秋葉寺はもともと新義真言宗であったが、寛永ニ年秋葉寺は曹洞宗に帰属し、可睡斎の末寺となった。貞享ニ年の貞享の秋葉祭り以降、秋葉権現は火難除けの神として広く知られ、全国各地に秋葉講が結成されて、遠州秋葉参りが盛んになった(秋葉権現 - Wikipedia)
伝馬役伊東平左衛門宗仲は、慶長十一年に兼帯大傳馬町名主となり、元和元年五月大坂表より御凱陣遠州浜松宿御馬込橋で御目見江し五百人の人足を引き連れ家康を迎えた、喜んだ家康から伊東苗字から地名馬込に上意、夫より馬込勘解由と名乗ます。
秋葉寺はもともと新義真言宗であったが、寛永ニ年秋葉寺は曹洞宗に帰属し、可睡斎の末寺となった。貞享ニ年の貞享の秋葉祭り以降、秋葉権現は火難除けの神として広く知られ、全国各地に秋葉講が結成されて、遠州秋葉参りが盛んになった(秋葉権現 - Wikipedia)
伝馬役伊東平左衛門宗仲は、慶長十一年に兼帯大傳馬町名主となり、元和元年五月大坂表より御凱陣遠州浜松宿御馬込橋で御目見江し五百人の人足を引き連れ家康を迎えた、喜んだ家康から伊東苗字から地名馬込に上意、夫より馬込勘解由と名乗ます。
戸隠山勧修院顕光寺は、平安時代から鎌倉時代まで全国にその名を知られた修験道場戸隠十三谷三千坊で多くの修験者や参詣者を集めた。江戸時代は、徳川家康から朱印高千石を与えられて「戸隠山領」が成立。東叡山寛永寺の末寺となり、次第に農業や水の神としての性格が強まり、山中は次第に修験道場から門前町へと変貌してる。明治時代は、明治政府によって神仏分離令や修験宗廃止令のため、戸隠山顕光寺は寺を分離して戸隠神社となる(戸隠神社 - Wikipedia)。
年中諸用控には、「一鳥目金百銅 信州戸隠様」(貼紙)明治廿八年改正金三拾銭から改五拾銭となっている。「一金百匹 戸隠講 四月講寄之節持参ス 講元升屋太兵衛両国青柳也」四月、戸隠講の寄合に金百疋を持参している、講元升屋太兵衛は、本町一丁目に繰綿・下り蝋燭店を持つ両国に住む青柳氏である。
小津家文書4-168 (封筒)「信濃商会設立変リ証書」(証券界紙)「証 今般信濃商会設置之儀ニ付、唯差引上之御約定ヲ以及調印被下度候也、然ル上者社件ニ付不都合等出来候而も決テ貴店へ御迷惑相掛ヶ申間敷候、依テ為引上趣意如件 信濃国小縣郡上田町商会惣代徳嶋武之助㊞ 石森又四郎㊞ 明治十五年二月廿七日 小津清左衛門殿御支配釜田栄蔵殿」釜田栄蔵については鹿野山神野寺を参照。
小津家文書1-24 (封筒)「為替証書入 大信堂紙店」の他に明治四拾五年子六月六日、紙商信州上田松尾町大信堂紙店の紙代金の証書三点がある。
小津家文書2-38 (封筒)「証書壱通 青島信松」「借用金証書」は、大正二年四月弐日、長野縣小縣郡上田町の青島氏の借用書である。(小津史料館 小西 良明)
京都愛宕山から十月頃に江戸へ来られ、江戸からは、愛宕講として京都愛宕山へ参詣している。白雲寺は、愛宕権現を祀る白雲寺と知られていた。白雲寺は明治に廃寺となり、愛宕神社は愛宕さんと呼ばれている。
年中証用控には、「金三百疋 京都 愛宕山 正五九 十月頃御下向之節指上ル也 尤翌年右三ヶ月ト印遣ス」十月に京都から来られた時に正月、五月、九月の三ヵ月分を渡している。
小津清左衛門本店、大橋屋太郎次郎向店の芝愛宕山愛宕講は、芝愛宕 円福寺をご覧ください。
小津清左衛門長柱は、松坂の愛宕山竜泉寺によく参詣しています(長柱日記)。
高野山真言宗 愛宕山竜泉寺 https://r.goope.jp/atagosanryusenji/
小津清左衛門長康は、元文五年(1740)、紀州高野山太師堂、上総の鹿野山に永代祈祷料三十両を納め、江戸店の隆昌を祈祷する(小津商店由来『松阪市史第十二巻』)。
年中諸用控には「 一金五両也 鹿野山神野寺 常燈明油代 一金三両也 同所 月並御祈祷料 国年金百疋増 一金百匹 同所 店初穂 一金百疋 同所 講中 初尾 但し集銭之内ニ而包残銭預り増 外ニ青銅弐十疋 舟賃也 此分も講中集銭之内ゟ出ス 右之通私拵毎年三月廿五日出立」とある。毎年三月に鹿野講があり江戸から参詣していた。
小津家文書23-466 (包紙)「寄附金 鹿野山 金拾壱円入 請取書入」
小津家文書23-467「第十五号 証 一金拾㊞壱円也 右ノ金奉納被成正ニ落掌候也 鹿野山事務所㊞ 明治十七年七月廿一日 釜田栄造様」明治十七年(1884)七月二十一日。
小津家文書23-468「受領証 一金弐拾円也 右御奉納金正請取候也 鹿野山事務所庶務課㊞ 明治十七年七月廿一日 釜田栄蔵殿」
![]() |
| 鹿野山神野寺 令和8年(2026)1月18日撮影 |
釜田栄蔵は、慶応元年(1865)初登り、子供衆から元服、金之助改名栄蔵(小津家文書11-27「奉公人請状之事」)、明治十三年(1880)に小津清左衛門本店支配人(小津家文書10-322「委任状之事」)、明治十四年(1881)二月に渋沢栄一推薦で東京商法会議所に入会、同年六月に退会、小津清左衛門長篤は、明治十一年(1878)創設時議員、明治十二年(1879)二月に出席致し難く除名退会している(渋沢栄一記念財団「渋沢栄一伝記資料」)。 (小津史料館 小西 良明)
真言宗智山派 鹿野山 神野寺 https://jinyaji.web.fc2.com/
三峯山は聖護院派天台修験の関東総本山観音院 高雲寺で「三峯大権現」と呼ばれていた。また梅松院も本山修驗、京都聖護院の末 梅林山龍王寺(梅松院)と号し、水を得るため古寺鍾乳洞に籠って人大龍王の霊験を得た役行者が、自ら龍王の像を彫刻して祀った草庵に始まり、霊場としてしばしば行者の訪れるところとなっていたが、明治維新後の神仏分離に際し、修験宗廃宗とされたため高雲寺、梅松院は廃寺となり、三峯神社、下古寺天満天神社となっている(三峯神社 – Wikipedia、猫の足あと)。小津家文書に下古寺村(埼玉県比企郡小川町下古寺167)の梅松院の記録がある。
小津家文書3-97 「金子預リ手形之事 一金三拾両(㊞)也 但シ文字金也 右金利分を以大般若転読幷護摩供修行天満宮造栄自坊致修覆余力有之候ハヽ、聖護御門主御継目大峯修行官位昇進之助成ニ為可致仙海被附置候、右本金入用之節者何時成共相(㊞)渡可申候、為後日金子預リ手形仍而如件 文化己巳二月三日 丸屋金兵衛㊞ 梅松院仙海様」 文化六年(1809)、大傳馬町壱丁目小津清左衛門の家守丸屋金兵衛が梅松院仙海宛に差出した文書であるが、印があり写しでないことから差出ていない可能性がある。
小津家文書8-263 「御請書 一金弐(㊞)拾両也 右者天満宮為永代護摩料御奉納被下慥ニ請(㊞)取幾久敷致神納候、以上 慶応三卯年十一月 武州小川古寺梅松院㊞ 小津清左衛門様 大橋太郎次郎様 伊勢屋清左衛門様」 慶應三年(1867)に梅松院から小津清左衛門江戸店三店に宛てた請書である。
下古寺村は、旗本肥田十郎兵衛の知行所で、文化十四年(1817)には高六一石余、反別は八町二反余、家数二十・人数百九、うち十軒が紙漉を行っており、前出紙舟役のほかに紙売出役銭四八文を納めていた(下古寺村-コトバンク)。
下古寺天満天神社は、明治には村社となっている。現在は、手水舎に太宰府天満宮と同じ梅花紋があり、鳥居の両端には八大龍王宮の石塔、鳥居の左側に伊勢大廟参拝記念石柱が二本、社号標村社天神天満宮、境内には、拝殿横に梅林山の扁額かかかり、境内社に八坂神社がある。細い注連縄が鳥居と拝殿にあるが紙垂はなく、石段も落葉が積り管理されていないようである。行者が使っていた古寺鍾乳洞は埼玉県指定天然記念物文化財となっている。
(小津史料館 小西良明)
参考
猫の足あと https://tesshow.jp/saitama/ogawa/shrine_fltera_ten.html
コトバンク 下古寺村
Omairi 下古寺天満天神社 https://omairi.club/spots/130247
福井県文書館(X0025-02725)に奉書紙目録の古文書が公開されています。
内容は、越前岩本の問屋小林清左衛門から江戸紙問屋小津清左衛門、惣七に宛てた「奉書紙目録」です。
奉書紙目録
一 大広 三束入 弐櫃 (大広奉書)
四百七拾三両 御誂漉
五百〇九両 此分天地人印 壱束宛
〆
一 真政 四束入 六櫃 (本柾 大奉書)
五百拾壱両 別誂漉
五百拾三両 御誂漉
五百拾四両 同断
五百拾八両 別誂漉
五百拾九両 同断
五百弐拾両 同断
〆
一 真間 六束入 壱櫃 (間柾 中奉書)
五百弐拾四両 別誂漉
〆
都合九櫃也
右之通に御座候、以上
小林清左衛門㊞(越州岩本)
申九月
小津清左衛門殿
惣 七殿
解説
紙荷物は、越前から白子湊で船積みされて江戸に運ばれます。
目録は、合計9箱、4,601両と大金の契約であることが分かります。
誂物(あつらえもの)は、幕府・福井藩の御用紙をはじめ、諸家・諸寺社からの注文により漉いた紙です。
小津清左衛門の江戸店紙店は、小津屋清左衛門、大橋屋太郎次郎があり、主に小津屋は、紀州藩などに、大橋屋(元伊勢御師の紙店)が寺社に販売していたと思われます。商物(あきないもの)は、東日本各地に販売しています。
宛先が小津清左衛門、惣七とあるので小津屋清左衛門、支配人惣七になります。
小津史料館 小西良明