2025年4月2日水曜日

井の頭弁財天

 井の頭弁財天は、都立井の頭恩賜公園内・井の頭池にあり、本坊は天台宗 明静山 大盛寺である。

弁天堂の周囲には、宇賀神像(年代不詳)、1771年(明和8年)の狛犬、手水鉢、1817年(文化14年)の石橋(一番組・湯屋講寄進)、1833年(天保4年)石燈篭(伊勢屋伊兵衛=現・にんべんら寄進)、など多くの寄進物が見られ、弁天信仰が盛んであったことを感じられる。(大盛寺 - Wikipedia)

長谷川木綿店古帳 差引帳 「覚 一井の頭弁財天四神殊已前当仲間ゟ奉納致有之趣、此度開帳ニ付右□□寄進願来り、昨十二月金拾両也奉納致候処猶又右之播茂□□敷趣を以□□願来無拠儀ニ付一同相談之上左之通 一金八両也 出方余時町金ゟ右之通致奉納世話人舛屋家主善兵衛殿江相渡候事 行事 大黒屋三郎助 蛭子屋六郎次 天保九年戌二月」

天保九年(1838)二月、井の頭弁財天の四神開帳に大伝馬町太物仲間より奉納金を世話人 舛屋家主善兵衛に渡した覚である。天保九年五月十五日より六十日間 井ノ頭弁財天開帳は、大盛寺において行われた。(小津史料館 小西良明)

井の頭弁財天 https://www.inokashirabenzaiten.com/

2025年3月28日金曜日

深川本誓寺地中 江月院

 深川本誓寺地中 江月院は、浄土宗 本誓寺の子院。

小津家文書5-202 「奉公人請状之事 一此捨吉与申者生国ゟ能存慥成者ニ付、我等請人ニ罷立当午年ゟ丑年迄中年八ヶ年季給金弐両ニ相定、貴殿江手代奉公ニ差出シ申処実正(㊞)也 一御公儀様御法度之儀者不及申御家之御作法為相守可申候、若取逃欠落等致候ハヽ早速当人尋出シ取逃之品相改、我等引請相弁可申候、且諸勝負事堅為致申間敷候事 一宗旨之儀者代々浄土宗深川本誓寺地中江月院旦那ニ紛無御座候、若御法度之宗門抔与申者御座候ハヽ、右寺僧何方迄茂罷出申訳可致候事 一金銀御預ヶ被成国江買物等ニ被遣候節、又者御当地ニ而も取引ニ被遣候節、勘定相違引負等致候ハヽ、我等引請相済シ(㊞)貴殿江少も御損御苦労掛申間敷候事 一此捨吉儀ニ付、惣而何様之六ヶ敷儀出来候共我等引請埒明、貴殿江少も御苦労掛申間敷候、且年季明御縁御座候而御召仕被下候内者、何ヶ年ニ而茂此請状ヲ以我等請人ニ罷立申処相違無(㊞)御座候、為後日請状仍而如件 大傳馬町弐丁目三番地 差配人 善右衛門店 請人 由兵衛㊞ 人主 喜兵衛㊞ 明治三午年三月 小津清左衛門殿」(端裏書)「改源八捨吉」

明治三年(1870)三月、奉公人請状之事は、小津清左衛門本店に勤務する捨吉の契約書である。明治三年から明治十年迄八ヶ年季給金弐両の契約である。元服して源八と改名している。

小津家文書8-265 「引取証 三重縣下伊勢国安藝郡三宅村 生田関治郎 伜 源八 右源八儀我等宿請仕貴殿方江雇人ニ願置候処今般依テ願永暇被下奉有難存候、則下拙迄引取申候、然ル上者当人儀ニ付如何様之事故出来候其我等引請貴殿江一切御迷惑相掛不申候、為後日引取一札依而如件 大傳馬町二丁目三十二番地 扇田豊治郎㊞ 明治十年丑十一月廿八日 小津清左衛門殿 御支配人中」

明治十年(1877)十一月廿八日、引取証は、証券界紙に書かれた源八退職願である。

小津家文書5-200 「奉願上候 今般源八儀依願御暇被下難有仕合ニ奉存候、然ル処源八所持之品物衣類夜着等迄御下渡シ被仰付冥加至極之至ニ奉存候、御礼奉申上候、已上 扇田豊治郎㊞ 明治十年丑十一月廿九日 ㊞ 小津御店 御支配人様」

明治十年(1877)十一月廿九日、源八退職願が認められた礼状である。

生田源八は、三重県鈴鹿市三宅町の出身で鈴鹿の寺から江月院に寺請している。明治三年三月の奉公人請状で同じ江月院は、源八、文松、佐兵衛の三人。(小津史料館 小西良明)

猫の足あと 江月院

2025年3月27日木曜日

深川浄心寺地中 唱行院

 法輪山 唱行院は、日蓮宗 法苑山 浄心寺 塔中の寺院。元禄8年(1659年)大経院日教が京橋で創建。(浄心寺 (江東区) - Wikipedia)

小津家文書5-199 「奉公人請状之事 一此捨次郎与申者生国ゟ能存慥成者ニ付、我等請人ニ罷立子年ゟ申年迄中年八ヶ年季給金弐両ニ相定、貴殿江手代奉公ニ差出申処実(㊞)正也 一御公儀様御法度之儀者不及申御家之御作法為相守可申候、若取逃欠落等致候ハヽ早速当人尋出し取逃之品相改、私引請急度相弁可申候、且諸勝負事堅為致申間敷候事 一宗旨之儀者代々日蓮宗寺者深川浄心寺地唱行院旦那ニ紛無御座候、若御法度之宗門抔与申者御座候ハヽ、右寺僧一同何方迄茂罷出申訳可致候事 一金銀御預ヶ被成国江買物等ニ被遣候節、又者御当地ニ而茂取引ニ被遣候節、勘定相違引負等致候ハヽ、私引請相済シ貴殿江少も御損御(㊞)苦労掛申間敷候事 一此捨次郎儀ニ付、惣而何様之六ヶ敷儀出来候共我等引請埒明、貴殿江少も御苦労掛申間敷候、且年季明御縁御座候而御召仕被下候ハヽ、何ヶ年ニ而も此請状ヲ以我等請人ニ罷立申処相違無御座候、為(㊞)後日請状仍而如件 深川佐賀町惣七店 請人 忠蔵㊞ 人主定兵衛㊞ 慶応元丑年八月 小津清左衛門殿」(端裏書)「周蔵 捨次郎」

慶応元年(1865)八月、奉公人請状 捨次郎は、元治元年(1864)~明治五年(1872)迄八ヶ年季給金弐両で小津清左衛門本店で働く契約である。元服して周蔵と改名、明治十七年(1884)、栄造跡支配人に就任した清水周蔵である。

小津家文書7-222 「資産御届ヶ 日本橋区大傳馬町壱丁目壱番地平民小津清左衛門出店主 清水周蔵 一平素之品行正郎 一家族無雇人四拾名 一所有不動産 一府下地処五拾三ヶ所 一同土蔵拾三ヶ所 一営業資本金拾万円也 一売買紙綿商 日本橋区大傳馬町壱丁目壱番地所有住居 〆 右各次之廉々相違無之候ニ付依而差配人連署調印仕直段数御届候也 右 清水周蔵 差配人 奥田直八 明治二十年十一月十一日 日本橋区長 伊藤正信殿」

明治二十年(1887)十一月十一日、日本橋区長 伊藤正信宛に提出した資産御届ヶの覚である、小津清左衛門本店の支店長は清水周蔵、差配人奥田直八。従業員は40名、東京の地所は53カ所、土蔵13カ所、個人商店の営業資本金は10万円であった。(小津史料館 小西良明)

法輪山  唱行院 東京都江東区三好1-3-19

猫の足あと 法苑山 浄心寺

2025年3月26日水曜日

龍松山 養泉寺

 龍松山 養泉寺は、三重県松阪市中町にある曹洞宗の寺院。小津清左衛門家ゆかりの寺で地蔵堂の寄進や、養泉寺末寺崇恩寺を松阪市上川町 長松寺の移築再建などがあります。長谷寺 能満院から奉戴した法華寺仏舎利は、本堂に祀られています。菩提寺としているのは、小津清左衛門家、分家森嶋家、分家小津権右衛門家、別家小津新兵衛家、新兵衛家の分家小津新七家です。

小津家文書18-244 「宗旨請込状之事 一高田宗貴寺檀那筒井孝伯弟貫之助 今般当地小津与次兵衛方へ養子ニ罷越候条、宗旨送状被差越候ニ付則禅曹洞宗当院檀那ニ致加入候、為後証仍宗旨請込状如件 松坂養泉寺印 天保七年申十一月 正全寺 宗旨請込状 養泉寺 右十一月十六日来ル□□ □□□□□□」

天保七年(1836)十一月、宗旨請込状之事は、貫之助が小津清左衛門家に入家するため宗旨替えとなり、今後正全寺の過去帳(宗門帳)から除かれ、養泉寺の過去帳(宗門帳)に記載されます。関連文書は正全寺に掲載。

「佛舎利奉戴縁起記 佛舎利奉戴法要記念 ・・・今回小津家に伝わり、代々丁重に供養されてまいりましたお釈迦様の遺骨である佛舎利を尊い因縁によって、養泉寺へ奉戴することになりました。この佛舎利は、奈良市法華寺町、真言律宗 法華寺(門跡氷室御所)ゆかりの佛舎利であり、「真言律宗 法華滅罪寺略縁起」によれば、法華寺は、光明皇后御願に成る日本総国分尼寺として創られた・・・現在の七年前十五代目清左エ門長倍氏(昭和三十八年他界)夫人博子氏(昭和五十七年他界)より佛舎利が代々継承されていることをお聞き致し、小津家と養泉寺との深い々佛縁を、更に強固なものにして戴くため、再三再四お願いを致してようやく御遺族全員のお許しを得て、奉戴実現の運びとなりましたこと養泉寺住職として喜跳に堪えません。・・・龍松山 養泉寺」(昭和六十三年五月十五日、抜粋)(小津史料館 小西良明)

八百万の神 龍松山 養泉寺

2025年3月22日土曜日

順光山 正全寺

 順光山 正全寺は、三重県津市安濃町粟加にある真宗高田派の寺院。

小津家文書24-513 「一札 私弟同姓 貫之助 今般願済之上其御地江聟養子ニ差進申候 一宗旨之儀者高田宗安濃郡粟加村正全寺ニ御座候、別紙寺送リ取添遣候 一貫之助 養子ニ指進申候上者向後御国法御取噯可被成候、勿論異議無御座候、為後日一札如件 津 筒井孝伯㊞ 天保七年申九月 小津與次兵衛殿」

天保七年(1836)九月、津の町医師筒井孝伯から小津與次兵衛に宛てた一札である。弟貫之助を小津清左衛門家の養子にする内容である。小津與次兵衛は、隠居名で小津清左衛門長澄のことである。貫之助は、小津清左衛門長柱である。別紙寺送リ取添は、宗旨送状の事である。

小津家文書18-245-1 「宗旨送状之事 一高田宗 筒井孝伯弟 二十六歳 貫之助 右是者代々当寺檀那ニ候処此度松坂小津与次兵衛方江養子ニ参候ニ付、当方宗旨相除送遣候自今以後貴寺旦那ニ御加入被成、為後証宗旨送リ一札如件 当国安濃郡粟加村 正全寺印 天保七年申九月 当国松坂 養泉寺 上包 粟加 宗旨送リ一札 正全寺」

天保七年(1836)九月、筒井孝伯家の菩提寺 真宗高田派正全寺から小津清左衛門家の菩提寺 曹洞宗養泉寺宛の宗旨送状である。

筒井孝伯家は代々蘭方医師である、菩提寺は正全寺、光沢寺で二ヶ寺とも真宗高田派寺院。津藩の藩医筒井朴庵の門弟は正全寺に石碑髭塚が建立されている。小津清左衛門家とは、七代小津清左衛門長保の妻慈源から縁戚が続き、九代小津清左衛門長澄、十一代小津清左衛門長柱は筒井家から入家した養子である。また筒井家縁戚の西井道仙義子は十二代小津清左衛門長篤である。分家森嶋文益は、筒井孝伯に入門し松坂本町で医院開業を行っている。(小津史料館 小西良明)

2025年3月21日金曜日

松生山 心海寺

 松生山 心海寺は、鈴鹿市若松中一丁目にある真宗高田派の寺院。開創時期は不詳ですが、天台宗から永正年間(1515年頃)真宗高田派に転じて現在に至っています。漂流した大黒屋光太夫の神昌丸の乗組員磯吉の菩提寺です。磯吉は光太夫と一緒にロシアから帰国し江戸に居住し、寛政十年(1798)十二月、若松村に一ヶ月余り帰郷しています。

長谷川太物店古帳 差引帳 「覚 勢州白子船、去ル寅極月中難破破船致、依之白子積問屋中相談難出来甚難渋ニ付船々為取建金子五百両借用致度旨白子兵太夫殿、倉田太左衛門殿、河合仁平次殿下向被致、坂倉小右衛門殿付添願被御座出ニ左候得共此荷物殊ニ先格無之事故相続出来不申旨申達候処再然相預候ニ付数日及参会積方勝手ニも相成無拠儀故仲間一統熟談致金子千両也用立遣証文取置申候向後右躰預入有之候共決而取上申間鋪候、為後日記置者也、則証文之写 借用申金子之事 合金千両也 但し文字小判也 右之金子此度舟之為取立借用申処実正也、返済之儀者来ル辰年ゟ両季ニ金五拾両宛壱ヶ年ニ都合金百両也来ル丑年迄十年賦無遅滞相済シ可申候、右船々何等之儀有之候共連印之者共急度返済可致候、万一相滞候ハヽ御町内御荷物積支配仕来候、積株相渡シ可申候間於当所右積株御取立可被成候其節一言違礼申間敷候、為後日依而如件 倉田太左衛門印 河合仁平次印 白子兵太夫印 天明三年卯四月 石川庄兵衛殿 長谷川源右衛門殿 長谷川次郎兵衛殿 長谷川市左衛門殿 大和屋九郎左衛門殿 綿屋宗兵衛殿 伊勢屋三右衛門殿 大黒屋三右衛門殿 長谷川六郎次殿 長谷川武右衛門殿 嶋屋六兵衛殿 田端屋次郎左衛門殿 田中次郎左衛門殿 加嶋屋次郎左衛門殿 大和屋三郎兵衛殿 小津権右衛門殿 藪屋四郎兵衛殿 布袋屋善右衛門殿 川喜田平四郎殿 川喜田久太夫殿 永田伊兵衛殿 長谷川次郎吉殿 前書之金子返済之儀毛頭相違無御座候、若相滞候ハヽ我等罷出急度埒明可申候、為後証仍而奥書如件 坂倉小右衛門印 天明三年卯四月 前書奥印坂倉小右衛門名前ニ有之候、然所右之株式我等引請候、依之前書之通毛頭相違無御座、為後証奥書如件 坂倉甚五右衛門印 天明四年辰十月」

去ル寅極月中難破破船は、天明二年(1782)十二月中、大黒屋光太夫船神昌丸の難破した積荷代金について白子積問屋白子兵太夫、倉田太左衛門、河合仁平次の三名から大伝馬町壱丁目太物問屋仲間二十二軒に宛てた覚である。このとき、小津清左衛門分家小津権右衛門が経営していた。

長谷川太物店古帳 差引帳 「覚 一大黒屋光太夫船、天明二壬寅極月荷物積在白子湊出帆仕候所其後帰国へ参り欤以今行方相知不申積合中一同難渋いたし候勿論船頭水主中未タ死生分明ニ候得共仲間相談之上左之通 覚 一金六両 石塔料経堂金 一金四両 乗組中香典 〆金拾両 右之通白子兵太夫殿下向ニ付預遣候、以上 行事頭 長谷川治郎兵衛 長谷川市左衛門 天明四年辰十月六日」

天明四年(1784)十月六日、大黒屋光太夫船神昌丸の行方が分からず三回忌を行っている。太物問屋仲間から江戸に来た時に白子兵太夫に石塔料経堂金、香典を頼んでいる覚である。石塔は、鈴鹿市若松東一丁目の共同墓地に大黒屋光太夫らの供養碑「釈久味霊 南無阿弥陁仏 俗名 光太夫 維時 天明四甲辰年 江戸大伝馬町一丁目 太物店行司頭 施主 長谷川次郎兵衛 長谷川市左衛門」が建立される。 

回向院 勢州白子参州平坂溺死者供養塔「天明壬寅十二月十三日大黒屋光太夫之船名神昌丸出帆於勢州白子津所乗者船頭光太夫水主磯吉等凡十五人時海上風波巳暴漂流於東海数日而不知其所湊泊□年至於俄羅斯国而人以為溺死巳而七年矣為之建塔為後寛政癸丑五月光太夫磯吉告其国王而得帰吾 本邦矣其余或没船中或死彼土或淹彼国云々」

太物問屋大伝馬町組は、海難事故による供養は両国の回向院で施餓鬼供養や供養碑を建立、また海上安全祈願は佃の住吉神社で行うことになっていた。神昌丸の積荷には小津清左衛門江戸店宛の越前のとりのこ奉書が積まれていた(内田吉左衛門家文書)。(小津史料館 小西良明)

2025年3月20日木曜日

宝田恵比寿神社

 宝田恵比寿神社は、太田道灌時代に宝田村に鎮守された宝田神社で、天正十八年(1590)八月、馬込勘解由は江戸に入り徳川家康より宝田村の肝煎りを仰せ付けられ、江戸城拡張により慶長十一年(1606)、大伝馬町創立と共に移り傳馬役兼帯名主 馬込勘解由、同 佐久間善八、傳馬役 赤塚善右衛門、同 舛木七左衛門、同 冨山四郎左衛門、神社もこのとき移転しています。

小津家文書11-51-8 「永代売渡シ申家屋鋪之事 一大傳馬町壱丁目北側西角ゟ弐軒目、表京間拾間裏行町並地尻横幅京間拾間五尺壱寸之我等家屋敷、代金㊞三千両ニ永代売渡シ、名主五人組家屋鋪売主立合、右之金子慥ニ請㊞取申所実正也、此家屋敷ニ付 御公儀様ゟ御構無御座候、其上借金之方へ書入不申候、横合ゟハ不及申、子々孫々ニ至迄違乱申者無御座候、此家屋敷ニ付、何様之出入御座共此加判之我々罷出、貴殿家屋敷ニ紛無之由、急度埒明ヶ可申候、為後日名主五人組加判致永代売券状仍如件 家屋鋪売主 善八㊞ 五人組 又兵衛㊞ 同 伊兵衛㊞ 名主 勘解由㊞ 元禄十七年申三月廿九日 小津清左衛門殿 ㊞㊞㊞ 地主惣三郎殿 小津三四右衛門殿 芝原三郎兵衛殿

(継目)右四人持合屋鋪之内三四右衛門所持分、表京間弐間半裏行町並裏幅弐間半壱尺余之処、竹内四郎兵衛方江代金六百両ニ売渡申所実正也、依之向後私代リ四郎兵衛与四人一所之持合屋鋪ニ罷成候、右古券状ニ拙者宛名御座候ニ付向後不相用候、依之名主五人組継印仍如件 家屋鋪売主 三四右衛門㊞ 五人組 藤九郎㊞ 同 庄兵衛㊞ 名主 馬込勘解由㊞ 元文二年巳四月十六日 小津清左衛門殿 地主惣三郎殿 芝原三郎兵衛殿」

元禄十七年(1704)三月廿九日、佐久間善八が大伝馬町壱丁目の名主を退役し、所有三ヶ所の内一ヶ所を借りている太物仲間四人に売却した証文である。譲り受けたのは松坂の小津清左衛門、相可の地主惣三郎、松坂の小津三四右衛門、津の芝原三郎兵衛である。

元文二年(1737)四月十六日、太物仲間四人持合所有地の内小津三四右衛門が仲間三人に売却する継証文である。小津三四右衛門は、元文五年(1740)まで営業を続けている。立合の名主馬込勘解由はこのときは、苗字が許されている。

大伝馬町壱丁目南側・堀留町壱丁目屋敷図

小津家文書11-7 「証文之事 一貴殿所持堀留町壱丁目西角ゟ五軒目表京間九間裏行町並六間四尺五寸地尻ニ大下水を隔、間口三間奥行四間之添地、但此坪拾弐坪ニ而壱ヶ所此度我等方江別紙本証文之通、永代買求加判之者立合、代金不残相渡申候、然ル処右地面之儀者四方出口無之袋地ニ相成候得共、我等懇望致買求申候、尤是迄堀留町壱丁目惣坪数内ニ有之候間、町入用幷七分積金家守給金其外共出銀被致到来、町役被相勤候通、以来迚茂右拾弐坪丈ヶ之町入用割合出銀致、尤沽券状書改候迄者貴殿方江相渡可申候、右者此度新規沽券状金子引替御渡可被成之処、差支之儀有之候間、別紙之通仮証文を以買請申候、向後万一表地面外江売渡ニ相成、地主相替リ候節者、此証文を証拠ニ致シ、其節之町役人中江調印相頼、沽券状改可申候、為後日証文入置申候、仍如件 升屋七左衛門㊞ 右店支配人 常八㊞ 天保九戌年十月 小津清左衛門殿 店支配人 常七殿」

天保九年(1838)十月、升屋七左衛門支配人常八から小津清左衛門常七宛の証文である。内容は、堀留町一丁目の小津清左衛門地所と升屋七左衛門地所が背中合わせのため一部の土地を升屋七右衛門に譲渡する証文です。升屋七左衛門は、久須木七左衛門の事で、伊勢国から宝田村に移り住んだ人で大伝馬町創立と同時に無沽券で土地を拝領しています。寛永三年(1626)に木綿問屋升屋七左衛門を開業しています。(小津史料館 小西良明)

宝田恵比寿神社べったら市保存会 宝田神社 恵比寿神 御縁起と大伝馬の由来