2025年4月4日金曜日

豆州 石室山

 石室神社(いろうじんじゃ、いしむろじんじゃ)は、伊豆半島の最南端に位置する石廊崎の突端付近、静岡県賀茂郡南伊豆町石廊崎にある神社。石廊権現(いろうごんげん)や石廊崎権現(いろうざきごんげん)とも呼ばれる。神仏習合の金剛山石室権現として人々の崇敬を集めた。江戸時代には韮山代官所を通じて徳川幕府から米2表の寄進を受けたという。伊豆七不思議のひとつで当社にまつわる「石廊崎権現の帆柱」の伝説が生まれたのはこの時代であるとされる。明治初期の神仏分離により石室神社と称するようになった。(石室神社 - Wikipedia)

長谷川木綿店古帳 「覚 一豆州石室山石燈籠寄進一昨年中ゟ願来り□□候所此度神主出府願来候ニ付一同相談之上左之通 一金五両也 出方余時丁金ゟ 右之通□附金相渡候事 行事 大黒屋三郎助 蛭子屋六郎次 天保九年戌四月」

大伝馬町太物問屋仲間が、豆州石室山に石燈籠を寄進した覚である。石室山は、金剛山石室権現のことと思われる。(小津史料館 小西良明)

南伊豆町観光協会 石室神社と熊野神社

2025年4月3日木曜日

加太 淡島神社

 加太 淡嶋神社(あわしまじんじゃ)は、和歌山県和歌山市加太にある神社。全国にある淡島神社・粟島神社・淡路神社の総本社である。人形供養で知られ、境内一円に全国から奉納された2万体にも及ぶ無数の人形が並んでいる。江戸時代には、淡島願人(あわしまがんにん)と呼ばれる人々が、淡島明神の人形を祀った厨子を背負い、淡島明神の神徳を説いて廻ったため、淡島信仰が全国に広がった。(淡嶋神社 - Wikipedia)

長谷川木綿店古帳 差引帳 「覚 一此度紀州加田淡島大明神、本所回向院ニおいて開帳ニ付御着当日迎イニ出呉候様紀伊様御勘定所ゟ□印元両行事江御願有之、いせ去々おいて組之相談有之由処無拠儀ニ付組々割振致シ十組一統ゟ弐百人余も増上寺御参納迄迎ニ罷出候、町内之儀無拠ニ付一同相談之上行事五人平四人同様迎ニ罷出候事 行事 大黒屋三郎助 蛭子屋六郎次 天保九年戌五月」

「覚 一加田淡島大明神開帳ニ付十組ゟ開帳中取持ニ罷出呉候様紀伊様ゟ御願有之達而御断申上処□而御頼ニ付組々いせ云々□へおいて相談之上四徳印両行事十一組丈ヶニ而日々八人宛罷出可申□取懸り当組内之処茂当り日々両人宛罷出候事、尚又上ヶ柄之儀も紀伊様ゟ御願ニ付両行事ニ而取計奉納致候事 行事 大黒屋三郎助 蛭子屋六郎次 天保九年戌五月」

天保九年(1838)五月、紀州加田淡島大明神の本所 回向院において出開帳の覚である。紀州藩の勘定所より御願いがあり江戸十組問屋からは、行事五人平四人が増上寺で迎え、回向院の開帳中は八人づつ対応したようである。天保九年五月十五日より六十日間 淡島神社 神宝・虚空蔵菩薩 出開帳は、回向院において行われた。(小津史料館 小西良明)

加太 淡島神社 https://www.kada.jp/awashima/

2025年4月2日水曜日

井の頭弁財天

 井の頭弁財天は、都立井の頭恩賜公園内・井の頭池にあり、本坊は天台宗 明静山 大盛寺である。

弁天堂の周囲には、宇賀神像(年代不詳)、1771年(明和8年)の狛犬、手水鉢、1817年(文化14年)の石橋(一番組・湯屋講寄進)、1833年(天保4年)石燈篭(伊勢屋伊兵衛=現・にんべんら寄進)、など多くの寄進物が見られ、弁天信仰が盛んであったことを感じられる。(大盛寺 - Wikipedia)

長谷川木綿店古帳 差引帳 「覚 一井の頭弁財天四神殊已前当仲間ゟ奉納致有之趣、此度開帳ニ付右□□寄進願来り、昨十二月金拾両也奉納致候処猶又右之播茂□□敷趣を以□□願来無拠儀ニ付一同相談之上左之通 一金八両也 出方余時町金ゟ右之通致奉納世話人舛屋家主善兵衛殿江相渡候事 行事 大黒屋三郎助 蛭子屋六郎次 天保九年戌二月」

天保九年(1838)二月、井の頭弁財天の四神開帳に大伝馬町太物仲間より奉納金を世話人 舛屋家主善兵衛に渡した覚である。天保九年五月十五日より六十日間 井ノ頭弁財天開帳は、大盛寺において行われた。(小津史料館 小西良明)

井の頭弁財天 https://www.inokashirabenzaiten.com/

2025年3月28日金曜日

深川本誓寺地中 江月院

 深川本誓寺地中 江月院は、浄土宗 本誓寺の子院。

小津家文書5-202 「奉公人請状之事 一此捨吉与申者生国ゟ能存慥成者ニ付、我等請人ニ罷立当午年ゟ丑年迄中年八ヶ年季給金弐両ニ相定、貴殿江手代奉公ニ差出シ申処実正(㊞)也 一御公儀様御法度之儀者不及申御家之御作法為相守可申候、若取逃欠落等致候ハヽ早速当人尋出シ取逃之品相改、我等引請相弁可申候、且諸勝負事堅為致申間敷候事 一宗旨之儀者代々浄土宗深川本誓寺地中江月院旦那ニ紛無御座候、若御法度之宗門抔与申者御座候ハヽ、右寺僧何方迄茂罷出申訳可致候事 一金銀御預ヶ被成国江買物等ニ被遣候節、又者御当地ニ而も取引ニ被遣候節、勘定相違引負等致候ハヽ、我等引請相済シ(㊞)貴殿江少も御損御苦労掛申間敷候事 一此捨吉儀ニ付、惣而何様之六ヶ敷儀出来候共我等引請埒明、貴殿江少も御苦労掛申間敷候、且年季明御縁御座候而御召仕被下候内者、何ヶ年ニ而茂此請状ヲ以我等請人ニ罷立申処相違無(㊞)御座候、為後日請状仍而如件 大傳馬町弐丁目三番地 差配人 善右衛門店 請人 由兵衛㊞ 人主 喜兵衛㊞ 明治三午年三月 小津清左衛門殿」(端裏書)「改源八捨吉」

明治三年(1870)三月、奉公人請状之事は、小津清左衛門本店に勤務する捨吉の契約書である。明治三年から明治十年迄八ヶ年季給金弐両の契約である。元服して源八と改名している。

小津家文書8-265 「引取証 三重縣下伊勢国安藝郡三宅村 生田関治郎 伜 源八 右源八儀我等宿請仕貴殿方江雇人ニ願置候処今般依テ願永暇被下奉有難存候、則下拙迄引取申候、然ル上者当人儀ニ付如何様之事故出来候其我等引請貴殿江一切御迷惑相掛不申候、為後日引取一札依而如件 大傳馬町二丁目三十二番地 扇田豊治郎㊞ 明治十年丑十一月廿八日 小津清左衛門殿 御支配人中」

明治十年(1877)十一月廿八日、引取証は、証券界紙に書かれた源八退職願である。

小津家文書5-200 「奉願上候 今般源八儀依願御暇被下難有仕合ニ奉存候、然ル処源八所持之品物衣類夜着等迄御下渡シ被仰付冥加至極之至ニ奉存候、御礼奉申上候、已上 扇田豊治郎㊞ 明治十年丑十一月廿九日 ㊞ 小津御店 御支配人様」

明治十年(1877)十一月廿九日、源八退職願が認められた礼状である。

生田源八は、三重県鈴鹿市三宅町の出身で鈴鹿の寺から江月院に寺請している。明治三年三月の奉公人請状で同じ江月院は、源八、文松、佐兵衛の三人。(小津史料館 小西良明)

猫の足あと 江月院

2025年3月27日木曜日

深川浄心寺地中 唱行院

 法輪山 唱行院は、日蓮宗 法苑山 浄心寺 塔中の寺院。元禄8年(1659年)大経院日教が京橋で創建。(浄心寺 (江東区) - Wikipedia)

小津家文書5-199 「奉公人請状之事 一此捨次郎与申者生国ゟ能存慥成者ニ付、我等請人ニ罷立子年ゟ申年迄中年八ヶ年季給金弐両ニ相定、貴殿江手代奉公ニ差出申処実(㊞)正也 一御公儀様御法度之儀者不及申御家之御作法為相守可申候、若取逃欠落等致候ハヽ早速当人尋出し取逃之品相改、私引請急度相弁可申候、且諸勝負事堅為致申間敷候事 一宗旨之儀者代々日蓮宗寺者深川浄心寺地唱行院旦那ニ紛無御座候、若御法度之宗門抔与申者御座候ハヽ、右寺僧一同何方迄茂罷出申訳可致候事 一金銀御預ヶ被成国江買物等ニ被遣候節、又者御当地ニ而茂取引ニ被遣候節、勘定相違引負等致候ハヽ、私引請相済シ貴殿江少も御損御(㊞)苦労掛申間敷候事 一此捨次郎儀ニ付、惣而何様之六ヶ敷儀出来候共我等引請埒明、貴殿江少も御苦労掛申間敷候、且年季明御縁御座候而御召仕被下候ハヽ、何ヶ年ニ而も此請状ヲ以我等請人ニ罷立申処相違無御座候、為(㊞)後日請状仍而如件 深川佐賀町惣七店 請人 忠蔵㊞ 人主定兵衛㊞ 慶応元丑年八月 小津清左衛門殿」(端裏書)「周蔵 捨次郎」

慶応元年(1865)八月、奉公人請状 捨次郎は、元治元年(1864)~明治五年(1872)迄八ヶ年季給金弐両で小津清左衛門本店で働く契約である。元服して周蔵と改名、明治十七年(1884)、栄造跡支配人に就任した清水周蔵である。

小津家文書7-222 「資産御届ヶ 日本橋区大傳馬町壱丁目壱番地平民小津清左衛門出店主 清水周蔵 一平素之品行正郎 一家族無雇人四拾名 一所有不動産 一府下地処五拾三ヶ所 一同土蔵拾三ヶ所 一営業資本金拾万円也 一売買紙綿商 日本橋区大傳馬町壱丁目壱番地所有住居 〆 右各次之廉々相違無之候ニ付依而差配人連署調印仕直段数御届候也 右 清水周蔵 差配人 奥田直八 明治二十年十一月十一日 日本橋区長 伊藤正信殿」

明治二十年(1887)十一月十一日、日本橋区長 伊藤正信宛に提出した資産御届ヶの覚である、小津清左衛門本店の支店長は清水周蔵、差配人奥田直八。従業員は40名、東京の地所は53カ所、土蔵13カ所、個人商店の営業資本金は10万円であった。(小津史料館 小西良明)

法輪山  唱行院 東京都江東区三好1-3-19

猫の足あと 法苑山 浄心寺

2025年3月26日水曜日

龍松山 養泉寺

 龍松山 養泉寺は、三重県松阪市中町にある曹洞宗の寺院。小津清左衛門家ゆかりの寺で地蔵堂の寄進や、養泉寺末寺崇恩寺を松阪市上川町 長松寺の移築再建などがあります。長谷寺 能満院から奉戴した法華寺仏舎利は、本堂に祀られています。菩提寺としているのは、小津清左衛門家、分家森嶋家、分家小津権右衛門家、別家小津新兵衛家、新兵衛家の分家小津新七家です。

小津家文書18-244 「宗旨請込状之事 一高田宗貴寺檀那筒井孝伯弟貫之助 今般当地小津与次兵衛方へ養子ニ罷越候条、宗旨送状被差越候ニ付則禅曹洞宗当院檀那ニ致加入候、為後証仍宗旨請込状如件 松坂養泉寺印 天保七年申十一月 正全寺 宗旨請込状 養泉寺 右十一月十六日来ル□□ □□□□□□」

天保七年(1836)十一月、宗旨請込状之事は、貫之助が小津清左衛門家に入家するため宗旨替えとなり、今後正全寺の過去帳(宗門帳)から除かれ、養泉寺の過去帳(宗門帳)に記載されます。関連文書は正全寺に掲載。

「佛舎利奉戴縁起記 佛舎利奉戴法要記念 ・・・今回小津家に伝わり、代々丁重に供養されてまいりましたお釈迦様の遺骨である佛舎利を尊い因縁によって、養泉寺へ奉戴することになりました。この佛舎利は、奈良市法華寺町、真言律宗 法華寺(門跡氷室御所)ゆかりの佛舎利であり、「真言律宗 法華滅罪寺略縁起」によれば、法華寺は、光明皇后御願に成る日本総国分尼寺として創られた・・・現在の七年前十五代目清左エ門長倍氏(昭和三十八年他界)夫人博子氏(昭和五十七年他界)より佛舎利が代々継承されていることをお聞き致し、小津家と養泉寺との深い々佛縁を、更に強固なものにして戴くため、再三再四お願いを致してようやく御遺族全員のお許しを得て、奉戴実現の運びとなりましたこと養泉寺住職として喜跳に堪えません。・・・龍松山 養泉寺」(昭和六十三年五月十五日、抜粋)(小津史料館 小西良明)

八百万の神 龍松山 養泉寺

2025年3月22日土曜日

順光山 正全寺

 順光山 正全寺は、三重県津市安濃町粟加にある真宗高田派の寺院。

小津家文書24-513 「一札 私弟同姓 貫之助 今般願済之上其御地江聟養子ニ差進申候 一宗旨之儀者高田宗安濃郡粟加村正全寺ニ御座候、別紙寺送リ取添遣候 一貫之助 養子ニ指進申候上者向後御国法御取噯可被成候、勿論異議無御座候、為後日一札如件 津 筒井孝伯㊞ 天保七年申九月 小津與次兵衛殿」

天保七年(1836)九月、津の町医師筒井孝伯から小津與次兵衛に宛てた一札である。弟貫之助を小津清左衛門家の養子にする内容である。小津與次兵衛は、隠居名で小津清左衛門長澄のことである。貫之助は、小津清左衛門長柱である。別紙寺送リ取添は、宗旨送状の事である。

小津家文書18-245-1 「宗旨送状之事 一高田宗 筒井孝伯弟 二十六歳 貫之助 右是者代々当寺檀那ニ候処此度松坂小津与次兵衛方江養子ニ参候ニ付、当方宗旨相除送遣候自今以後貴寺旦那ニ御加入被成、為後証宗旨送リ一札如件 当国安濃郡粟加村 正全寺印 天保七年申九月 当国松坂 養泉寺 上包 粟加 宗旨送リ一札 正全寺」

天保七年(1836)九月、筒井孝伯家の菩提寺 真宗高田派正全寺から小津清左衛門家の菩提寺 曹洞宗養泉寺宛の宗旨送状である。

筒井孝伯家は代々蘭方医師である、菩提寺は正全寺、光沢寺で二ヶ寺とも真宗高田派寺院。津藩の藩医筒井朴庵の門弟は正全寺に石碑髭塚が建立されている。小津清左衛門家とは、七代小津清左衛門長保の妻慈源から縁戚が続き、九代小津清左衛門長澄、十一代小津清左衛門長柱は筒井家から入家した養子である。また筒井家縁戚の西井道仙義子は十二代小津清左衛門長篤である。分家森嶋文益は、筒井孝伯に入門し松坂本町で医院開業を行っている。(小津史料館 小西良明)