去丑正月夫宇八借用仕候処実正也、尤返納之義者同年三月晦日限ニ相頼置候処、煩ニ付返済延引罷成其上養生不相叶相果候間右金子返納仕候而者又候元手差支甚難渋仕候ニ付、此度相改私借用仕候処相違無御座候、依之済方之義者右之内当金壱両相納残金弐拾九両者当暮ニ金壱両相済来卯年ゟ壱ヶ年金四両ツヽ、酉年迄都合七ヶ年限リ金弐拾八両無相違急度皆済可致候、無利足之□金殊ニ年賦ニ被成下候上者何様之異変有之候共、少茂遅滞致間鋪候、為後日金子借用証文仍如件 横山町三丁目兵三郎店 卯八後家 借主 ちか㊞ 浅草猿屋町家主 後見 源兵衛㊞ 文政元寅年五月 小津屋清左衛門殿 林兵衛殿」

文政元年(1818)五月、小津屋清左衛門本店支配人林兵衛宛の借用証文である。借主は、横山町三丁目の卯八後家ちかである。借金は夫宇八(卯八)の開業資金であるが、返済が終わらないまま死去したため妻ちかの返済証文である。後見人は、地廻り米穀問屋 四十番組の伊勢屋源兵衛である。

小津家文書1-3 「借用申証文之事 一金拾両者来ル七月十四日限可相済対談 一金五拾両者  同十二月晦日限可相済対談 右者紙代金百弐両ト銀五匁九分相滞候ニ付、此度筒井伊賀守様御番所江御訴訟被成、追々御吟味中懸合之上当金四拾弐両三歩ト銀五匁九分当時相済、残金書面之通、七月、十二月両度ニ急度相済可申条、聊相違無御座候、万一相滞候ハヽ両人ニ不抱加判之証人共引受無相違弁済可仕候、為後日仍如件 横山町壱丁目佐兵衛店 借主 善右衛門㊞ 新右衛門町佐兵衛店 引請証人 平右衛門㊞ 右善右衛門家主 家主 同 佐兵衛㊞ 天保六未年三月 小津清左衛門殿」

天保六年(1835)三月、小津清左衛門本店宛の借用証文である。借主は同じ十組紙問屋に加入している横山町壱丁目の伊勢屋善右衛門。紙代金の返済は、南町奉行所 筒井伊賀守様へ訴訟を行って支払い期日が決まった。

小津家文書6-210 「借用金ノ証 (印紙五十銭㊞印紙五十銭) 一金五百五拾円也 但シ無利息之事 右之金額正ニ借用申処確実也、返済方之義者本年五月三十日ヨリ各月毎金六円宛ニト決定シ来ル明治弐拾年十二月三十日限リ向九拾弐ヶ月之間其都度無遅滞皆済可致候、万一壱度成共延滞ニ及候ハヽ、前条更ニ取消出金一時皆済可仕候定約聊相違無之候、依而借用金証書如件 日本橋区横山町弐丁目九番地 借主 千金良甚右衛門㊞ 明治十三年四月一日 小津清左衛門殿」

明治十三年(1880)四月一日、小津清左衛門本店宛の借用証文である。借主は千金良甚右衛門である。三川屋甚右衛門の名で横山町二丁目に店があった。借用は綿代金である。(小津史料館 小西良明)

川崎大師東京別院 薬研堀不動院 https://www.yagenborihudoin.com/

2025年2月6日木曜日

明顕山 祐天寺

祐天寺は、浄土宗の寺院である。享保三年(1718)の春ごろから増上寺三十六世住持の祐天の体調が悪化したため、弟子の祐海は祐天が常念仏を行える廟所を探す。しかし同年七月十五5日に祐天が亡くなる。祐天が廟所を目黒の地に建立することを望んでいたこともあり、祐海は同じ目黒にある善久院を金百両で購入し、住職となる。損傷の激しい善久院に祐天の廟所と常念仏堂を建立再興した。享保八年(1723)一月十三日、祐天寺の寺号が正式に許可される。祐天を開山とし、祐海は第二世となる。(祐天寺 - Wikipedia) 

祐天寺 論文には、伊勢国松坂を中心とした祐天信仰『佛教文化学会紀要』(令和4年12月)があります。

白子組海難碑 「文政二年十一月 勢州白子広寿丸芳蔵船乗組中国所名前(十四名) 南無阿弥陀仏 天下和順 日月清明 祐天寺祐東(花押) 夫れ仏の大非は偏へに苦者にあり常没の衆生を愍念し玉ふこと水に溺るゝ人を急ぎ救玉ふごとくなりとこゝに広寿丸といへる船文政二卯年十一月四日勢州白子を乗いでしに遠江灘てふ所にて同月十八日俄に難風吹起り翌十九日になりぬれども猶はげしくすさまじさなどいふべくもあらねば乗合十四人のもの行衛も知れずなりにきまさに姿婆苦海沈没のありさまかなしむべし是により施主の人々いたく哀み石をきざみ当寺に建て永く菩提を弔ひ深く阿みだ仏の悲願を仰ぐ豈弘誓の船救わざらんや 我今瞻比福廻生安楽土と云爾願以此功徳 平等施一切 同発菩提心 往生安楽国 文政四辛巳天 七月造立之」

文政四年(1821)七月、白子組太物問屋仲間海難供養碑を建立。文政二年(1819)十一月に勢州白子湊の広寿丸芳蔵船乗組中の十四名の海難事故の供養碑で三回忌に建立されました。白子組は、伊豆蔵屋吉右衛門、大黒屋三郎兵衛、柏原孫左衛門、恵比寿屋八郎左衛門、大黒屋吉右衛門、枡屋九右衛門、嶋屋半兵衛、越後屋八郎兵衛、白木屋彦太郎、大丸屋正右衛門、蔦屋市郎左衛門、槌屋幸助の十二軒、呉服店を本店とする太物仲間です。大伝馬町組は、両国の回向院で供養碑を建立しています。

百萬遍講中永代石碑 「南無阿弥陀佛 祐天(花押) 明顕山祐天寺九䇛西誉祐東(花押) 江戸金吹町 発願主鍵屋善助 文政四辛巳歳正月十五日造 日本元禄中、我開山大僧正祐天尊者徳行高輝 以光明名号専摂化十万、一時師在三縁山 憲廟曰、師也所書阿彌陀宝号験有七難遄銷之利、未知果然邪、師欽白、実爾経有之、佛告彌勒、其有得聞彼佛名号、乃至一念此人為得大利、是彌陀弘願之力人間信受之功水月感応之徳、豈敢貧道之術乎、今江戸金吹街有鍵屋善助者、性履信修善、嘗奉事師之手筆名号猶謁真影也、或病悩困厄事或臨終錯乱者自利利它、皆修百萬念佛会至誠悃禱寫、則獲安楽如影響矣、善助覩此霊異信仰愈益進、則為報恩摸此名号刻于巨石、以謀不朽同得善利者随喜助費此碑速成建之師之塔前、亦復不可思議無上功徳也乎哉 文政辛巳春三月十五日、現住沙門祐東識之」碑文には、小津清左衛門、大橋太郎次郎ほか七百名の銘がある。

文政四年(1821)正月十五日の建立、当主 小津清左衛門長澄、本店(小津清左衛門)支配人 林兵衛、向店(大橋太郎次郎)支配人 松兵衛の時である。太物店は、文政二年(1819)十一月に小津権右衛門から伊勢屋権右衛門に屋号を変更しており、分家小津権右衛門祐助からは寄進していない。(小津史料館 小西良明)

明顕山 祐天寺 http://www.yutenji.or.jp/

2025年2月5日水曜日

大伝馬町八雲神社

 大伝馬町八雲神社 神田明神拝殿左側にある境内社

長谷川木綿古帳差引帳 「覚 一金三拾両也 天王様江寄進金内金拾両ハ午盆後証文金也 右者今般神輿御修覆ニ付度々御頼申参候間仲間相談之上寄進いたし遣候、尤町金ニ而祭当番江相渡申候、以上 行事 綿屋惣兵衛 伊勢屋三右衛門 安永七年戌四月九日」

安永七年(1778)四月九日、御神輿の修覆のため寄進した覚である。

長谷川木綿古帳差引帳 「覚 一天王様絹幟弐拾本先年奉納いたし候御祭礼之砌幟持人足ちん之儀是迄町入用之内ゟ出金有之候、然ル処此度月行事衆ゟ願ニ付一統評儀之上已来右入用町金ゟ壱両宛出し可申候筈ニ相談取結申候、為念相記置候、以上 行事頭 竹内四郎兵衛 布袋屋善右衛門 天明八年申六月」

天明八年(1788)六月、絹幟弐拾本奉納し、祭礼の幟持ち人足賃についての覚である。

長谷川木綿古帳差引帳 「覚 一金三両弐分弐朱也 右ハ天王様太鼓図鳥修覆有之候ニ付祭当番家主中ゟ寄進いたし呉候様おたのみ参候而町内相談之上右金子町金より奉納仕候、以上 行事頭 川喜田久太夫 長谷川次郎吉 寛政六甲寅六月」

寛政六年(1794)六月、太鼓図鳥(諫鼓鶏の山車太鼓)修覆代を奉納した覚である。神田祭の神幸祭 諫鼓鶏の山車

奉納天水桶 「深川大島の鋳物師・太田近江大掾、藤原正次(通称・釜六) 大伝馬町 太物問屋中 天保十己亥六月」

天保十年(1839)六月、天水桶を大伝馬町太物問屋仲間が奉納。この時の仲間は、伊勢屋清左衛門、布袋屋善右衛門、川喜田久太夫、伊藤屋利助、長谷川次郎吉、宮嶋屋與兵衛、長谷川源右衛門、丹波屋次郎兵衛、大和屋九郎左衛門、綿屋惣兵衛、川喜田平四郎、大黒屋三郎助、戎屋六郎次、亀屋武右衛門、丸屋藤助、嶋屋茂三郎、升屋七左衛門、升屋佐太郎、田端屋次郎左衛門本店、新店、大和屋三郎兵衛、奈良屋伊右衛門の二十二軒である。(小津史料館 小西良明)

神田明神・御朱印 神田明神「大伝馬町八雲神社」