住吉大社の祭神は、伊弉諾尊が禊祓を行われた際に海中より出現された底筒男命・中筒男命・表筒男命の三神、そして当社鎮斎の神功皇后を祭神とします。仁徳天皇の住吉津の開港以来、遣隋使・遣唐使に代表される航海の守護神として崇敬をあつめ、また、王朝時代には和歌・文学の神として、あるいは現実に姿を現される神としての信仰もあり、禊祓・産業・貿易・外交の祖神と仰がれています。(住吉大社の祭神の由緒)
年中諸用控 「一金□疋 堺 住吉様 正月□毎年〇叶ゟ神納ス 但し此分仕切江加入」〇に叶は屋号で、藪屋竹内四郎兵衛(松坂住の江戸店太物店)である。
小津家文書10-319-9 「改年之御慶不可有休期目出度申納候、先以其御地御揃愈御安泰可被成御越年珍重之御義奉存候、随而当方無異嘉年仕候、乍憚御安意思召可被下候、誠ニ右年始之御祝詞申上度如斯御座候、猶期永日之時候 恐惶謹言 小津清左衛門長(花押) 正月五日 神田七左衛門様 参上候事」
安政二年(1855)正月五日、松坂にいる小津清左衛門長柱から大坂の神田七左衛門に宛てた年始挨拶である。神田七左衛門は、先代小津清左衛門長堯の長男鈴松で、養母は、長柱の妻 志賀である。大坂今橋町の神田七左衛門家に養子となり家督を継いでいた、安政五年(1858)九月十四日卒。神田七左衛門の店は、今橋一丁目 諸紙積 堺屋七左衛門。
小津家文書4-124 「以書付御礼御詫奉申上候 一金五百両也 右者前々請下申候鰹節其外大損相嵩候ニ付、当春中和解仕奉歎願候所、前書金子御増金御聞済被成下置候難有仕合奉存候、則先便為替ニて取組候間何卒日限之通御済方偏ニ奉願上候 一前書歎願之儀ニ付、昨寅年四月勢州御本家様へ直々奉願上候儀、何分大損相嵩堺屋七左衛門殿方ヘ何共申訳無御座、心痛途方暮罷居候所、貴節御節役 保兵衛様勢州表へ御登り之由承り前後不弁幸之事とぞんじ七左衛門殿方ヘ相談茂不仕㊞御店様をさし越御本家様へ歎願仕候儀、全大損ニて心配乱仕居候哉、右様不調法仕候段重々奉恐入候ハヽ後悔罷在候、右ニ付今後諸事急度相慎候間何卒是迄心得違之段幾重ニ茂御仁免被成下度偏ニ奉願上候、以上 堺屋七左衛門 節方 阿波座弥蔵㊞ 慶応三卯年六月十二日 小津御店 御支配人様 御店 御衆中様」
慶応三年(1867)六月十二日、今橋一丁目の堺屋七左衛門諸紙積店(神田七左衛門)の鰹節担当の阿波座弥蔵から小津本店支配人仁兵衛宛の詫び状である。節役 保兵衛は、明治四年(1871)に本店支配人となる宮村保兵衛である。
小津家文書番号なし 「一札 一㊞㊞㊞㊞私義 荷物積入可申約定を以、前金借用仕候処実正也、荷物積入差引可仕筈之折柄、外借財方ゟ厳敷取立ニ相成、不得止事休業ニ至実ニ難渋罷在無拠荷物積入方不行届之次第重々恐入候、附而者其以不相済儀ニ者御座候得共、右金子割済之儀相願尚従前之通御取引被成下度、且者手元改革相続仕度宗種々御頼談申上候処、格別御勘弁を以夫々御聞済被成下一同難有仕合奉存候、然ル上者 ㊞㊞㊞㊞ 毎年割済金聊無遅滞返済可仕候儀者勿論、已後者諸事不都合無之様急度相心得可申、若不当之仕儀有之候ハヾ、如何様之御取計被成候共其節一言之申分無之候、為後日一札、依而如件 大坂府下東大組第拾弐区 高麗橋弐丁目 紙屋嘉兵衛㊞ 大坂府下東大組第拾弐区 北浜通弐丁目 紙屋佐七㊞ 大坂府下東大組第弐拾区 安治川通南壱丁目 柏屋勘太郎㊞ 明治五年壬申六月 小津清左衛門殿 佐兵衛殿 前書之通御聞済之上、従前之通御取引被成下候段難有仕合奉存候、積方之儀者相成丈丹誠可仕候間万端格別御引立之程奉願上候、附而者甚以申上兼候得共為替金之儀者荷物着何卒御渡方被成下度、此段奉願上候、以上 紙屋嘉兵衛㊞ 明治五年壬申六月 小津清左衛門殿 佐兵衛殿」
明治五年(1872)六月、小津本店宛の紙屋嘉兵衛、紙屋佐七、柏屋勘太郎との船への荷物積込の一札である。江戸時代は、大坂で紙を入札し十組の菱垣廻船に紙積み込むまでの取引である。菱垣廻船の海上安全祈願は、佃嶋の住吉神社に、また海難事故は、大伝馬町組は回向院、白子組は祐天寺に施餓鬼供養や供養碑を建立した。
住吉大社には奥の院 開口神社(あぐちじんじゃ)、御旅所 宿院頓宮があります。写真は、開口神社境内にある三好元長戦死跡碑です。小津清左衛門家は三好家の末裔で、初代三好隼人祐長年(不明~1584)は、四代三好長秀(1479~1509)の孫(三好氏家記には三好義長ヨリ四代ノ孫)、三好元長(1501~32)の子(三好家記には三好筑前守長基ノ子)とあります。三好家の初代は三好義長で、六代の三好長慶(1522~64)は、五代三好元長の菩提を弔うため南宗寺を建立しています。 (小津史料館 小西良明)住吉大社 https://www.sumiyoshitaisha.net/
開口神社 https://aguchi.jp/
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