小津家文書に下古寺村(埼玉県比企郡小川町下古寺167)の梅松院の記録がある。
年中諸用控の記事には、毎年二月に記録がある。「金百匹 三峯山御札料 二月出府之砌札遣ス」とある。 三峯山は聖護院派天台修験の関東総本山観音院 高雲寺で「三峯大権現」と呼ばれていた。 また梅松院も本山修驗、京都聖護院の末 梅林山龍王寺(梅松院)と号し、水を得るため古寺鍾乳洞に籠って人大龍王の霊験を得た役行者が、自ら龍王の像を彫刻して祀った草庵に始まり、霊場としてしばしば行者の訪れるところとなっていたが、明治維新後の神仏分離に際し、修験宗廃宗とされたため高雲寺、梅松院は廃寺となり、三峯神社、下古寺天満天神社となっている(三峯神社 – Wikipedia、猫の足あと)。
小津家文書3-97 「金子預リ手形之事 一金三拾両(㊞)也 但シ文字金也 右金利分を以大般若転読幷護摩供修行天満宮造栄自坊致修覆余力有之候ハヽ、聖護御門主御継目大峯修行官位昇進之助成ニ為可致仙海被附置候、右本金入用之節者何時成共相(㊞)渡可申候、為後日金子預リ手形仍而如件 文化己巳二月三日 丸屋金兵衛㊞ 梅松院仙海様」 文化六年に大傳馬町壱丁目小津清左衛門の家守丸屋金兵衛が梅松院仙海宛に差出した文書であるが、印があり写しでないことから差出ていない可能性がある。
小津家文書8-263 「御請書 一金弐(㊞)拾両也 右者天満宮為永代護摩料御奉納被下慥ニ請(㊞)取幾久敷致神納候、以上 慶応三卯年十一月 武州小川古寺梅松院㊞ 小津清左衛門様 大橋太郎次郎様 伊勢屋清左衛門様」 慶應三年に梅松院から小津清左衛門江戸店三店に宛てた請書である。
下古寺村は、旗本肥田十郎兵衛の知行所で、文化十四年には高六一石余、反別は八町二反余、家数二十・人数百九、うち十軒が紙漉を行っており、前出紙舟役のほかに紙売出役銭四八文を納めていた(コトバンク)。
下古寺天満天神社は、明治には村社となっている。現在は、手水舎に太宰府天満宮と同じ梅花紋があり、鳥居の両端には八大龍王宮の石塔、鳥居の左側に伊勢大廟参拝記念石柱が二本、社号標村社天神天満宮、境内には、拝殿横に梅林山の扁額かかかり、境内社に八坂神社がある。細い注連縄が鳥居と拝殿にあるが紙垂はなく、石段も落葉が積り管理されていないようである。行者が使っていた古寺鍾乳洞は埼玉県指定天然記念物文化財となっている。
(小津史料館 小西良明)
参考
猫の足あと https://tesshow.jp/saitama/ogawa/shrine_fltera_ten.html
コトバンク 下古寺村
Omairi 下古寺天満天神社 https://omairi.club/spots/130247