松生山 心海寺は、鈴鹿市若松中一丁目にある真宗高田派の寺院。開創時期は不詳ですが、天台宗から永正年間(1515年頃)真宗高田派に転じて現在に至っています。漂流した大黒屋光太夫の神昌丸の乗組員磯吉の菩提寺です。磯吉は光太夫と一緒にロシアから帰国し江戸に居住し、寛政十年(1798)十二月、若松村に一ヶ月余り帰郷しています。
長谷川太物店古帳 差引帳 「覚 勢州白子船、去ル寅極月中難破破船致、依之白子積問屋中相談難出来甚難渋ニ付船々為取建金子五百両借用致度旨白子兵太夫殿、倉田太左衛門殿、河合仁平次殿下向被致、坂倉小右衛門殿付添願被御座出ニ左候得共此荷物殊ニ先格無之事故相続出来不申旨申達候処再然相預候ニ付数日及参会積方勝手ニも相成無拠儀故仲間一統熟談致金子千両也用立遣証文取置申候向後右躰預入有之候共決而取上申間鋪候、為後日記置者也、則証文之写 借用申金子之事 合金千両也 但し文字小判也 右之金子此度舟之為取立借用申処実正也、返済之儀者来ル辰年ゟ両季ニ金五拾両宛壱ヶ年ニ都合金百両也来ル丑年迄十年賦無遅滞相済シ可申候、右船々何等之儀有之候共連印之者共急度返済可致候、万一相滞候ハヽ御町内御荷物積支配仕来候、積株相渡シ可申候間於当所右積株御取立可被成候其節一言違礼申間敷候、為後日依而如件 倉田太左衛門印 河合仁平次印 白子兵太夫印 天明三年卯四月 石川庄兵衛殿 長谷川源右衛門殿 長谷川次郎兵衛殿 長谷川市左衛門殿 大和屋九郎左衛門殿 綿屋宗兵衛殿 伊勢屋三右衛門殿 大黒屋三右衛門殿 長谷川六郎次殿 長谷川武右衛門殿 嶋屋六兵衛殿 田端屋次郎左衛門殿 田中次郎左衛門殿 加嶋屋次郎左衛門殿 大和屋三郎兵衛殿 小津権右衛門殿 藪屋四郎兵衛殿 布袋屋善右衛門殿 川喜田平四郎殿 川喜田久太夫殿 永田伊兵衛殿 長谷川次郎吉殿 前書之金子返済之儀毛頭相違無御座候、若相滞候ハヽ我等罷出急度埒明可申候、為後証仍而奥書如件 坂倉小右衛門印 天明三年卯四月 前書奥印坂倉小右衛門名前ニ有之候、然所右之株式我等引請候、依之前書之通毛頭相違無御座、為後証奥書如件 坂倉甚五右衛門印 天明四年辰十月」
去ル寅極月中難破破船は、天明二年(1782)十二月中、大黒屋光太夫船神昌丸の難破した積荷代金について白子積問屋白子兵太夫、倉田太左衛門、河合仁平次の三名から大伝馬町壱丁目太物問屋仲間二十二軒に宛てた覚である。このとき、小津清左衛門分家小津権右衛門が経営していた。
長谷川太物店古帳 差引帳 「覚 一大黒屋光太夫船、天明二壬寅極月荷物積在白子湊出帆仕候所其後帰国へ参り欤以今行方相知不申積合中一同難渋いたし候勿論船頭水主中未タ死生分明ニ候得共仲間相談之上左之通 覚 一金六両 石塔料経堂金 一金四両 乗組中香典 〆金拾両 右之通白子兵太夫殿下向ニ付預遣候、以上 行事頭 長谷川治郎兵衛 長谷川市左衛門 天明四年辰十月六日」
天明四年(1784)十月六日、大黒屋光太夫船神昌丸の行方が分からず三回忌を行っている。太物問屋仲間から江戸に来た時に白子兵太夫に石塔料経堂金、香典を頼んでいる覚である。石塔は、鈴鹿市若松東一丁目の共同墓地に大黒屋光太夫らの供養碑「釈久味霊 南無阿弥陁仏 俗名 光太夫 維時 天明四甲辰年 江戸大伝馬町一丁目 太物店行司頭 施主 長谷川次郎兵衛 長谷川市左衛門」が建立される。
回向院 勢州白子参州平坂溺死者供養塔「天明壬寅十二月十三日大黒屋光太夫之船名神昌丸出帆於勢州白子津所乗者船頭光太夫水主磯吉等凡十五人時海上風波巳暴漂流於東海数日而不知其所湊泊□年至於俄羅斯国而人以為溺死巳而七年矣為之建塔為後寛政癸丑五月光太夫磯吉告其国王而得帰吾 本邦矣其余或没船中或死彼土或淹彼国云々」
太物問屋大伝馬町組は、海難事故による供養は両国の回向院で施餓鬼供養や供養碑を建立、また海上安全祈願は佃の住吉神社で行うことになっていた。神昌丸の積荷には小津清左衛門江戸店宛の越前のとりのこ奉書が積まれていた(内田吉左衛門家文書)。(小津史料館 小西良明)