2024年11月29日金曜日

寶林山 霊雲寺

元禄四年、浄厳律師覚彦により創建された寺で、江戸幕府将軍徳川綱吉から現寺地を得て、霊雲寺を開創した。元禄七年には関八州の真言律宗の総本寺とされた。関東大震災、第二次世界大戦の戦災で堂宇を焼失し、現在の堂宇は戦後復興されたものである。昭和二十二年に真言宗霊雲寺派を公称して真言律宗から独立した(霊雲寺 - Wikipedia)。

年中諸用控「一金三両也 湯島㚑雲寺 於悲様御祈祷国月金百疋増毎年正月十日持参可致事 右ハ九月ゟ御鹿様名前ニ加ル甲寅年四月是迄於志賀様有之候相止家内安全ト共御祈祷致世□□」御鹿様・於志賀様は、小津清左衛門長澄長女、小津清左衛門長堯、長柱の妻(嘉永七年三月十八日卒 享年四十六歳)である。

小津家文書11-51-4 「永代売渡申家屋敷之事 本町四丁目北側東角表口京間八間裏行町並弐拾間地尻横幅京間八間有之・・・」(継書)「前書之町屋鋪此度其許江譲リ渡候、依之五人組名主立合継書致置候所仍如件 文化十二亥年十一月十九日 譲リ渡主清左衛門㊞ 五人組五兵衛㊞ 同清次郎㊞ 同利七㊞ 名主文左衛門㊞ お志賀との」文化十二年十一月の譲り主清左衛門は女戸主となった後家の小津慈源で、孫のお志賀(六歳)に向店大橋屋太郎次郎がある土地を譲った沽券状である。お志賀はその後婿養子を迎える。明治六年、本町四丁目廿三番に小津シガの名があります(地租改正沽券図から見る小津清左衛門東京所有地)。

小津家文書3-121 (包紙)「証状」「証状 一金十両也 右者為小津氏先祖代々菩提幷家門繁栄子孫長久為永代御祈祷大施餓鬼料所寄附也者毎年三月八日修行之永不可退転者也仍証状如件 霊雲寺知事㊞(角印) 嘉永元年戌申五月十五日 小津清左衛門殿」毎年三月八日としているのは創業者小津清左衛門長弘(宝永七年三月八日卒 享年八十六歳)の命日で、嘉永元年五月の施餓鬼供養は、養子の小津清左衛門長柱である。この五月に養子孫助(濱田守造弟)を不縁にしている。

                      (小津史料館 小西良明)

猫の足あと 宝林山霊雲寺

2024年11月28日木曜日

芝愛宕 円福寺

 愛宕権現社は、慶長八年徳川家康の命により創建。また、徳川家康が信仰した勝軍地蔵菩薩を勧請し、愛宕神社を創建。同神社の本地仏として別当寺の円福寺に祀ったことに始まる。明治維新時の廃仏毀釈により円福寺が廃寺になると、勝軍地蔵菩薩像は近くの真福寺に移されたが、関東大震災で焼失。1934年の弘法大師1100年御遠忌記念として銅製で復元され、現在は、1997年に建設された真福寺・愛宕東洋ビル一階外側に祀られている(愛宕神社 (東京都港区) - Wikipedia)。

安永六年七月朔日より六十日間、芝愛宕の(真言宗智山派)円福寺に於いて羽黒山 玄良坊によって於竹大日如来出開帳が行われた。

年中諸用控「拾弐匁 愛宕講 講元竹川氏」(貼紙)「此分見合せ」

小津家文書3-92「申 小津清左衛門 酉 下村正右衛門 戌 坂江吉右衛門 亥 村田七右衛門 子 大橋屋清左衛門 丑 黒江屋孫右衛門 寅 島田新七殿 卯 大村和吉郎 辰 柏原孫左衛門 〆十六年決議□□ □□」明治十六年に決議された明治十七年から二十五年迄の愛宕講の行事当番である。

小津家文書3-90 (包紙)「廻章 竹川講」「口演 御廻章ヲ申上候、然者本日芝愛宕山大祭執行被致候ニ付、参詣罷呉候様被申越候間此度御通達申上候也 但御参詣之御通リニ者午後壱時堀江町田口方へ御入来可申候 小津清左衛門 五月廿四日 柏原孫左衛門様 村田七右衛門様 下村正右衛門様 坂江吉右衛門様最早参詣致候間田口□□候通御断申上也 島田新七様 大村和吉郎様 黒江屋孫右衛門様 大橋屋清左衛門様㊞次第不向御用捨可被成候、以上」

小津家文書28-688 (包紙)「廻章 竹川講」小津家文書28-689 「口演 以廻章ヲ申上候、陳ハ昨日ハ愛宕山御参詣御苦労様ニ奉存候、就テハ其砌入費別紙之通ニ御座候間宜御参引可被成下候、以上 行事小津清左衛門㊞ 五月廿五日 柏原孫右衛門様御済申上候 村田七右衛門様御渡申上候 下村正右衛門様御渡申上候 坂江吉右衛門様引取 嶋田新七様御渡申上候 御厚顔申候 黒江屋孫右衛門様同 大橋屋御店中同 大村和吉郎御済申上候 次第石田御用捨可被成下候」

小津家文書28-691 「記 一金壱円也 御祈祷御払料 一金五円弐拾四銭 田口払但席料女中□□□ 〆金六円弐拾四銭 右九軒割壱名分 一金六拾九銭御届づつ右之通御出金此度御□御願申上候、以上 行事㊞ 五月廿五日 各々様」

小津家文書28-690 「記 一□三円三拾弐銭 あらや □屋□ □□□ 払戻同町分□付 一四拾弐銭 滞納 一□壱円 席料 一五拾銭□□□□ 〆㊞□五円弐拾四銭 右正ニ㊞受取申候 五月廿五日 △久 田口㊞ 御店様」

小津家文書3-91 「文略御高免可被成下候、然者戌愛宕講御為ニ付出頭可仕心組ミ罷在候所、差掛リ無拠用向出来出席致兼候間、ふ□ん御承知可被下候様奉願上候、先者右御断迄申上度、如此御座候也 五月廿九日 (封状表)愛宕講御行事小津清左衛門様 大村和吉郎江御用之」明治十七年五月廿九日、大村和吉郎から小津清左衛門宛、明治十九年の愛宕講には用事がある為出席できない。

明治十七年五月二十四日の芝愛宕山大祭が行われ、行事は、小津清左衛門本店が行事当番で、参加者は、小津清左衛門大伝馬町壱丁目紙店小津屋、本町四丁目紙店大橋屋、柏原孫左衛門本町四丁目呉服店柏屋、塗物店黒江屋、村田七右衛門本町四丁目紙店村田屋、下村正右衛門通旅籠町呉服店大丸屋、坂江吉右衛門本石町四丁目呉服店大黒屋、嶋田新七本船町水油仲買嶋田屋、大村和吉郎は清酒醸造カ、いづれも近隣の店である。 講元竹川氏は不明。                   (小津史料館 小西 良明)

港区/デジタル版 港区のあゆみ 眺望と信仰の名所・愛宕権現社

愛宕神社 https://atago-jinja.com/

2024年11月27日水曜日

秋葉山 秋葉寺

秋葉寺はもともと新義真言宗であったが、寛永ニ年秋葉寺は曹洞宗に帰属し、可睡斎の末寺となった。貞享ニ年の貞享の秋葉祭り以降、秋葉権現は火難除けの神として広く知られ、全国各地に秋葉講が結成されて、遠州秋葉参りが盛んになった(秋葉権現 - Wikipedia)

伝馬役伊東平左衛門宗仲は、慶長十一年に兼帯大傳馬町名主となり、元和元年五月大坂表より御凱陣遠州浜松宿御馬込橋で御目見江し五百人の人足を引き連れ家康を迎えた、喜んだ家康から伊東苗字から地名馬込に上意、夫より馬込勘解由と名乗ます。


年中諸用控には「遠州秋は宿坊」(貼紙)「嘉永元申年改 一小玉之処銭三百文遣ス 年頭計 支配人久蔵ニ而」「一金百五十疋 正月小一ゟ集メ 秋葉講」小一は上部に小、下部に一の屋号。「一金百疋ヅヽ 遠州秋葉山 本所宿坊へ遣ス」(貼紙)「四ヶ処之内 一金三拾銭 一五九」明治には、一月、五月、九月に奉納している。本所宿坊は、修験道千葉山満願寺のことと思われる(猫の足あと)。

小津家文書29-769 「乍恐以書附奉願上候、東海道沼津宿之儀、去九月十六日夜丑上尅自隣町出火有之、折節東北風烈敷軟付宿内九分通類焼仕候、漸翌十七日辰家財持逃申候間も無之、諸道具等不残焼失仕候、右ニ付今般奉願上候者旧来之御定宿相勤申来候御由緒ニ以、普請御助力相願度何卒格別之御取成ヲ以願意御聞済被下置候ハヽ難有仕合ニ奉存候、尚此上普請出来之上永久不相替御定宿相勤申度御仁恵之程偏ニ奉願上候、依之此段以書附奉申上候呉々茂奉願上候、以上 沼津宿 御定宿 元曽居右衛門㊞ 慶応元丑十月 小津清左衛門様 御支配人御衆中様」
慶応元年(1865)十月、沼津宿 御定宿 元曽居右衛門から小津清左衛門御支配人御衆中宛で隣町から出火し類焼した被害の助力願の書付である。沼津宿 元斎居右衛門は、小津の江戸往来時の定宿である。

小津家文書29-766 「御請書 一金拾㊞五円也 右者私儀先般類焼仕候ニ付其後御願申上候処前書之金子御助力被成下置畳難有仕合ニ奉存候、依之御請一札奉差上候処如件 東海道沼津宿御定宿元曽居右衛門㊞ 慶應元丑十一月 小津様 御三店御衆中様」
慶応元年(1865)十一月、沼津宿 御定宿 元曽居右衛門から小津御三店御衆中宛で、御請書は類焼の助力金拾五円の受領書である。御三店は、小津本店小津屋清左衛門、向店大橋屋太郎次郎、太物店伊勢屋清左衛門である。

岡野谷松兵衛(岡埜谷家古文書)は、江戸茶問屋二十軒仲間大橋屋太郎次郎(小津清左衛門向店)とお茶の取引がある(島田市博物館)。 (小津史料館 小西良明)

島田市博物館 公開中の古文書目録一覧 岡埜谷家古文書目録

猫の足あと 秋葉神社(修験道千葉山満願寺)

秋葉総本殿可睡斎 https://www.kasuisai.or.jp/

秋葉山本宮秋葉神社 https://www.akihasanhongu.jp/

2024年11月23日土曜日

戸隠山 顕光寺

戸隠山勧修院顕光寺は、平安時代から鎌倉時代まで全国にその名を知られた修験道場戸隠十三谷三千坊で多くの修験者や参詣者を集めた。江戸時代は、徳川家康から朱印高千石を与えられて「戸隠山領」が成立。東叡山寛永寺の末寺となり、次第に農業や水の神としての性格が強まり、山中は次第に修験道場から門前町へと変貌してる。明治時代は、明治政府によって神仏分離令や修験宗廃止令のため、戸隠山顕光寺は寺を分離して戸隠神社となる(戸隠神社 - Wikipedia)。

年中諸用控には、「一鳥目金百銅 信州戸隠様(貼紙)明治廿八年改正金三拾銭から改五拾銭となっている。「一金百匹 戸隠講 四月講寄之節持参ス 講元升屋太兵衛両国青柳也」四月、戸隠講の寄合に金百疋を持参している、講元升屋太兵衛は、本町一丁目に繰綿・下り蝋燭店を持つ両国に住む青柳氏である。

小津家文書4-168 (封筒)「信濃商会設立変リ証書」(証券界紙)「証 今般信濃商会設置之儀ニ付、唯差引上之御約定ヲ以及調印被下度候也、然ル上者社件ニ付不都合等出来候而も決テ貴店へ御迷惑相掛ヶ申間敷候、依テ為引上趣意如件 信濃国小縣郡上田町商会惣代徳嶋武之助㊞ 石森又四郎㊞ 明治十五年二月廿七日 小津清左衛門殿御支配釜田栄蔵殿」釜田栄蔵については鹿野山神野寺を参照。          

小津家文書1-24 (封筒)「為替証書入 大信堂紙店」の他に明治四拾五年子六月六日、紙商信州上田松尾町大信堂紙店の紙代金の証書三点がある。 

小津家文書2-38 (封筒)「証書壱通 青島信松」「借用金証書」は、大正二年四月弐日、長野縣小縣郡上田町の青島氏の借用書である。(小津史料館 小西 良明)

戸隠神社 https://www.togakushi-jinja.jp/

2024年11月22日金曜日

愛宕山 白雲寺

 京都愛宕山から十月頃に江戸へ来られ、江戸からは、愛宕講として京都愛宕山へ参詣している。白雲寺は、愛宕権現を祀る白雲寺と知られていた。白雲寺は明治に廃寺となり、愛宕神社は愛宕さんと呼ばれている。


年中証用控には、「金三百疋 京都 愛宕山 正五九 十月頃御下向之節指上ル也 尤翌年右三ヶ月ト印遣ス」十月に京都から来られた時に正月、五月、九月の三ヵ月分を渡している。

小津清左衛門本店、大橋屋太郎次郎向店の芝愛宕山愛宕講は、芝愛宕  円福寺をご覧ください。 

小津清左衛門長柱は、松坂の愛宕山竜泉寺によく参詣しています(長柱日記)。

高野山真言宗 愛宕山竜泉寺 https://r.goope.jp/atagosanryusenji/

愛宕神社 https://atago-jinja.com/

2024年11月21日木曜日

鹿野山 神野寺

 小津清左衛門長康は、元文五年(1740)、紀州高野山太師堂、上総の鹿野山に永代祈祷料三十両を納め、江戸店の隆昌を祈祷する(小津商店由来『松阪市史第十二巻』)。


年中諸用控には「 一金五両也 鹿野山神野寺 常燈明油代  一金三両也 同所 月並御祈祷料 国年金百疋増  一金百匹 同所 店初穂  一金百疋 同所 講中 初尾 但し集銭之内ニ包残銭預り増 外ニ青銅弐十疋 舟賃也 此分も講中集銭之内ゟ出ス 右之通私拵毎年三月廿五日出立」とある。毎年三月に鹿野講があり江戸から参詣していた。

小津家文書23-466 (包紙)「寄附金 鹿野山 金拾壱円入 請取書入」  

小津家文書23-467「第十五号 証 一金拾㊞壱円也 右ノ金奉納被成正ニ落掌候也 鹿野山事務所㊞ 明治十七年七月廿一日 釜田栄造様」明治十七年(1884)七月二十一日。

小津家文書23-468「受領証 一金弐拾円也 右御奉納金正請取候也 鹿野山事務所庶務課㊞ 明治十七年七月廿一日 釜田栄蔵殿」

釜田栄蔵は、慶応元年(1865)初登り、子供衆から元服、金之助改名栄蔵(小津家文書11-27「奉公人請状之事」)、明治十三年(1880)に小津清左衛門本店支配人(小津家文書10-322「委任状之事」)、明治十四年(1881)二月に渋沢栄一推薦で東京商法会議所に入会、同年六月に退会、小津清左衛門長篤は、明治十一年(1878)創設時議員、明治十二年(1879)二月に出席致し難く除名退会している(渋沢栄一記念財団「渋沢栄一伝記資料」)。   (小津史料館 小西 良明)                                              

真言宗智山派 鹿野山 神野寺 https://jinyaji.web.fc2.com/

2024年11月20日水曜日

梅林山 梅松院

三峯山は聖護院派天台修験の関東総本山観音院 高雲寺で「三峯大権現」と呼ばれていた。また梅松院も本山修驗、京都聖護院の末 梅林山龍王寺(梅松院)と号し、水を得るため古寺鍾乳洞に籠って人大龍王の霊験を得た役行者が、自ら龍王の像を彫刻して祀った草庵に始まり、霊場としてしばしば行者の訪れるところとなっていたが、明治維新後の神仏分離に際し、修験宗廃宗とされたため高雲寺、梅松院は廃寺となり、三峯神社、下古寺天満天神社となっている(三峯神社 – Wikipedia、猫の足あと)。小津家文書に下古寺村(埼玉県比企郡小川町下古寺167)の梅松院の記録がある。


 年中諸用控の記事には、毎年二月に記録がある。「金百匹 梅林山梅松院 三峯山御札料 二月出府之砌札遣ス」とある。

小津家文書3-97 「金子預リ手形之事 一金三拾両()也 但シ文字金也 右金利分を以大般若転読幷護摩供修行天満宮造栄自坊致修覆余力有之候ハヽ、聖護御門主御継目大峯修行官位昇進之助成ニ為可致仙海被附置候、右本金入用之節者何時成共相()渡可申候、為後日金子預リ手形仍而如件 文化己巳二月三日 丸屋金兵衛㊞ 梅松院仙海様」 文化六年(1809)、大傳馬町壱丁目小津清左衛門の家守丸屋金兵衛が梅松院仙海宛に差出した文書であるが、印があり写しでないことから差出ていない可能性がある。

小津家文書8-263 「御請書 一金弐()拾両也 右者天満宮為永代護摩料御奉納被下慥ニ請()取幾久敷致神納候、以上 慶応三卯年十一月 武州小川古寺梅松院㊞ 小津清左衛門様 大橋太郎次郎様 伊勢屋清左衛門様」 慶應三年(1867)に梅松院から小津清左衛門江戸店三店に宛てた請書である。

下古寺村は、旗本肥田十郎兵衛の知行所で、文化十四年(1817)には高六一石余、反別は八町二反余、家数二十・人数百九、うち十軒が紙漉を行っており、前出紙舟役のほかに紙売出役銭四八文を納めていた(下古寺村-コトバンク)。 

下古寺天満天神社は、明治には村社となっている。現在は、手水舎に太宰府天満宮と同じ梅花紋があり、鳥居の両端には八大龍王宮の石塔、鳥居の左側に伊勢大廟参拝記念石柱が二本、社号標村社天神天満宮、境内には、拝殿横に梅林山の扁額かかかり、境内社に八坂神社がある。細い注連縄が鳥居と拝殿にあるが紙垂はなく、石段も落葉が積り管理されていないようである。行者が使っていた古寺鍾乳洞は埼玉県指定天然記念物文化財となっている。

                         (小津史料館 小西良明)

参考

猫の足あと https://tesshow.jp/saitama/ogawa/shrine_fltera_ten.html

コトバンク 下古寺村 

Omairi 下古寺天満天神社 https://omairi.club/spots/130247